ふじみ野市の事件に寄せて~地元在住、出口研介さんの文章~

報道

 1月27日夜、埼玉県ふじみ野市で痛ましい事件が起こりました。地域で在宅医療を行っていた鈴木純一医師と理学療法士の男性が散弾銃で撃たれ、鈴木さんは亡くなってしまいました。

 ウネリウネラはこのニュースを知り、衝撃を受けました。加害者被害者について何も知らない中では、軽々しく発言すべきではないと考えます。一方で、私たちと同じように、多くの人がこの事件に動揺していることだろうと思います。なにか血の通った文章を、そうした人たちに受け取ってもらいたい気持ちがあります。

 そんなことを考えていた時、事件が起きたふじみ野市在住の出口研介さんによるFacebookへの書き込みを目にしました。出口さんは、ふだん過労死問題を通じてウネリがアドバイスをもらっている人です。ウネリウネラは出口さんの文章に触れ、心の波が少し穏やかになったように感じました。いま多くの人が求めている文章ではないかと感じたため、出口さんから承諾をいただき、ここに掲載します。

 鈴木さんの冥福を祈り、事件に関係する人びとに思いを馳せつつ、出口さんへの感謝とともに、文章を紹介します。


【「立てこもり人質事件」で亡くなられた鈴木医師には感謝しかありません!】(出口研介さんの文章)

《鈴木医師とそのチームにはお世話になりました!》

■1月27日夜におこった埼玉県ふじみ野市の「立てこもり人質事件」で殺された鈴木純一医師(44歳)に何があったかの事実関係は全く知りません。しかし、鈴木医師は私の妻(優子)の「最後の半年間」にとってかけがえのない医師でした。夜中に苦しむ妻のために何度も駆けつけてくれました。

 「先生、どうしてこんなにきつい在宅訪問医療の分野を選んだんですか?」と聞いたことがあります。「患者さんが、僕らを必要としてくれるから。手応えが有り難いです。何歳までやれるかはわからないが体力が続く限りやるつもりです。」という答えでした。当時はまだ40歳前でした。

■「在宅医療」を望む人にはそれぞれの多様な特別の理由があります。妻の場合には、単に人生の最期を自宅で終えたいというのではなく、病院では無理だという理由がありました。その時期に最大限寄り添ってもらえたと思います。

 「自分の病状をどう考えていますか?」「今の状態で何が一番の望みですか?」と聞いてくれて、それならこういうやり方があると思うがどうだろうかと、いつも提案してくれました。「人生の最期」はそれぞれの個人にとっては「かけがえのない特別の時間」です。そこに寄り添ってもらえることが、どんなに有り難かったか。

■この事件で、思い出すことが辛くて自分のなかで封印していた「妻の最期」を思い出してしまい、今の私はフラッシュバックで少し動揺しています。しかし、鈴木純一医師の死を聞いて、当時のことを以下に記すことにします。人生の最も深いところに関わってもらうのが「(終末の)在宅医療」だとわかって欲しいからです。鈴木医師には、その意味で感謝で一杯です。

(以下は2015年の秋に「葬儀も墓も要らない」と言い残して逝った妻の死の直後に集まってくれた親族・友人・訪問看護師の方への手紙です。後半に鈴木医師が「私と妻の物語」の終わりにどう関わってくれたを書いています。…鈴木純一先生、ありがとうございました。合掌!)

(2022/01/29:記:出口研介)

《優子が愛し、優子を愛してくれた皆さんへー当時の手紙》

■優子と結婚したのは優子が19歳、僕が21歳の時でした。その頃は学生運動の全盛時代で、しかも次第に運動が過激化し始めていた頃でした。しかし、僕は、ヘルメットはかぶったけれど、鉄パイプを持ち、石を警官隊に投げて「闘う」という過激な方針にだんだんついて行けなくなっていました。こんな「街頭武装闘争」で世の中が変わるのだろうかと疑問に思いながら、他方で、闘いが怖くて自分が逃げているだけの弱虫なのだろうか、ただ弱いだけの意気地なしなのではないかと、自信をなくしていきました。次第に街頭の運動から離れ、そうなるとともに自分の中には惨めな敗北感ばかりが拡がっていきました。

 三畳の狭い僕の下宿で「こんな弱虫の僕でいいのか」と訪ねた時に優子は「ウン、あなたは嘘をつかないし、強がらないから信じられる」と言ってくれました。その時、急に涙があふれ、優子と生きてゆこうと決心したように思います。

