汚染水の海洋放出をめぐる一日

報道

8月3日、福島市内の空は早朝から白く濁っていた。

私はどうしたものかと思いつつ、間借りしている市民農園で、子どもたちと水やりをしていた。雨の予感は濃いけれど、すぐに晴れて前日までのようなカンカン照りになったらと思うと、土をひと通り湿らせておきたくなる。天候がどう変わってもいいように、中途半端な量の水を野菜たちに与えた。


9時過ぎに畑を後にし、車で福島市の中心部にある県庁に向かう。時折パラパラと雨粒が落ちる中、すでに10人ほどの市民たちが正門の前でブルーの旗を掲げていた。

〈汚染水を海に流さないで〉

〈県は海洋放出を認めるな〉

前日の8月2日、福島県の内堀雅雄知事は東京電力に対し、汚染水を海に捨てるための設備工事を進める「了解」を与えた。福島第一原発近くの海底にトンネルを掘り、汚染水を沖合1キロメートルまで運び、そこから海に放出するという。

地元自治体の了解がなければ、東電は工事を始められないルールになっていた。それなのに地元行政のトップである内堀氏は、計画にストップをかけるチャンスを易々と放棄した。平日の朝から県庁前に集まった市民たちは、そのことに強く憤っていた。

内堀知事は「県民、国民の理解が十分に得られているとは言えない状況だ」と強調。「安全確保協定に基づき、東電が計画している設備に対して必要な安全対策が講じられているか確認を行った」と説明。処理水の海洋放出そのものを了解したものではないとの立場を強調した。(8月3日付毎日新聞)

内堀知事よ、そんな理屈は通用しない。理解が十分に得られていないと思うならば、あなたが計画に待ったをかければいい

この間ずっと、汚染水を海に捨てるためのリレー大会が演じられてきた。

第一走者は政府だ。昨年4月、政府は「海洋放出」の方針を決めた。それを受けて東電は、「こういう方法で捨てます」という計画書を、原子力規制委員会に出した。その計画書は「IAEA」という国際的な原子力推進機関に回り、「専門家」と権威づけられた人々が「安全」という判子を押した。IAEAのお墨付きを得た原子力規制委員会は、今年の7月22日、東電の計画を正式に認めた。海洋放出リレーのバトンは、福島県知事に回った。

観客たちがリレー走者を応援しているとは限らない。
「汚染水を海に捨てるのは危険だ」という声がある。「被害を助長する」という声もある。内堀氏の言葉の通り、“県民、国民の理解が十分に得られているとは言えない状況”だ。

それならば、内堀氏はバトンを放り投げ、リレー自体を止めてしまってもよかった。そうすることもできたのだ。だが実際には、「風評対策」と「正確な情報発信」を国と東電に求めるだけで、決められたレーンを一心不乱に走り切って、東電にバトンをつないだ。


9時半、福島県庁の記者クラブで、「これ以上海を汚すな!市民会議」の記者会見がはじまった。共同代表の一人、織田千代さんが抗議声明文を読み上げた。

〈子どもを守れ、漁業を守れ、未来を守れと叫びながら、懸命に暮らす人々をこれ以上傷つけ苦しめないでほしい。私たちは、この福島原発事故由来の汚染水放出に反対し、その声をあげ続けます〉

続いてもう一人の共同代表、佐藤和良さんが口頭で補足を加えた。

「漁業者や一次産業ばかりでなく、多くの県民が、国と東電の強硬な進め方に不安と不信を感じています。陸上保管やトリチウムの分離技術、地下水の止水対策こそ検討すべきです。一番安価な方法だからと言って、海洋放出をしてはならない」

会見に顔を出した記者は10人程度で、熱心に質問していたのは雑誌の記者くらい。主要紙、主要テレビ局の記者からはそれほど質問もなく、会見は終わりに向かう。

最後に織田さんがもう一度口を開いた。

「記者の皆さんにも、この問題を自分事として捉えてほしいのです」

いわき市に住む主婦である織田さんは、一市民として、汚染水が海に捨てられようとしている事態を憂慮し、「これ以上海を汚すな!市民会議」を立ち上げた。

神奈川に住んでいる子から、茅ケ崎の海で遊んでいる孫の写真が送られてくる。福島の海は当然神奈川にもつながっている。織田さんはその写真を見るたびに、核燃料デブリと触れた水が茅ケ崎まで漂っていく光景を思い描いてしまう。

「自分事として捉えてほしい」という織田さんの声は震えていた。その声の震えが、私の耳に刺さった。県庁を出て車を運転していると、大粒の雨がアスファルトを叩いた。


午後3時、私は福島市内の中心部に戻った。東京電力が記者会見を開くという。

会場に着くと、スクリーン越しに青い作業服を着た男性が6人ほど並んでいる。東電の「福島第一廃炉推進カンパニー」とつながっているようである。「プレジデント」という地位に就いている小野明氏がマイクを握る。

