ウネリウネラ本をつくる⑧ イスファハーンの夕暮れ(副題:バーコードのつけ方)

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 バルコニー席から夕暮れ時のイマーム広場を眺めながら、今年、この時間帯にAと会うのは何回目だろうと考えていた。まだ4回目か。まあ、今年はまだ始まったばかりだからな。ガンドをひとつ口に放りこみ、舌が痺れるくらいに熱いアールグレイをすする。つい先ほどまで、アーリー・ガープー宮殿は橙色に燃えていた。今は、毒を吐くのをやめて力を失った一匹の竜のように、暗いブロンズ色に沈み始めている。広場に屋台を出した土産物売りの男が、最後にもうひと稼ぎしてやろうとしゃがれ声を張り上げている。マーケットをぶらついたのだろう観光客のカップルが、冷やかしついでにねずみの形をした風船を一つ買っていった。

「待たせちゃったかしら、I」

 声に気づいて広場から目を戻すと、Aはすでに正面のイスに腰を落ち着け、コートを背もたれにかけたところだった。

「まさか。この時間帯、ぼくは待つことを知らないんだ。空の色が変わるのをいつまでだって眺めていられる。時間が止まっているんだよ」

「あら、そうなの。いつもはハツカネズミみたいに動き回っているのにね」

「ハツカネズミの空元気も、日が沈むころには尽きてしまうようだね」

 Aは不思議なヘアスタイルをしていた。左サイドの髪を束ねて右耳にかけるアシンメトリー。会うたびに初めて出会うかのような感慨を抱かせるのが、Aだ。

「なにか食べないか?」

「まだ食欲は出ないわね。あなたは?」

「ぼくもだ。昼過ぎに食べたサンドビーチがまだ腹に残っていてね。だが、少しつまんでおいた方がいいようだ」

 店内からはトマトと豆を煮込んだホレシュトの、品のいい香りが漂ってくる。「大衆食堂」と看板には書いてあるが、れっきとしたレストランだ。

 私たちは少し迷って、酸味を抑えたフェセンジュールとラヴァーシュを、白シャツのウェイターに頼んだ。Aがアジルをひとつかじった。

「その顔は、心配事があるね?」。

 Aはなにか口にしたすぐ後の表情で、その日の心の色が分かる。今日は少し濁った麒麟血色だった。ちょうどグラスの中に残ったアールグレイのような。

「私たちの仕事に少し問題が見つかったのよ」

「問題って、どんな?」

「バーコード」

「……詳しく説明してみてくれないか。ぼくに分かるように」

「いいわ。やってみる」。Aは白シャツのウェイターの立ち位置を確認してから小声で続けた。

「私たち、十三桁のナンバーを二つ取ったわよね」

「申請はうまく通ったはずだ」

「そうよ。何も問題はなかったわ。あの組織には目をつけられなかった」

「そして、君がその十三桁をバーコードに変換した。実際にコードの読み取りが可能なことも手元の機材で確かめられた。その問題はクリアできたはずだ……」

 私はグラスに残ったアールグレイを飲み干し、イマーム広場に視線をそらした。口調が強くなったのを少し後悔した。二人の『約束の日』が近づいていたため、少し焦りが出たようだ。王の広間には夜の帳が下りていた。ここはいつ来ても、宮殿の回廊のライトアップがいい加減だ。海中洞窟の中で灯したろうそくの炎のように、頼りなげな光を投げかけるばかり。

 二人の浮かない顔をみて自分も憂鬱な気分になったのか、白シャツのウェイターはうつむいて、両手で抱えた銀のトレーをのぞきこんでいる。

「問題があったのはバーコード自体ではないの。その周りの『空白』なの」

 Aがため息交じりに話をつづけた。

「コードだけじゃなくて、周りの『空白』にもやはり組織のルールがあったのよ」

「そいつは初耳だな」

「でしょうね。あなたはいつも数字の話ばかり」

「で、どんなルールがあった?」。フェセンジュールが運ばれてきて、テーブルの空気は少し変わった。私ももう、「どうにでもなれ」という気持ちになっていた。

「『空白』は上下が1・5ミリ。左右が2ミリ。それが組織のルールのようね。私、そこは見落としていたわ」

上下が1・5ミリ、左右が2ミリ……。私は苦笑いせざるを得なかった。

「数字で管理する時代になったのは認めるけど、『空白』まで細かく監視されているとはな。生きづらい時代になったね」

Aもようやく口元をゆるめて、

「大事なのは中身ばかりじゃないの。システムは外側から管理してくるのよ。一定の距離をとらないと、組織のインデックスから排除されてしまうわ」

 不意に、白シャツのウェイターが二人分のドゥーグを持ってきた。立ち去り際、私にウインクをしてよこす。「これでも飲んで、頭を冷やせ」ということか。

「そうだな。二人が生き残るために、インデックスには是が非でも残らないとな。A、12時間以内に直せるか」

「もちろんOKよ。なんとかするわ」

 少し長居しすぎた。席を立ち、ウェイターにリヤール紙幣の束を渡した。彼へのチップも忘れずに。いい笑顔の若者だ。背中越しにAが声をかけてくる。

「I、気をつけて。怖いのは雪ばかりじゃないわ」

 それを聞いて私もようやく、背中に冷たい物を当てられた心持ちがした。あの男のことを忘れていた。Rはいいとして、あの男は危険だ。席に駆け戻り、小声でAに確かめた。

「この件、Nには伝えてあるのか?」

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