■高校教員になってから、そこにある現実から出発し、間違っているなら、間違っていると言い続ける労働運動をしようと決心したのも、きっかけは「弱虫のまま頑張ればいい」と励ましてくれ、自信を取り戻させてくれた優子のおかげだと思っています。幸い職場には、同じようにものを考えていたU君がいてくれて、職場からの労働運動を長期間継続することが出来ました。先輩の教員が「クラスの荒れ」になやんで自殺したことをきっかけにはじめた公務災害認定闘争は1985年から8年間に及び、岩手の同様な闘いとともに政府が「過労自殺の認定基準」を作ることに影響した先駆的な闘いの一つでした。

 教え子の母親が始めていた「男女賃金格差の不公平是正」を求める闘いは、当時は前例のないものでしたから、はじめは賛同者がほとんどおらず、仕方なく分会代表の僕が支援共闘会議の事務局長になって運動を始めました。これも、次第に全国に同様の運動が拡がり「男女同一価値労働同一賃金」「均等待遇」の思想として拡がってゆきました。

 教員住宅のアスベスト問題もU君が居住していたことで分会の闘いになり、永久的な健康診断を勝ち取るなど、アスベストの闘いの先駆的なものでした。

…たった30人足らずの小さな分会がやり続けた労働運動は、その時に出来る最高水準の闘いをしたと、いまでも誇りを持てるもので自分の財産になっていますが、その最初のきっかけは優子がつぶれそうになっていた僕を励ましてくれたことだったなあと、今思い出します。

■優子の方は中学校の教員になって、あれは天職だなあと思うくらい、自分の全存在をぶつけて、苦しみや悲しみ、愛されないことのつらさを持つ生徒にかかわってゆきました。本当のところで勝負する教育活動は、生徒からも愛され、同僚からも愛され、教員としては同業者の僕から見ても頭が下がる仕事ぶりでした。特別のオーラのある教員というのが優子の評判になりました。

■しかし実は、その頃でも、優子はその心の奥にある、自分の子ども時代のつらさを常に語っていました。義父のDV等理不尽なことばかりがある家庭、自分たち姉妹を守ってくれない母親への不信。小学校中学校時代、放課後が近づくと段々憂鬱になり、家に帰りたくないという思いが強くなったこと、自分には生きる価値がないと本当に思い込んでいたこと…年の離れた弟の面倒を見るという役割がなかったら自分は死んでいたかもしれないとよく言っていました。

 結婚後も、夜中に、子ども時代の悪夢を見て飛び起きることも何度もありました。「19年間私は不幸だったんだから、これからの19年、KENは私がわがままを言っても受け入れなければいけないでしょ!そうでないと人生不公平だからね。」と私に言うのです。「いいよそれくらい」とこたえると、やっと落ち着いて眠る…そんなことが何度もありました。うなされるほどつらい時代があったからこそ、S姉さんや妹Tちゃんとの姉妹の絆は特別に濃いものがあるし、悲しみやつらさを持った生徒に敏感に反応する優しさを持つことが出来たのでしょう。状勢を無視して無茶でも何でも感じたことを実行してしまう無軌道さに僕は驚き、尊敬し、その「跳んだ女」であるところを愛していました。

■そんな優子があまり「悪夢」をみなくなったのは娘○○が生まれてからでした。子育てはとても大変だったけど、「自分が何のために生きているのかとか、生きることの不安定さに脅かされることがなくなった。」「○○(娘)がそこにいるだけで、不安や悲しみが消えてゆくね」とよく言っていました。…○○(娘)を熱烈に愛し、関わり、最後まで実は子離れできないまま、逝ってしまったように思います。「無条件に愛していい存在がある方が愛されるよりずっといい」といいながら、今でも○○(娘)を愛し続けていることでしょう。僕から見るとちょっと「しつこい愛」です。実は娘自身は優子が考えているより、「もう少し大人になってしまっているのになあ」と思いますが。優子はそのことをなかなか理解していないでしょう。

■全身全霊をぶつけ、ぎりぎりまで働くというやり方が、病気の発見を遅らせたことは今でも悔いることです。疲れ切って、土日は寝込んで動けないというのが常態でした。「中学校の教師はそれが普通」という常識を疑うことが出来ないでいるあいだに病気が進行し、本当に動けなくなって病院に担ぎ込まれた時は、癌が進行し、手術が出来ない状態になっていました。倒れるまで働くべきではないと言っていた僕がどうして病気だと感じなかったんだろう…それからずっと後悔しました。これもかたちを変えた「過労死」なのではないのかと考えた時、優子の闘病生活を全力で支えようと決心しました。