「今なお、福島の皆さまをはじめ、広く社会の皆さまに、大変なご負担とご迷惑をおかけしていますこと、心からお詫び申し上げたいと思います」

定番の挨拶を終え、本日の会見内容に入った。「処理水」対策責任者の松本純一氏が説明する。

シールドマシンを使って海底にトンネルを掘っていきます。政府の基本方針を踏まえ、2023年頃を目指して、安全優先で進めて参ります。気象や海象条件によっては、設備設置は夏頃となる可能性があります  。科学的根拠に基づく情報をお伝えいただけるよう、報道発表、発電所の公開、説明会などを実施します。ALPS処理水を希釈した水でヒラメの飼育試験を始めます  

松本氏は力強く、「明日から、工事を着工します」と語った。

工事の施工業者とはすでに契約を結んであり、必要な人員や機械の準備も終わっていて、早速工事に取り掛かれるという。意気揚々という感じだ。内堀知事の「了解」から一夜明けたばかりだというのに。東電は福島県からバトンを受け取れることを当然視し、そのための助走をめいっぱい行ってきたのだ。

質疑応答の時間になって私は聞いた。

――福島県庁前では今朝も、海洋放出に反対する市民たちが抗議活動を行っていました。このような事態になっていることをどのように考えていますか。

プレジデントの小野氏はあらかじめ用意された言葉をくりかえすばかりだ。

「様々な御意見が当然ございます。我々は一人ひとりのご懸念と向き合って、しっかりと説明を尽くしていくことが大事かなと思っております」

――漁業者や行政だけではなく、一般の市民たちの理解を得ることも大事だと思います。具体的にどのような方法を考えているのでしょうか。たとえば「これ以上海を汚すな!市民会議」の方々は、この問題について以前から心配し、継続的に活動を続けています。そうやって表立って活動する方々の後ろには、もっとたくさんの市民たちがいるのだと思います。この市民会議の人たちと、どのような話し合いを持つ予定がありますか。

小野氏に代わって松本氏が答える。

「まずは、情報発信をしていくことが大事だと思っています。処理水のポータルサイトのほか、東京電力のホームページなどを通じて、いろいろな媒体を通じて、私どもの情報を皆様に伝えたいと思っています」

――そういう段階はもう過ぎていると思います。市民会議の方々はそういう情報を受け取ったうえで、自分たちでも勉強して心配な点を指摘しているわけです。一方的に情報を伝えるのではなくて、話し合いの場を持つ必要があるのではないですか。

「くり返しになりますが、私たちとしては正確な情報を、ホームページ、各種媒体を通じて……」

――それは先ほどうかがいました。実際にはたとえば、公開の意見交換会を開くなどする必要があるんじゃないですか?

「くり返しになりますが、ポータルサイトやこうした記者会見を通じて情報を発信したいと考えております。今おっしゃった意見交換会などという話は御意見として承ります」

小野氏はテーブル上で両手を組み、視線を伏せている。松本氏は私が質問するたびに、目を細め、首を小さく横に振った。

たとえ嫌がられても、私はしつこく聞かざるを得ないのだ。
午前中に、織田さんが震える声で「記者の皆さんも自分事として捉えてほしい」と話すのを聞いてしまっては、くり返しになっても、「この事態をどうするんですか?」と聞かざるを得ない。もちろん、一介のフリー記者がよれよれのシャツでそんなことを問い詰めても、東電の幹部たちは一切動じない。首を小さく横に振って、「こんな質問は不毛。時間の無駄だ」という意思を示すだけだ。

他の記者が質問する番になった。織田さんの震える声と、無表情の東電幹部が「ポータルサイトなどで情報発信を」と答える声とが、私の頭の中では同時にリフレインしていた。いつまでも混ざり合わない不協和音が私を混乱させた。


政府と東電は2015年、福島県の漁協に対し、〈関係者の理解なしには、いかなる処分も行いません〉と文書で約束した。今後は政府と東電がこの約束を守るかどうかが焦点だと、多くのメディアは言う。

しかし、約束の文言にある「関係者」の中に、一般の市民は入っているのだろうか? 少なくとも政府が意識しているのは、福島県などの地元自治体と、漁業、農業、旅行業などの業界関係者たちだけである。そしてこうした関係者たちの最大関心事は風評である。

考え得る被害は本当に風評だけだろうか? だとすれば、「県民や国民が根拠のない非科学的な考えに陥り、結果として福島の評判が落ちるのが心配だ」という話になる。こんな失礼な話はない。海に捨てる水の中には、トリチウムだけでなく、炭素14やセレン79など、半減期や人体の影響が様々な放射性核種が含まれている。しかもその一つ一つがどのくらい含まれているかは、東電すら現時点ではよく分かっていない。それを今後30年、40年と流すと言われて、心配になるのは当然だ。

風評だけを気にする「関係者」たちが、またバトンの忠実なつなぎ役になり、海洋放出のリレーがゴールテープを切ることを私は危惧する。

東電の記者会見場を出ても、私の頭の中の不協和音は鳴りやまなかった。

その日の夜、福島の空には雷鳴がとどろき、子どもたちは怖がってなかなか寝つけなかった。


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