福島県富岡町に今夏オープンした「とみおかアーカイブ・ミュージアム」に行ってきました。写真を中心に紹介します。
(福島県富岡町は福島第二原発が立地していた町です。町中心部はメルトダウンを起こした福島第一原発から10キロほどに位置し、町内の夜の森や深谷、小良ケ浜などの地区は、今も帰還困難区域に指定されています。)
常設展示室へ
それでは、さっそく展示を見ていきましょう。
展示室の入り口近くにあるのは、富岡町の地域の歴史を伝える資料です。町内から出土した縄文土器や石器、農具や漁具が展示されています。歴史民俗資料館という感じですね。驚くことに、この「ミュージアム」の展示の半分ほどは、震災と原発事故前の人びとの暮らしを伝える資料でした。
東日本大震災と福島原発事故のコーナーへ
大きな展示をいくつか紹介します。まずは、地震直後に設置された町の「災害対策本部」の一部再現です。
町は3月11日に災害対策本部を設置しましたが、翌12日には原発事故の影響で全町避難せざるを得ませんでした。たった1日しか使われなかった災害対策本部の様子を再現した展示です。
※これに関しては、福島県立博物館(会津若松市)で今春に開催された企画展「「震災遺産を考える―次の10年へつなぐために」で、より大規模かつ精密に再現した迫力ある展示を見ることができました。ぜひ、こちらのミュージアムでも同様の展示をしてもらえたらな、と思いました。県立博物館の企画展については、小林茂さんの記事でお読みください。→https://uneriunera.com/2021/03/17/enshokan-hokanoshisetsu3/
そして、「津波に流されたパトカー」です。
震災直後、町民の避難誘導にあたった警察官たちが津波に流されました。展示パネルには亡くなった2人の方のお名前も書いてありました。
震災後、国道6号「月の下」交差点の歩道橋の上に掲げられ、話題になった横断幕「富岡は負けん!」の展示もありました。現場と同じように、高いところに展示されていたのが記憶に残りました。
震災と原発事故のコーナーに入ったところ、最初の展示パネルで見つけたのは、こんな文章でした。
2011年3月11日午後2時46分。富岡町を震度6強の地震が襲う。ほどなくして大津波が沿岸部を壊滅させ、24人が犠牲になった。巨大な自然災害への対応が始まった。そのはずだった。
「とみおかアーカイブ・ミュージアム」展示パネル
”安全神話”はなかった。”事故”は起きた。着の身着のまま、覚悟もできないまま避難するしかなかった。長い町外での生活の始まり。まだこの災害は続いている。
同上
全体として、「原子力災害の本質に踏み込もう」という決意に満ちた展示、とは感じませんでした。でも、{富岡という地域に根差した展示にしよう」という意気込みは伝わってくるように思いました。古代・中世の歴史から伝えている点も、そうした効果を生みだすかなと思いました。たとえば、土器や漁具を紹介するエリアのすぐ近くには、2019年に解体した「JR夜ノ森駅」の一部を再現するコーナーがあります。たった10年半前まで人々が座っていたはずの駅のベンチが、まるで数千年前の土器と同じような感じで並べられていることに、何とも言えない胸騒ぎが起きました。その胸騒ぎは、「原子力災害の本質」に少し近づくものなのかもしれないと思いました。
証言ビデオもたっぷりと
また、展示室を出たところでは、町民たち17人の証言ビデオを見ることができます。ビデオは一人につき20分ほどで、たっぷりと聞くことができます。私が見たビデオは震災直後の住民避難に苦労した「区長さん」でしたが、これからの町の姿について結構言いたいことを言っていて、おもしろかったです。
(町の計画は)コンパクトタウンで今やってますよね。でも、私から言うと、富岡に帰って来たい人は、生まれたところに帰っていきたいんです。(中略)年寄りが富岡に来たい、富岡に来たいということは、ここ(コンパクトタウン)に来たいのではなくて、家に来たいんです。だから私からすれば、ここに家をいっぱい作った、そのうちの一つ二つは、その地域に作ってほしかったなという感じはします。
「とみおかアーカイブ・ミュージアム」証言ビデオから
震災の影響で変わったかって言われると……富岡町がなくなると思う。(中略)もう、この状況では、双葉郡はとにかくそれぞれの村で、町村では、やってはいけないんじゃないの?
同上
ご意見・ご感想をお待ちしております
以上、とみおかアーカイブ・ミュージアムの感想でした。ご覧になった方によって、感想も変わってくると思います。皆さまのご意見・ご感想をお待ちしております。
コメント
[…] […]