ウネリ:今回は久しぶりの雑談形式です。私たちが準備している映画「After Me Too」上映会を紹介したいと思います。ウネラさん、いよいよ11日から上映会が始まりますね。
ウネラ:そうですね。
ウネリ:いかがですか?
ウネラ:疲れてますよー。上映会のPRをしていると、いい反応も、悪い反応もありますし…。
ウネリ:うん。そうでしょうね。準備が忙しくてサイトの更新もできていなかったので、今日から数回に分けて、この雑談をお届けしたいと思います。まずは何より、「After Me Too」ってどんな映画なの、というところですね。
ウネラ:はい…(お疲れ気味)。
生きのびるための詩、祈りの言葉
ウネリ:2019年に制作された韓国映画です。4人の監督がそれぞれ、短いドキュメンタリーを撮っています。タイトルの通り、2017年以降に盛り上がった「#MeToo運動のその後」を描いていると。4つの中で、特にウネラさんの印象に残っているのは?
ウネラ:2番目の「100.私の体と心は健康になった」(イソムイ監督)です。幼少期に受けた性暴力のトラウマをずっと抱えている40代の女性、「幸福さん」の話なんですけど、ノートに同じ言葉を連続して書きつづけたりとか、ずっと言えないでいたことを、詩のような言葉で、ある場所で、表現します。カメラに映る彼女の行動は自分にも重なるところがあると感じました。何か手を動かしていないと、自分を保っていられない時があります。私が俳句を始めたのもそういう理由があったのだと思います。
ウネリ:それこそ2017年くらいかな。精神的にとても辛かった頃、俳句や詩歌を作ってましたね。
ウネラ:自分でも変だとは思っていたんですけどね。家の外に出られないのに、布団に潜りこんで歳時記を広げて俳句をつくってみたりして…。その頃は自分の被害についてオープンにすることができなかった時期だけど、何か気持ちを委ねる行為として、ものを書いたり、創作したり、ということがありました。
ウネリ:縫物をしたこともありましたね。フエルト生地でトトロをつくって、病気の子どもたちに贈るボランティアに参加したこともありました。
ウネラ:そんなこともあったね。映画に戻ると、「幸福さん」の声の上げ方、彼女の一つ一つの言葉が、とても心に沁みました。あれは、彼女にしか書けない詩の言葉であり、祈りの言葉だなと。心を揺さぶられました。
ウネリ:一般的に言えば、#MeToo運動の中では「権力者から受けた性暴力被害を公にする運動」が目立った。でも「幸福さん」の行動はそういうものとは趣を異にしている。
ウネラ:もっと内的なこと、自分を支える行為だよね。自分が生きのびるために必要な行為。
ウネリ:そこだよね。「生きのびる」という言葉が、ウネラさんや性暴力被害者の方の口からは自然と出てくる。比喩的な意味ではなくて、本当にその言葉がぴったり当てはまってしまう状態なのだろうと感じます。その深刻さを常に考えなければいけないと思います。私も作品を見ていて、ウネラさんは「幸福さん」の話に自分を重ねるだろうなと思いました。長く被害を公にできなかった経緯があるからね。
ウネラ:そうだね。詳しいことは作品を観てもらった後でなければ話せないけど、この映画の撮影を通じて彼女の中に「変化」が起こった部分はあると思います。その変化が彼女にとっては必要だったんだろうと思います。私も自分自身の変化を感じます。
ウネリ:上映会を準備する過程でも、ウネラさんが変化しているのは日々感じます。全体的に言って、それは「いい変化」?
ウネラ:だと思うけど、変化できたから安心、というわけではないんです。上映会のPRのために、いろいろな所で話す機会をもらっています。その時はスイッチが入って割とすらすら話せるんだけど、終わった後で、くらーい状態になりますね。どよーんと。
ウネリ:うんうん。もちろん単純に「話すのがつらい」のではないでしょ。話を聞いてもらって自信になる、励まされるという面も当然あって、全体的にはとてもプラスな行為なんだけど、それと同時にどっと疲れる面もある、ということですよね。
ウネラ:そうですね。その疲弊していく部分は周りの人には伝わらない。というか、伝わらないように自分が振舞ってしまう部分があるのだと思います。今回の上映会について「すごいパワーですね」と言ってもらったりします。けれども、そういう実感はないんですよね。むしろ現状は、どんどん自信がなくなってきています。できるかなーみたいな。
ウネリ:それは、ウネラさんの一つの特徴でもあるよね。「ゴールが見えてきた時につらくなる」という現象。ウネラさんだけとも限らないと思うけど。
ウネラ:そう。ラストスパートというのはできないの。ゴールが見えてくると、「もうダメだ。リタイアしたい」と思ってしまうタイプなんです。
ウネリ:単純に「克服すべきもの」ではないと思うけど、それは何を意味するのか、考えてもいいことだろうね。
韓国で大きな話題になったスクールMETOO
ウネリ:ほかの作品についてはどうでしょうか?
