ウネラ:突然ですが、近ごろじわじわ傷ついています。
ウネリ:何に?
ウネラ:「弱者殺しの思想」が喧伝されていることに、です。経済学者、起業家を名乗るN氏が、インターネット上の番組で「75才以上は集団自決すべき」と言いました。N氏が「本気で言っている」と前置きしながら「集団自決」という言葉を口にすると、番組の共演者たちは大笑いして盛り上がっていたんですよね。
ウネリ:目も当てられない状況だね……。
ウネラ:私は1週間ほど前にSNSでN氏の発言を知り、その日の晩に問題の動画も見てしまいました。
ウネリ:見てしまったんだ……。見なければいいのにとも思うけど、人の命に関わることだから、ウネラさんは注視せざるを得なかったんでしょうね。
ウネラ:そうですね。私の兄は4年弱の長期脳死状態を経て、15歳のときに亡くなっています。脳死状態になってからも、兄の生命は力強く確かに脈打っていました。倒れる前のように日が暮れるまでバスケットボールをしたり、周りの人を笑わせるジョークを言ったりすることはできません。それどころか、3時間ごとのバイタルチェック、褥瘡ができないようにするための体位交換も欠かせなくなりました。N氏の話でいけば、「75歳以上の人」どころか、❝経済を回す❞ためには役に立たない、一番生きている価値がない人間、ということになるかもしれません。
ウネリ:うーん…。
ウネラ:N氏のような言説を聞くと、兄の存在も、兄と暮らしていたかつての自分自身の存在も、すべて否定されているような気分になります。これはとてもつらいことです。
ウネリ:そうだね…。
ウネラ:ああいう発言を批判することに非常な虚しさも感じます。あまりにも当たり前なことを言うしかないからです。命に優劣はない。ひとつひとつの命はかけがえのないものである。そういうことに尽きてしまいます。
ウネリ:うん。
ウネラ:ただ、この発言の後もN氏はTBSのニュース23に出演したり、日テレ系では自身がメーンパーソナリティを務める深夜番組が始まったりと、メディアに多く起用されていますし、「彼の言っていることは正しい」と考える人も少なくないようです。
ウネリ:確かにあれはよくないと思いました。テレビも含めた社会の見識が試されているのだと思います。ああいう発言を許容するのかどうか、という。
ウネラ:私は彼個人のみならず、彼を軽率に持ち上げる「社会」にもどかしさと無力感、大きな危惧を抱いています。私にとってそれらの感情は、自分を支えていられないほどの負担です。いま私はここで誰か他者を説得しようとか、共感を得ようというつもりではなく、内心を吐き出し自分自身に言い聞かせるようなつもりで話をします。
兄の話に戻りますが、字面だけ見ると脳死状態になった人というのは無機質な、物質的なものと感じられるかもしれません。でも実際はけしてそうではありません。手を握ればあたたかく、日によって血色も、表情も違います。兄のケアにあたる人たち(面会者含む)はみな、そんな兄にごく自然に触れ、名前を呼んで話しかけていました。意識が戻らないにもかかわらず、折にふれ手紙を書いてきてくれる友だちもいました。そうした周囲とのつながりの先に、兄の「生命」の在り処をはっきりと見ることができました。そして、どのような容態で生きる人の尊厳も、人は尊重することができるということも知りました。
ある人が生きていることを、生きる拠りどころとしている人がいることを想像するのは、さほど難しいことではないように思います。兄の友人が、脳死状態になった兄に「お前は今のままで十分だ。お前が生きているだけで支えられている人たちがいっぱいいる。お前の息吹が鼓動が、みんなを励ましてくれる」という言葉をくれたことを、私はいつまでも覚えています。
誰かがあるひとりの命を遮断するとき、殺されるのはけしてひとりではないと考えます。
このことは当時、兄が極限の状態を生きていたが故、特段の明確さをもって意識されましたが、兄の死後数十年考え続けてきて、結局のところ「健常」を生きる者にも同じことが言えると思います。
長くなりまとまりがなくなりましたが、「誰のいのちにも手を(口も)出すな」という気持ちです。聞いてくれてありがとうございます。