■闘病生活は苦しいことがすごくたくさんありました。娘がいないところでは「私がそんなに悪いことをしたのかなあ?そんなことはないはずだのに。」となんども辛そうに泣いていました。

 抗がん剤治療はきつかったし、驚くほど長期間続けることになりましたから、身体はぼろぼろになっていき、次第に弱ってゆきました。昨年の12月頃からは、もうそろそろ限界が来ており、なんども深夜に救急病院に運ぶということもおこっていました。最後はこの病院で終えようねという話もして、病院も決めていましたが、5月に痛みが激しくそこに10日間入院した時、痛み止めの麻薬の量が増え、それとともに、また子ども時代の「悪夢」を見るようになりました。夜になると訳がわからなくなり、点滴の針を無意識に抜いてしまうというようなこともおこるようになりました。「本当は在宅で終わりたいんだろう」と言うと、「病院の夜は怖いし、看護婦さんに気を遣う、でもKENが大変だから無理しなくていいよ」と言います。…(自分がこんな性格で、そんな深いことを理解する能力がなかったことを自覚していたので)これまで、優子が感じたり、おびえてきた心の一番深いところを受け止めてやれない夫だったなあと思っていた僕はせめて「うちに帰りたい」という最後の希望だけはかなえてやろうと思いました。

■助けてくれたのは「F在宅クリニック」の鈴木先生、N先生他スタッフの皆さん、「訪問看護ステーション△△」のMさん、Fさん他のチームでした。あんなに、丁寧に、患者の不安に寄り添ってケアしてもらえるとは思ってもみませんでした。優子は本当に心から信頼し、特にMさんには無理を言って甘えっぱなし。今日は何時に来てくれるのかなあと毎日待っていました。

 「こういう風に仕事をしてくれる人たちがいるんだね。『現代の赤髭軍団とその一味』だね。」と心から感謝していました。

■そして、通常ならあのまま逝ってしまうはずだった「みずほ台病院」への入院中に、在宅介護に戻そうと優子の希望をかなえて下さった鈴木先生の方針には更に感謝です。在宅になってから、痛みに耐えるだけで、横になれないまま座って眠るよりない状態から、痛みが軽くなり少し横になれるようになりました。自分で水を飲み、友人と長時間会話をし、テレビを見、新聞まで読むことが出来るまでの時間をもらうことが出来ました。最後にみたテレビは、「出雲大学駅伝」でした。○○(娘)が青学に行ってから駅伝ファンになっていた優子は小椋君や久保田君、一色君の走りで青学が優勝したことを自分のことのように喜んでいました。最後に文章が読めたのが、○○(娘)のメールでした。娘はスコットランドに留学中で英国王立植物園に行った時のメールにリスの写真があったことをとりわけ喜び、「こんなところにリスがいるんだ!○○(娘)らしいところをまわっているね」と喜んで言いました。

 …その後、もう痛みを止めるために強い薬を使い意識がなくなりましたが、妹Tちゃんや友人のSさん、僕の実妹というより優子の友人のMがよく来てくれて(むしろ限界に来ていた僕の)面倒を見てくれました。そして、ようやく優子の最後の願いを叶えてやることが出来ました。

■話し始めたら、まだ少し動揺している僕は話が終わらないほど長くなると思い、文章にしました。優子が愛し、優子を愛してくれた人たちに囲まれて、今日は痛みもなく、人生ではじめてゆったりとしていることと思います。幸せなんだろうなと思います。

本当に皆さんありがとう。 (妻が亡くなって二日後、2015/10/25早朝ー眠れないので:出口研介)


以上です。出口さん、ありがとうございました。

コメント

  1. 星野勝弥 より:

    この記事のURLを、小生のFBに貼り付けてもよいでしょうか?いろいろな意味で、他人事だと思えません。自分がどう生きて来たのか、どう生きているのか、問い直さずにいられない気持ちです。

    • uneriunera より:

      星野勝弥さま

      読んでいただきありがとうございます。
      この文章をシェアしていただくことは、私たちにとっての幸いでもあります。ぜひよろしくお願いいたします。

      ウネリウネラ

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