【「見る」ことと「空間」の広がりーー中村晋『むずかしい平凡』書評】(日本”文学”研究者・加島正浩さんの寄稿)

 東日本大震災以後の日本「文学」を研究している加島正浩さん(名古屋大学大学院博士課程)が、ウネリウネラに再び寄稿してくれました!

 前回は、4月に東京で開催された「もやい展2021」の感想を書いてくれました。

 前回の記事はこちら→https://uneriunera.com/2021/04/06/moyaiten/

          →https://uneriunera.com/2021/04/07/moyaiten2/

 今回は福島市の俳人、中村晋さんの句集『むずかしい平凡』(BONEKO BOOKS)の書評です。どうぞ!


【「見る」ことと「空間」の広がり ーー中村晋『むずかしい平凡』書評】

 個人的な関心に基づいた整理で恐縮なのだが、中村晋の『むずかしい平凡』における句の詠み方の特徴は、大別して2種類あるように思われる。ひとつは視線(力点)の移動、もうひとつは見えないものを詠むことである。前者から説明したい。たとえば以下のような句をみてみたい。

棕櫚咲いてかりっと完璧なトースト

夫婦喧嘩につつーっと降りて蜘蛛光りぬ

ぱりっと朝刊めくってクロワッサンの秋

燕帰るぽかんと再開発の空

夜の地震の余波が及んでいる風鈴

 1・2句めに引用した句がわかりやすいように思う。
棕櫚の木が咲いた後に焼きあがったトーストへと視線が移動する、あるいは、夫婦喧嘩の最中に降りてきた蜘蛛に視点が移動する。(それが良いことなのかどうかは、知りません)
 3句めも、めくった朝刊の中身へと句は視線を及ばせるのではなく、その外側にあるクロワッサンへと関心を移動させる。
 このような句の関心の移動は1~3句めのように、詠み手の視線の移動に基づくこともあるが、燕がどこかへと去り、あとに空が残されている様子を詠んだ4句めのように対象が移動することで、句の力点が変化することもある。
(「ぽかんと」という擬音語がなんとも効果的である。もちろん1~3句の「かりっと」「つつーっと」「ぱりっと」も印象的なのだが。)

 そして「夜の地震の余波」で風鈴が揺れている様子が詠まれるに至っては、地震で揺れている詠み手自身ではなく(詠み手自身も揺れているはずなのだが)、揺れている風鈴へと視線が及んでいる。確かに地震は詠み手も揺らすが、詠み手を含む空間を揺らしているのであり、そのことが余波で揺れる風鈴に着眼されることで示される。さりげない着眼ではあるが、ささいにみえる物事に着眼することで、地震という現象の奥行きの広さが示される。あっさりと詠まれているようではあるが、地震の詠み方の幅を広げる秀句であるように思う。

 そしてもうひとつの特徴、見えないものを詠んでいるものとしては以下のような句が挙げられる。

麦秋や空が彼女の遺書でした

無名の山植田にくっきりと感情

蟻と蟻ごっつんこする光かな

 1・2句めは、詠み手が自分自身の感情を風景に重ねる俳句の「規範」的な詠み方であるようにもみえるが、それが「遺書」や「くっきりと感情」と示されるとき、いったい詠み手は風景に何を見ているのだろうか、と句を読む者は考えざるを得ない。麦秋の空に「彼女の遺書」をみるのは詠み手の来歴の反映であろうし、どの角度からどう見れば、植田に「くっきり」と「感情」が映るのかも詠み手のみが知るところなのだと思う。

 特に句集の装丁のモチーフとなっている「蟻と蟻ごっつんこする光かな」であるが、蟻と蟻がぶつかったときに光は見えない(はずである)。しかし詠み手には光が見えている(かのようである)。

 この詠み手の姿勢が、震災後の句として端的に表れているのが〈じーっと見てこんな枝豆にもベクレル〉である。放射性物質は目に見えないにもかかわらず、「じーっと見て」枝豆にも放射性物質が付着していることを「見出す」のである。

 ここではおそらく「じーっと見て」いるあいだに「見る」ことから枝豆に「思いを及ばせる」ことに力点が移動している。つまりここでは、「見る」という行為は、対象を文字通りに見るだけではなく、そこから派生して思考を巡らせることをも含むという「見る」行為の深さが示されているのである。

 それはたとえば、〈月夜茸被曝の我もどこか光る〉という句にもみることができる。月夜の茸を「見て」いて、被曝している自分もどこか光っている(だろう)と句の力点が、「見る」ことから自分が被曝している「事実」に思いを及ばせることへと移行している。「見る」ということは、文字通りの見る行為のみで完結するのではなく、見た対象に突き動かされるようにして自身のなかに思考が生起するまでを示すのだということを、詠み手は示しているかのようである。だからこそ見えないはずのもの(光)が、詠み手には「見える」のである。