ウネリ:私は「悔しい」というのがシンプルな感想です。こんな人のこんな薄っぺらな発言によって自分の大切な家族が痛めつけられているのを見るのは、とても悔しいです。杉田水脈氏の「LGBTは生産性がない」発言などの時にもウネラは同じ経験をしています。どうか、懸命に生きている人を無用に傷つけることはしないでほしい。そうお願いしたいです。
コメント
n氏の存在をはっきり知ったのは、彼の著書が大手書店のお勧めの棚に並んでいたのを見た時です。ランク付けされて、評判と人気の高さを示していました。どんな方が書いているのか?~中を見て華々しい経歴を知り、まただなあ、いつものことだ…今の世の中(メディア、報道)は、高学歴、成功、地位、所得(報酬)、自信のある物言い(断言)に価値を認め、申し訳ない言い方だが、奉る。世の中に何人もいる。この傾向は近頃本当に顕著だと思う。そして、それが大体万人受け(迎合)するから、起用され、その人のネームバリュー(バリュー)はますます高まる。
私はその人の実力やその分野での実績についてはなるほどと思う。しかし…しかし、この位の地位、名声を持ち、人々に対する絶大な影響力を=1つの権力を持つ人は、もっと慎重な物言いをして欲しいと思う。
興味を抱いて、彼の人生の歴史も調べた。ギャンブル依存症で働かなかった変わり者の父、不登校、10代でお母さんが倒れ、障害者となる。
今はヘルパーによってケアされてるとのこと。
…若年にしてかなりの困難を抱えて乗り越え、自力で築き上げた彼の今を見事だと思う。でも、彼は充分に弱者(というならば)の立場を味わったはず。その体験や視点は、どこにいったのだろう?
自分の事で恐れ多いのですか、私は不登校の経験等を持っているので、いつも普通に学校に行き、頑張れる人が羨ましかった。枠外に外れた自分が疎ましかった。でも、いつからか不登校児であったことを胸を張るとまでいかなくても、当時のようにこそこそ隠れる必要はないんだと思えた。そして、やはり、自分と同じように、望むと望まざると枠から押し出された多種多様な人々に親近感を覚える。
あの例の75才以上は切腹論~彼は変わっていること(人と違う)がよいとしてるそうだし、経済学的視点としては、企業や政治の世界でいつまでも跋扈する世代を出すことで、社会経済がよくなるというのもわからないではない。でも、それは理論だ。
いのちの値は何ものにも替えがたく、尊い、それを間近で見ていた人としての発言としては、あまりにも残念でならない。
あの丸と四角のメガネの奥の瞳の眼差しが変わることを期待するのはあまいのだろうか?
しつこいですが、補足します。
私がわからないではないといったのは、n氏の「切腹論」を肯定するのではなく、経済学者として常に先端でよい、面白い理論やアイデアを言わなければならないのだろうなあと思うことと、頭の固い老保守政治家の失言やはては小さな町内会の体制を見ても、上を占めてる世代が交代しないと、刷新されないのだなと感じていたからです。
でも、このような発言は看過してはならないと感じます。(津久井やまゆり園の事件を想起しました)
娘宅には聴覚障害を持つ孫(女の子)がいます(一生補聴器が必要)彼女は、家庭で、学校で、元気に過ごしています。
何より両親の努力の賜物ですが、やはり、お耳のことに触れるのはセンシティブな事です。母親は、補聴器の補助も18でなくなるし、将来結婚出来ないかもしれない場合を考えて、腕に職をつけるようにしてあげたいと言ってました。障害を持つ子を産んだ時に彼女の出産の喜びは地の底に落とされました。
でも、考え直し、夫婦で力あわせ11年たちました。
普通の生活を送れてるし、可愛いしっかり者の孫に私も笑みを浮かべながら、大きくなるにつれ、社会の中で味わっていくだろう困難や苦労を思うと、自分が生きてる間は少しでも応援していきたいと思ってます。
弱さを纏った人を除外する事は、自分の弱さも除外すると思うのです。
今強くても、いつ弱くならないといえるでしょうか。
また、強い=良い 弱い=悪いことではないと思います。
長くなりました、読んで下さってありがとうございます