ウネラ:それぞれ全くちがうテーマを扱っていますよね。最初の「女子高の怪談」(パクソヒョン監督)はあるソウル市内の女子高で起きたMETOO運動を撮っているんだけど、見せ方が独特ですよね。一般的なドキュメンタリーではない。まず純粋に作品として面白いなあと思いました。
ウネリ:なにせタイトルが「怪談」だからねー。
ウネラ:そうだよね。韓国のスクールMETOOについては、作品を観た後でインターネット記事などを読みました。衝撃でした。
ウネリ:作品に出てくる女子高の例が一つのきっかけになって、スクールMETOOが全国に広がったんですよね。
ウネラ:国連でも話題になったようです。スクールMETOOが韓国で広がったのはなぜか。日本では今のところこういう動きが大きくならないけれど、それは「必要ない」からなのか。まだまだ「蓋をされている」状態だからなのか。考えるべき点はたくさんあると思います。
この問題を誰が解決するのか?
ウネラ:「それから」(カンユガラム監督)も、観終わった後で、勉強する必要があるなと思いました。いま日本でも話題になっている、映画、演劇、芸術界でのMeToo運動ですね。韓国では少しずつ建設的な対策が講じられつつあるようです。作品にも一部出てきたと思いますが、映画の製作スタッフがハラスメント防止講習を受けることが義務付けられたり、相談窓口が設けられたり、という動きですね。そういう動きは日本でも起こってくるはずなので、官民ともにその動きをどうサポートできるかということも大事だと思います。
ウネリ:一部の有志に頼るのではなく、ね。
ウネラ:作品の中で印象的だったのが、「この問題を誰が解決するのか」という言葉です。
加害者・被害者という当事者や、その周りにいる一部の人だけの問題なのか、ということです。広く問題を解決するには「仲間」が必要だということだと思います。仲間というのは、同じ被害者だけ、ということではなくて共同体、社会、行政も含めて、ということだと思います。
ウネリ:「女子高の怪談」はあえて「?」がたくさん残るような構成にしていて、「100.私の体と心~」は幸福さんに焦点を絞っている。それに対して「それから」は、上から講釈をたれる感じにはしてないんだけど、問題の所在をクリアに示している作品だなと思いました。緩急つけた映像と、登場人物のセリフの配置の手際よさが光ります。
グレー・ゾーンの不快感と向き合う
ウネラ:最後は「GREY SEX」(ソラム監督)です。これを観てどう思うのか、それを共有することが大事だと思います。共感しない人も結構いると思いますよ。
ウネリ:話し合いが必要だよね。
ウネラ:そうそう。「こういうことは自己責任」と片付けようとする人もいると思う。そこを考えなければいけないと。
ウネリ:「GREY SEX」は、いわゆるMeTooとはちょっと趣が異なる。ある程度の同意に基づいた性的関係の中で残ってしまった不快感、違和感。「自己責任」と言う人がいるかもしれないし、MeTooで社会を変えようとしている人からすると、「焦点がぼやける」と言う人もいるかも。だけどやっぱり、「私は不快だった」と言えることが大事だと思うし、そこにこだわってみせる監督の意気込みを感じました。
ウネラ:そうそう。されたことの痛み、不快感を取り出して、自分も含めて見てあげる必要があると思います。何に苦しんでいるのか、ということです。ここに出てくる人たちの「悩んでいること、つらいことが、世の中で軽視されていると感じます。話は少し変わるけど、私も「軽視されている」と感じます。私自身、ピシッとはしていない、いい加減なところがある。私は「こういう自分だから性被害に遭ったんだ」と長く思わされてきました。自分が思うだけでなく、周りの人から直接的または間接的にそういうことを言われてきました。最近やっと「そうじゃない」と思えてきましたけど、そう思う気持ちを完全に克服できたわけではありません。
ウネリ:「被害者のせいにする」「被害者のほうの粗を探す」ということだよね。それは本当に悔しいよね。
ウネラ:うん。
あらゆる人をリスペクトする社会に
ウネリ:4作品のどれに関心を抱くか、感情を揺さぶられるか、というのは人それぞれなんだろうね。
ウネラ:そうだと思います。たぶん、少なくともどれか一つの作品は、身近に感じたり、感情移入できたり、何かの驚きや気づき、得るものはあると思います。
