子どもに「一人一台」のタブレット端末を配る「GIGAスクール構想」について、皆さんの声シリーズの続きです。
※ 元になった文章「タブレット端末を使った小学校の授業」
前回までの投稿 浦島清一さん「物事の不思議さを感じられるのか?」
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今回は、福島市在住の元新聞記者、小林茂さんのご意見を紹介します。ぜひお読みください。
【小林茂さんからのご意見】
題名: 鉛筆とメモ帳だった
メッセージ本文:
学校現場でタブレット端末――というテーマからは外れてしまいますが、頭に浮かんだことを書きます。
表題の「鉛筆とメモ帳だった」というのは、昭和が平成に変わる前後まで、取材現場では今のようなパソコン、携帯電話、そして撮ってすぐ送れるデジタルカメラなどのないアナログの世界だったことを思い出して、つけたものです。出先にいてもパソコンや携帯電話によって情報を取れる”便利”な時代に暮らしていて、ふと思うのは、記者なりたての頃、災害取材で長期にわたって現場に張り付いた当時、このようなツールがあったら、疑問を抱いた事柄にアクセスして、上っ面ではなく、より密度の濃い取材と記事を書けただろうな、と。
そんな便利ツールのなかったあの当時は、翌日の取材テーマを出し合い、それに基づいて、相手を訪ね、話を聞いて、手書き原稿を出し、ということの繰り返しで、今思えば、随分粗雑な取材で記事を書き殴っていたものだ、と思うところがあります。
あの頃、いちいち細かいことを言ってきて、うるさいなあ、と感じていた校閲の人たちが、今でいう、パソコン検索に相当するのかもしれないなあと思うところもあり、そのように考えると、うるさ型の校閲の人たちがいて、ずいぶん救われたのだなあ、と遠い目をすることもあります。
ウネリウネラさんの子どもさんを見ていると、生身の世界がまずあって、その中で日々体験や経験を積んでいる。これはおそらくタブレットの世界では得られないものだろうな、と感じています。他の子どもさんたちがどうなのかは、それぞれに異なるのでしょうが、タブレットもPCもツール以上のものではない、ということでしょうね。
記者パソコンで書かれた記事は、「一見非の打ち所がないように見えてデスク泣かせだった」という新聞業界におけるデジタル草創期とも重なり、整って見えることの奥や裏側にあるものを見通す力を、もしかしたら教育現場のデジタル化はスポイルしつつあるのではないか、と私見ですが、危惧しています。
【ウネリウネラから一言】
「整って見えることの奥や裏側にあるものを見通す力を、もしかしたら教育現場のデジタル化はスポイルしつつあるのではないか 」
とても重要な指摘だと感じました。
もちろん使い方次第なのだと思いますが、タブレット授業がともすれば「表面のきれいさを競い合う」ことにならないか。注意深く見ておく必要があるように思います。
元新聞記者の小林さんは、自らの若手記者時代のことも書いてくれました。記者OBの方って、どちらかと言うと「あの頃はよかったぜ」というようなことを書きたがる傾向にあると思いますが、小林さんは違いますね。デジタル機器がなくて十分な情報が集められなかったことを、「随分粗雑な取材で記事を書き殴っていた」と書いています。
実際には「 相手を訪ね、話を聞いて、手書き原稿を出し」ということのいいところもあったんでしょうけれど、それを美化せず、客観的に見ているところに敬意を表します。
今回も大切なことを書いていただきました。小林さん、ありがとうございました。
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