この企画は、今年9月福島県内にオープンした「東日本大震災・原子力災害伝承館」(伝承館)という施設の「あるべき姿」を考えていくものです。企画の狙いについては、前の記事「企画のはじめに」をお読みください。

 議論の材料として、館内の各フロアに掲示されている「文章」をアップしていきます。さすがに展示物そのものの画像はアップできませんが、「文章」を読むだけでも、伝承館の「伝え方」の一端は分かると思います。

 この段階ではあえて私たちのコメントは付記しません。読者の皆さまからコメントを集めて、みんなで考えていきたいのです。ぜひ、これらの文章を読んで感じたこと、指摘したいことなどを書き送ってほしいと思います。実際には伝承館に行ったことがない人も、議論に参加してもらえたら嬉しいです。

 投稿フォームは毎回記事の下に設置しておきます。

 前回は、1階ホールのオープニング映像で西田敏行氏が語る内容と、2階展示室へ続くスロープ壁面の「年表」を掲載しました。今回からは、いよいよ2階の展示室内の文章を紹介します。

 展示は、①【災害の始まり】②【原子力発電所事故直後の対応】③【県民の想い】④【長期化する原子力災害の影響】⑤【復興への挑戦】という五部構成になっています。

伝承館パンフレット

 

 今回は①【災害の始まり】の前半部分、<事故前の暮らし>です。福島第一原発が立地した双葉郡の地理や産業、原発が地域にもたらした影響などが説明されています。


↓ここからが、伝承館内に掲示されている「文章」の紹介です。

①【災害の始まり】

2011年3月11日、日本の観測史上最大となるM9.0の地震が発生。地震に続き、東北地方の太平洋沿岸を中心とした広範囲を津波が襲い、多くの死者・行方不明者が出る未曾有の災害となりました。

しかし、この災害はそれだけでは終わりませんでした。福島県双葉郡に立地する東京電力福島第一原子力発電所が、地震と津波により全交流電源を喪失し、原発の安全設備の機能をほぼ全て失い、この規模(※)では日本で初めての原発事故発生に至ったのです。

混乱の中多くの住民が避難を余儀なくされ、また行政や関係者は事態収拾に奔走しました。世界に例を見ない複合災害の始まりです。

※国際原子力事象評価尺度(INES)のレベル7「深刻な事故」に該当する規模

<1-1 事故前の暮らし>

2010年、福島県の人口は約204万人。製造業とともに農林水産業が盛んな土地でした。また、昔ながらの伝統を受け継いだ暮らしや、そこから生まれた工芸品、歴史を今に伝える数々の行事など、豊かな文化と歴史が息づく地域でもありました。先祖から大切に受け継がれてきた土地には、毎年豊かな実りがもたらされ、伝統が世代を超えて受け継がれる。人々はこのような日常が、これからもずっと続くと思いながら、日々の暮らしを送っていました。

●原子力発電所周辺の地域特性

福島県は、南北へ連なる阿武隈高地と奥羽山脈により、地理的に大きく3つの地方に分けられます。太平洋に面し、比較的穏やかな海洋性気候の「浜通り」、阿武隈川が南から北に流れる盆地の「中通り」、そして起伏の大きな山地が占める「会津地方」です。それぞれの地方が山地で隔てられ、地方ごとに独自の風土が育まれました。

福島第一原子力発電所が立地する双葉郡は、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村の6町2村から成る、浜通りにある地域で、北の相馬地域と合わせて、「相双地域」と呼ばれています。太平洋に面した温暖な気候に恵まれ、農業や漁業を主な生業とする一方、かつては常磐炭田の北端として、首都圏のエネルギー供給地帯としての役割を担っていました。

●事故前の地域産業

福島県は、東北地方の南の玄関口として交通の便がよく、経済・社会面で首都圏とのつながりが強いことから、幅広い産業が発展していました。産業別人口で見ると、第三次産業の占める割合が年々大きくなる一方、第一次産業の占める割合は、縮小する傾向にありました。しかし、全国と比較して第一次産業は大きな割合を占めており、現在に至るまで県の主要な産業です。