 見えないはずのものが「見えて」しまうのは、見えないはずのことを「考えて」しまうからなのだろう。目の前の枝豆を「見て」いても、原発「事故」以後のことを「考えて」しまう。茸を「見て」いても被曝しているであろう自分のことを「考えて」しまう。原発「事故」以後の日常では、何かを「見て」いても、そこに「事故」以後の様相が重ねあわされてくる。

被曝者であること蠅を逃がすこと

肩に蜻蛉じっと線量測る人

愛鳥週間たんたんと木を伐る除染

 被曝者であることと蠅を逃がすことは重ならないように一見思える。突飛な発想であるように思える。しかし原発「事故」以後は、何をしていようともそこに「被曝者である」という「事実」が重なるのである。(もちろんその「事実」をどのように捉えるか/どの程度重視するかは、人によって異なり、そこに「正しい」も「間違い」もない。)

 被曝者であるから蠅を逃がすのではない、蠅を逃がしていても被曝者なのである。
(句集において「蠅」はよく詠まれている対象であり、詠み手の「蠅」への思い入れを考えたとき、「蠅を逃がす」という「被曝者であること」に対する取り合わせのユーモラスさ以外の意味を読み込むことは可能なはずである)

 また肩に止まった蜻蛉から線量を測る人へと視線が移る詠み方により、蜻蛉がいる空間は原発「事故」以後の空間なのだということが示される。詠み手が視線を移動させることにより、原発「事故」以後の空間の広さが示されるのである。
(「被曝」したのは人のみでない、草のみでない、牛のみでない、蜻蛉も含めた空間が「被曝」したのである)

 そして「空間」のみならず、愛鳥週間という「時間」であるにもかかわらず、たんたんと木を伐り除染が進んでいく様子を詠んだ3句めでは、愛鳥週間という時間は、原発「事故」以後という時間のなかに包含され、後者が優先されてしまう。そのような「時間」を原発「事故」以後は、生きざるをえないのだということも示される。

 まとめれば、視線を移動させることにより詠む対象を広げ、「見る」行為の深さを示す中村の句作のあり方は、原発「事故」以後の思考や「被曝」の広がりを示すことを可能にし、何をしていようと「被曝者である」という「事実」から逃れられないことを明らかにしていると概括することができるだろう。

 ただし中村はそこに具体的な価値判断を下すわけではない。先にも述べたが、原発「事故」以後に広範の人々が「被曝」したのは「事実」であるが、しかしそれをどの程度意識し、どう判断するかはそれぞれの人が置かれた状況、様々な要因を踏まえたうえで、各々が判断することであり、「正しい」判断を共有することができる問題ではない。しかし「事実」は「事実」である。除染のために木を伐ることが「正しい」のかどうか、それにも様々な考えはあることと思う。しかし木は伐られたのである。

 中村は価値判断を下すわけではない。しかし「事実」は「事実」として、そこから目を背けることもしない

 「事実」を前にしたとき、私たちはついそれに対する「意見」や「解釈」を求められているような気持ちになる。しかし、原発「事故」/「事故」以後について、意見や解釈を述べることはむずかしい。ただ「事実」を「事実」として受け止めることは(それもむずかしいことではあるのだが)、目を背けない意志を持てば、可能になることであるのかもしれない。「事実」が蔑ろにされる時代(原発「事故」以後)において、まず「事実」を受け止めて詠むということは「むずかしい」。しかしだからこそ、意見や解釈を述べる前にまず、「事実」を受け止めるという行為の重要性を確認する必要がある。

 ただ中村はそのようなことを大上段から振りかざし、説教をするわけではない。あくまでも「日常」をときに擬音語を交え、ユーモラスに詠む延長に、原発「事故」が重なってしまい、「見て」考えることの幅を広げざるを得なかったということであろう。

 あくまでもさりげなく示される知性によって、ときにユーモラスに、原発「事故」以後の日常も詠まれる。それを思えば、長々と仰々しい文章を連ねる私のようなものの何たる野暮なことよとも、思う次第なのです。


【ウネリウネラから】

 『むずかしい平凡』はウネリウネラも大好きな句集です。加島さんの文章を読んで何か書いてみたいとも思いましたが、「野暮に野暮を重ねる」のはやめておきましょう(笑)。とにかく、手にとる価値のある句集だということは、はっきりと申し上げたいと思います。俳句として味わい深いだけでなく、3・11後を生きる福島の人びとの息づかいに触れることができると思います。

 加島さん、真摯な書評をありがとうございました。


『むずかしい平凡』取り扱いのご案内

 このたび、ウネリウネラBOOKSから『むずかしい平凡』をご購入いただけるようになりました。全国一律送料無料でお届けいたします。多くの方々に読んでいただきたい句集ですので、ぜひ通信販売もご利用ください。↓

 福島県内では以下の店舗でお求めいただけますので、県内にお住まいの方はぜひお店へ足をお運びください。

 西澤書店(大町店/北店)
 ジュンク堂書店 郡山店
 雑貨とうつわの店 うさぎや
 Books & Cafe コトウ 
 Cafe&books 清学舎

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