ウネリ:総じていうと、ドキュメンタリーなんだけど、問題のありかを解説してその答えを提示して、というものではない。そぎ落とされた内容になっている。84分で4話。短い作品です。だからこれを観たからと言って「分かったつもり」にはなれない。これを観た後に、感じたことや疑問に思ったことを調べたり話し合ったりして、それで初めて一歩前に進む、という作品だと思います。それってすごく大事ですよね。「ああ、いい映画見たー」と思って浄化された気持ちになって家に帰って忘れてしまったというのでは残念なので。
ウネラ:そうだよね。あれ何だったんだろう、と後で思い返すほうがいいんだろうね。
ウネリ:押しつけがましいところがない作品だと思います。「これが正しいんです」「こうすべきです」という教科書的なところがない。いわゆる専門家みたいな人は出てこない。出てくるのは当事者ばかり。その当事者も英雄として仰ぎ見られているわけではないし、同じ目線の高さから撮影されている印象。素直に見られる作品です。
ウネラ:うん。
ウネリ:私のように、性自認や身体的特徴が男性で性的指向が女性に向かっている人間は、社会で暗黙のうちにいろいろな利益を得てきた。性暴力の問題はどちらかと言えば「加害」の側になることが多い。そういう中でこの問題に「気おくれ」を感じるのは分かります。しかし、そういう人が話に加わってこないと、本質的な問題は解決しない。私のような「男性」が一歩話に加わるための材料としても、とてもいい作品だと思いました。
ウネラ:人がみんな生きやすくなるために。性暴力という問題があってプラスになる人は誰もいないはずですから。隣にいる人を、見ず知らずの人を、リスペクトするような社会に変わればと思っています。
コメント
「me」の一人として……
もし、上映後、発言のきっかけがあったら、手を挙げて、以下のことを伝えようと、映画が終わった瞬間に思いました。
何か、重い予感があって、映画館まで来ました。そして、予感が的中するように、映画の終盤に近付くにつれて、「me too」の[me]が、男性である自分を含むことを、想定したことのなかった自分に愕然としました。(具体的個別的”事件”の「加害者」として糾弾されたことのない男性も、”当事者”として、事件の苦痛への叫びという鏡に自分が見えるという意味で「me too」という意味で……)
「権力」「利害誘導」「暴力的優位」などで他者を(特にしばしば男性が女性を)深刻に傷つける、そういう事件は、性の衝動・欲求・行動が、今までの社会で捻じ曲げ抑圧されてきたこと全体の中で、人が相互に大切にしあえないという中で起きてくるのだろう。だから、逸脱的犯罪的性行動を戒め糾弾することだけで、そんな悲劇がなくなるのでなく、性行動においても、よりフランクな申し出や、拒絶が、お互いを記傷つけることなく営まれるところまで、人間社会を変えていく必要がある。「me too」運動は、その方向に向かって、勇気ある女性たちが踏み出した、大きな一歩なのだろう。
そこまでは、車中で思いめぐらしていましたけれど、この映画に与えられた発見には至らずにいました。どうしても「同一」そのものの思いや感じ方を、直接には共有・認知できない他者性に対面しつつ営まれる身体相互の行動は、幼い頃や思春期から、老年期に至るまで、この身と、出会う他者の両方を、気づかぬままに(時に愛おしむつもりで)、傷つけてきたかもしれない。そういう非難や糾弾が自分に対し明確に受けたことのない男性個々人も、そういう社会的磁場において、性行動を営み、時に抑圧してきたし、はたから見れば、世間の道徳にも叶い、合法的で幸福に見える日常のなかで、やはり、そういう歪みを行動や、その結果として語られぬ歴史に刻んできたのだろうと、映画の(特に、4番目――)最後の部分が、迫ってきました。性的な意味で、「真摯」で「無辜」のつもりできた男の一人ひとりも、「自分は被害に遭わなかった」という女性の一人一人も、[me]が指示する(しうる)一人なのだと痛感しました。
「男である自分もmeの一人だったのだ」という発見を、言葉にすると『me too』運動の具体的個別的な重大さや行動の勇気をぼかしてしまいかねない危惧を感じますが、そのように受け止めてもよいとお考えでしょうか?」という質問発言を僕は自制してきました。しかし「トーク」の最後の部分で、牧内麻衣さんが発言していたことと、期せずして、内容が重なっていて驚きました。そして、出来事の個別性を、社会関係の全体性の中、あるいは普通の日常性の中で、(薄めることなく)敷衍し、深めることが重要だと考えてもよいのだと、meの一人として認めていただいた気がしました。