一方、福島第一原発の立地地域において、第三次産業就業者に占める電気・ガス・熱供給・水道業就業者の割合を見ると、福島第一原発1号機が運転開始した1971年頃から、その割合が大きくなっており、この地域において、原発関連の事業が、いかに大きな割合を占めていたかが分かります。

●相双地域の歴史と文化

相双地域には多様な伝統文化が息づいています。そのうちのひとつ、「相馬野馬追」は、1000年以上続く伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。相馬地域は平将門が祖先といわれる相馬氏が、鎌倉時代から江戸時代まで所領として治めてきた地域で、相馬野馬追は、平将門の馬の軍事訓練に由来すると言われています。

また、双葉の地名は「標葉郡」と「楢葉郡」が明治時代中頃に合併し、2つの葉からなる地域として名付けられたことに由来します。双葉町で毎年1月に開かれるダルマ市は、江戸時代から伝わる新春恒例の伝統行事です。縁起物のダルマや、豊作を祈る飾り物などの露店が並び、毎年大勢の人でにぎわいます。

●原子力発電所と地域社会

福島第一、福島第二原発が立地する地域一帯では、発電所が開業する以前の主な経済基盤は農業でした。また、福島第二原発が立地する富岡町周辺は、かつて炭鉱業で栄えた「常磐炭田」の北端にあたります。戦後、農村部では農業の衰退とともに過疎化が急速に進み、また炭鉱業も衰退の道をたどりました。一方で、高度成長期を迎える中、都市部を中心にエネルギー需要が増え続け、また中東の政情不安から石油価格が高騰する「オイルショック」を契機に、エネルギーの多様化が求められていました。原発の開業は地域に雇用を生み、経済的な恩恵をもたらしただけでなく、首都圏のエネルギー供給地帯として、日本の経済発展を支えてきたのです。

●原子力発電所が地域にもたらした影響

福島第一原発の建設が始まる1960年代後半まで、周辺一帯の人口は、福島県内の他の町村と同じく、減少が進んでいました。しかし、発電所の建設が始まると、双葉郡では電源立地町を中心に人口が増加に転じました。

・県原子力センターの役割

大熊町には県原子力センターがありました。この施設は原発の理解促進を図るとともに地域の放射線量を見守ることを目的としたもので、地域住民や子ども向けに原子力に関する展示を行っていました。

・原子力発電所と生活の変化

原発ができたことで周辺地域の暮らしは豊かになりました。これらの資料には、原発と地域とのつながりが見えるイベントや料理、健康などに関する記事が書かれています。

・原子力発電所ができたころ

かつて相双地域の一部では、農閑期は出かせぎに収入を頼ることもありました。この地域に原発が立地したことで雇用が増え、暮らしは豊かになりました。子どもたちの作文や持ち物が、当時の暮らしの変化を伝えています。

●双葉町の「原子力広報塔」

原子力広報塔の展示パネル

双葉町の「原子力広報塔」は、町が1988年に二葉駅前、1991年に双葉町役場前と、それぞれ設置しました。駅前の広報塔の標語は1987年に町が公募し選ばれた、当時小学6年生の児童の作品です。標語と広報塔は、福島第一原子力発電所と立地地域の結びつきを示しています。2015年に広報塔の劣化により落下等の危険があることから解体撤去されましたが、アーカイブ遺産として後世への伝承を求める意見が多く寄せられたことから、現在保管施設で保存されています。

↑ここまでが、伝承館内に掲示されている「文章」の紹介です。


以下のフォームよりご意見をお寄せください。必要事項を明記し、紺色の「送信」ボタンで投稿完了です。

※フォームでの送信がうまくいかない場合や長い論考などはuneriunera@gmail.comへお願いします。コメント欄などもお気軽にご活用ください。

次回は発災時の状況について説明する展示文章を掲載します。

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