福島県相馬市の高校生が震災後に発表した演劇「今伝えたいこと(仮)」などの記録映像上映を通じ、継続的に対話の会を開いている高校教師の渡部(ワタノベ)義弘さん。演劇の成立過程や、今も続く上映と対話の会の内容などの本題に入る前に、震災直前から直後の渡部さんご自身の体験について綴ってもらった。(ウネラ=牧内麻衣)
※隔週土曜に連載します
母校での卒業式
2011年3月、自分の母校で初めての卒業生を出した。40歳になっていた。未婚の自分が卒業生を出すには、両親の手助けが必要だった。
担任だけでなく、部活動はバドミントン部と放送局の掛け持ち。放送局の活動は、震災後ほど忙しくはなかったが、文化部とはいえ部の顧問の掛け持ちは大変であった。特に、5月は大会の日程が重なる。おかげで2011年の5月には体調を崩した。
3月1日卒業式。父と母の前に座った。改めて「(両親の)サポートがあって、初めて母校で卒業生を出すことができました。ありがとうございました」と久々に(笑)両親に感謝を述べた。その数日後には両親は三陸方面に旅行に行く予定になっていた(3・11のちょっと前だったので、あと数日後であったらと思うとぞっとする)。謝意を込めて、「美味しいものでも食べてきて」と1万円を渡した。その旅行の夜、母は珍しく酔うほど酒を飲んで吐いたそうだ(息子から旅行のお小遣いを卒業の謝意と共に渡されたのがうれしかったのだろう。腰が抜けるようだったとも父は言っていた)。普段はビールや酒を一口たしなむ程度である。
その年、ある生徒は国公立の2次試験をすべて小論文で勝負することになった。国語(この忌むべき名前!)教師として、腕の見せ所だ。もちろん自分で模範解答も書いてみる。それを経ての添削。そして過去問の分析と教授の担当分野から導き出される予想問題。3年生の授業が無くなる時期、これにかなりの時間を傾注出来た。
自分を高めながら受験指導をしたこと、自身が高校の時に作品制作をしていたことが、震災時の行動のバックボーンとなった。自分の頭で考えること。ニュースは編集されていること。(時に不都合な真実は語られない)。発信される情報を鵜呑みにせずに済んだ。
3月11日東日本大震災発災と原発事故 ―相馬を出る―
ワタノベは3月12日の午後、相馬を離れた。理由は二つ、一つはライフラインがぐちゃぐちゃで食料を満足に入手できなかったこと。もう一つはもちろん原発だ。その時にはまだ原発の危険性を訴えるニュースがあった。「危ない」と声高に言う訳ではないが、それでも原子炉を冷やせなくなっているというニュースを12日に見た。冷やせない原発は爆発の危険性があるので、相馬を離れることを決めた。この直後に1号機が水素爆発したが、その直前に移動したのは偶然だった。
山形経由で日本海に抜け、まずは新潟を目指した。一緒に避難した友人は名古屋に知人がいるから、そこに避難をするという見通しだった。ただ、名古屋を目指すには夜遅すぎた。体力の限界もあり、新潟で一泊した。携帯の充電池がいかれていて、電源のない場所で電話をかけられない状態だったのだ。新しい機種に変えようとしていた矢先、また原発の爆発を知ることになる。
順番をキャンセルして、一路名古屋へ。相馬から約300㌔離れた東京でも危ないかもしれない。最悪のシナリオはこの時に知る由もなかったが、チェルノブイリでは300㌔離れても飛び地の様に汚染地帯が広がっていたという。これが知見というものだ。ワタノベ自身ではなく、一緒に避難した友人の見解である。
そういう危機意識で出発したので、相応の覚悟を持っていた。まもなく、4号機のプールにはむき出しの燃料棒が収められていて、水が無いかもしれないことを知る。更に広島にまで避難した。原発からの距離を考えてのことだ。比治山の放射線影響研究所にも行こうと思った。自分の被爆(と当時は思っていた。正確には被曝)の状況を知られるかもと思っていた。だが、行った時がたまたま休みで調べることが出来なかった。避難者を多くの場所で受け入れていたが、発災から1週間しか経っていなかったため、広島では「相馬」からの人に無料の住宅提供はなかった。住宅提供があれば、この時点で休職を決めて「放射能」の勉強をするつもりだった。これも運命の導きかと思ったのだ。
われわれは何を学ばなかったのか 原子力・放射線教育の「成果」
ともかく、3月12日を最後に職場には行っていなかったのだった。12日は土曜日だったが、状況が状況だけにほとんどの先生は学校に駆け付けていた。ワタノベが最初に向かったのは学校で無く、避難所。帰れない生徒たちがいて、そこに付き添っていた先生がいたのだった。無事を確認して、ガソリンスタンドに向かった。7時にオープンするそのスタンドには車は2台ほどしか並んでいなかった。その後のことが嘘のように、被災地でまだガソリンを入れられたのだ。11日の夜に24時間営業のスタンドに行ったのだが、もちろん売り切れであった。後日相馬は2度も震度6の地震に見舞われたのだが、地震直後のスタンドに行列ができるようになったのは、東日本大震災の教訓であったろう。
3月の職員会の前にある先生が「(今の被曝は)レントゲンより大丈夫なんだって」という意のことを言っていた。ああ、山下俊一洗脳キャンペーン(※)が成功しているのだなと思った。これでは自分だけのうのうと避難はしていられない。未婚で子供もいなっかたゆえに、出来た決断である。
この時期に学校に来ていたある生徒は理系の先生から「イソジンを飲むと良いらしい」と言われたそうだ。良かれと思ってしたことなので、このこと自体を非難するつもりはない。ただ、これが原子力・放射線に関しての戦後の教育の「成果」でもあったのだ。
我々は何を学び学ばなかったのか、何を学ばされ何を隠されてきたのか。この検証が必要であったはずだ。だが、この検証からも教育は意図的に遠ざけられていた気がしてならない。
「ワタノベさんご自身のこと」①(終わり)
※ウネラ注:山下氏は2011年当時、長崎大学の教授で、放射線防護、放射線から身を守ることの専門家、スペシャリストと認識されていた。福島県は原発事故直後の3月19日、山下氏を県庁に招き、県の「放射線管理リスクアドバイザー」就任を依頼。県の依頼を引き受けた山下氏は、この日以降、県内各地で講演をして回った。 以下関連記事より、福島市内での山下氏の講演内容が読めます。
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