自民党総裁選に寄せて

落書き帳

8月28日、安倍晋三首相が辞意を表明しました。

その一報に触れて私がまず考えたのは、

「これからは民主的な世の中、民主的な政治にしなければならない」

ということです。

歴代最長、3000日近く続いてきた安倍政権を、私は評価しません。

集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法の制定……。大問題だったことは山ほどありますが、最も感覚的に、素朴な気持ちで「嫌だな」と感じたのは、2017年夏の「秋葉原演説」です。

一部の聴衆が「安倍やめろ」コールを起こしたのに対し、安倍首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言いました。

自分と意見が異なる人びとを「敵」とみなす。

その心の在りように、私は口をあんぐりさせてしまいました。

「”こんな人たち”発言」だけではありません。そうした彼の精神性は、国会で野党議員の質問に真剣に向き合おうとしない姿などに日常的に表れていました。

その振舞いのひとつひとつに、細かい政策の是非を超えた次元で、安倍氏には政治を行う資質がないと強く感じます。

政治とは何だろうか。あらためてそう考える時、ハンナ・アーレントの言葉には学ぶところが多いと思っています。とは言え私はアーレントの著作を十分読み込んでいるわけではありません。今は政治という大きな問いを自分なりに解きほぐすように『<政治>の危機とアーレント』(佐藤和夫著、大月書店)という良質な解説書をめくっています。

この本に、とても基本的ですが大切なことが書いてありました。

アーレントの考えた<政治>とは、“互いの違いを認め合いながら協同でこの世界をつくり上げていく営み”である。

私はこの言葉に強い説得力を感じました。

<政治>とは「話し合い」であり、互いの違いを認め合うという前提がなければ、話し合いは成り立ちません。

安倍首相は、これが決定的にできなかった。

会見でプロンプター上の文章を読み上げたり、米国の大統領とゴルフしたり、といった形式的な「政治」はできても、本当の意味での<政治>は一切できなかったのではないでしょうか。

安倍氏の言動が「分断を招く政治手法」などと批判されていますが、そもそも<政治>とは呼べぬ代物だったと、私は思います。

とはいえ、第二次安倍政権は終わるようです。

次の首相になる人には、ぜひこの<政治>の意味を考え、それを実践しようと心がけてほしいと思っています。ですが、日々ニュースを見ていると、残念な気持ちになります。

「菅氏選出強まる 自民総裁選」(9月1日付毎日新聞)

報道各社、かなり前から菅氏の次期総裁就任が決まったかのような報道ぶりです。その根拠となっているのは、旧来的な派閥間の綱引きです。細田派(98人)、麻生派(54人)が菅氏を支持する方針を固めた――。だから、菅氏に決まり。

当たり前のようにそう語られていますが、派閥が支持する候補に投票することが当然とされる世界は、本当に正しいのでしょうか。

派閥の中にも、いろいろな考えの人がいるはずです。一人ひとりが国民によって選ばれた国会議員です。

“互いの違いを認め合いながら協同でこの世界をつくり上げていく営み”

は、安倍氏とその周辺だけでなく、自民党全体として行われていないのだと思います。党員投票をしないことも、根っこは同じだと感じます。

<政治>的でない方法で選ばれた次期首相が、<政治>を行うことができるのか。はなはだ疑問です。

派閥の領袖たちによる談合で拙速に決めるのではなく、<政治>的に総裁を選ぶとしたら、それなりに時間をかける必要があります。

次期総裁候補たちを集めた徹底的な討論会を行う。意見の異なる人、「反自民」の人たちにも開かれた場で、です。そうした討論の末に、最も<政治>ができそうな候補を、総裁として選ぶ。もちろん党員投票も行う。

安倍首相は否定しましたが、私は「首相臨時代理」を置いてでも、最大限、熟議のための時間をとるべきだと思います。

こんなことは、素人のたわごとでしょうか。「よく知らずに口出しするな」との批判が聞こえてきそうです。

アーレントが考えた<政治>の意味をかみしめれば、それはバッジをつけた職業政治家たちだけに課されたものでないことは明らかです。人はみんな違うのですから、私たちは他の誰かと関わりあう以上、必ず「違いを認め合う」必要があります。

そういう意味では、誰もが<政治>的存在です。その延長線上に、「政治」はあります。誰もが自分なりに集めた知識をもとに、等身大の意見を述べるべきなのです。

そうしたメッセージもこめて、この文章を書きました。

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