みなさんの声⑦タブレット端末を使った小学校の授業

落書き帳

 引き続き、子どもに「一人一台」のタブレット端末を配る「GIGAスクール構想」についての皆さんの声です。

※ 元になった文章「タブレット端末を使った小学校の授業

 前回までの投稿  浦島清一さん「物事の不思議さを感じられるのか?」

          本田宏さん「考える教育につながるのかが重要」

         ゴッサム市民さん「 ICT教育雑観 」

         有馬佑介さん「タブレットと教育」

         深瀬幸一さん「現実世界だって豊かだ」

         小林茂さん「鉛筆とメモ帳だった」

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 今回は、福島県いわき市在住の「きつねいぬ」さんの文章を紹介します。ぜひお読みください。


【きつねいぬさんからのご意見】

題名:教育というのは

教育というのは、ヒトとヒトとが出会って「人間」が形成されていく場所だと思います。
「身体を伴った知性」を育てる教育という仕事は、五感をフル回転させて生徒を観察し、かつ、その外側からの情報と、内面で起こっているコトバと、コトバにならないうねりのような感触とが重ね合わせられる、その成長の瞬間を見逃さずにサポートする。そういう仕事だと思っています。

確かに既存の(ネットに浮遊する)知識を得るにはICTを使った訓練も必要だし、メディアが変わればそれに合わせた「知性」の形も生成されてくるものだと思います。

道具が知性の「延長」として用いられる以上、こどもをその環境から隔離するのは沙汰の限りでしょう。

でも、教育は、特に学校教育は、枠組みを作って内容を整序して、ある面では強制しつつも、根本的には身体を伴った知性と感情の総体同士が異なる個体として出会い、そこからコトバを紡いでいくことによって関係性を学び、そこで身につけたことを基盤として「自由」と「自立」を獲得せしめていくものだと理解しています。

大学の多人数を相手とした講義なんてものは対面でなくて結構。
少人数ゼミも、知的な相互の多重な言語化がネット上で十分できる範囲では、あり、だと思います。

しかし、あくまで「精神は身体の観念」ですから、身体を伴った「出会い」と、そこから立ち上がって生成されてくる「言語」コミュニケーションの質は、担保し続ける必要がありそうです。とくに年少のこどもたちにとっては。

結論。
忙しい小学校の先生方が、ICTやら英語やらを使いこなせないうちはまだ安心していていいと思います。

教員が、上手につかうことを目的としたICTや語学の虜になったときの方がむしろ心配です。
みんな画面をみているだけじゃあ、ね。
そしてネットに転がっているコトバをひろってくるだけでは、ね。


【ウネリウネラから一言】

「特に学校教育は、・・・ 根本的には身体を伴った知性と感情の総体同士が異なる個体として出会い、そこからコトバを紡いでいくことによって関係性を学び、そこで身につけたことを基盤として『自由』と『自立』を獲得せしめていくもの 」

 大切なご指摘だと思いました。

 「異なる個体として出会う」というのが大事ではないでしょうか。人だけでなく、動物や自然、あるいは物。すべてに対して「異なる個体として出会う」。「そこからコトバを紡いでいくことによって関係性を学ぶ」 。そういう生き方ができたら、豊かだと思います。

 そうした生き方に近づくために、タブレットやPC端末がプラスになるか、ということではないでしょうか。

 きつねいぬさんの文章を読んでいて思ったのは、詩人まどみちおです。まどみちおの詩は、上に書いたような豊かな生き方を指し示しているように思います。

 アリくん アリくん/きみは だれ/にんげんの ぼくは/さぶろうだけど/アリくん アリくん/きみは だれ

 まどみちおがタブレット端末で小さなアリを撮影し、モニター画面でそのアリを眺めて、「アリくん」の詩が書けるか。そんなことを考えてしまいました。

 今回も大切なことを書いていただきました。きつねいぬさん、ありがとうございました。


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