性被害手記の序文みたいなもの

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「甲子園がつらいという話」という記事に対しさまざまなご意見をいただいています。

順番が前後してしまいますが、自らの性被害をめぐる手記の「序文」「前書き」のようなものを記したいと思います。


  「お前はゆるい感じだからな」

  「隙がある」

  「親父キラー」

  「誘う感じがあったのでは」

  「被害を受けたとき、どういう服を着ていたのか」

  「ネタを取りたかったんだろう」

  「いい社会勉強になったでしょう」

 性被害を受けた後、社内外の人たちに、このようなことは直接的にも間接的にも、言われ続けてきました。

 今思えば耳を疑うような非難の言葉です。けれど私はこれらの言葉に即応できたことも、毅然と言い返せたことも、ほぼありません。それを弱いと言われればそうかもしれません。



 被害を受けた原因が、自分のパーソナリティーにあるのではないかと、悩み続けてきました。自分を責め、傷つけるような行為にも走りましたし、自分を変えれば問題が解決するのかと、髪を短く切ったり、話し方のトーンを意図的に強めたり、襟の詰まった服ばかりを着たりした時期もあります。

 でも今では、そのようなことをする必要は全くなかったと考えています。私は被害を「乗り越え」て「強い」自分に変わった、というようなことを書きたいとは思っていません。むしろその逆の表現をしたい。

 「ゆるい感じ」で「隙があ」り「親父キラー」などと言われていた、被害にあった時の自分を、もう今は少しも否定したくないのです。まだ完全にそう思えるようになるには至っていませんが、そうできるようになりたいと思っています。

 前述したような私に対する下卑た言動は、もちろん是認できません。ですが、少なくともそうした発言をした人たちの目に映った、私という人間像は、そういうものだったのでしょう。

 けれど、そのように見えていたらしい「私」ならば、性被害にあっても当然だったのでしょうか。しょうがなかったのでしょうか。

 答えは当然「否」だと思います。

けれど、残念ながらそれを否としない見方が、この社会には深く広く根づいていると感じます。

 そうした見方をされる人たちがすべて攻撃的な人間であるとか、性被害者に対して悪意のある方々とはまったく思いません。むしろ、それぞれの良心や信念に基づき、日々を懸命に生きておられる人がほとんどだと思います。

 ただ単に、この問題を全くの「他人事」と捉えているともに、人の尊厳、生命に対する思慮が浅いのだと思います。ただ、そうした思慮の浅さからくる無理解は、被害者を確かに傷つけます。

 無自覚に人の尊厳を傷つけてしまうことは、誰にでもあると思います。私自身、あらゆる生命の尊厳を大切にできる人間でありたいと思いながらも、到底、十分ではないと葛藤しながら、日々を生きています。だからこそ、せめて「自分の無理解や思慮のなさによって誰かを傷つけていないか」ということを、問い続けていきたいと思っています。

 殴られて、けがをしている人を目にしたとき、真っ先に「この人は殴られるようなことをしたのだろうか?」と考えるでしょうか。私はそうは考えません。理由はどうあれ、傷ついている人が目の前にいれば、その人の手当てが先だし、いかなる理由があろうと、暴力は許されないと考えます。

 性暴力についても、同じではないでしょうか。

 また私は、性暴力を「男性」と「女性」との間に起こる問題として捉えることに、限界を感じています。人間性の問題、生命の問題として問い直さない限り、出口が見えないような気がしています。

 まだ自分の中で整理できていない問題も山積みなので、ゆっくり考えていきたいと思います。

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