ある日、映画を見ていたときのこと

※性被害について書いています。心身の影響が考えられる方は読まないでください。

久しぶりの対談形式です。

あまり楽しい話ではないのが残念ですが、大事な事だと思い、書き留めておきます。


ウネリ きのう二人で映画を見に行きました。気になっていた作品が上映終了間近だと気づき、急いで行きましたね。いい映画だったのですが……。そこで「あーあ」ということがありました。

ウネラ そうですね。私は実は映画の途中で気がついてしまいました。

ウネリ そうか。すごいね。

ウネラ ある意味「過反応」ですよね。そこまで気をとられる必要はないのに、つい確かめてしまう。衝動的に……。具体的に言うと、映画の中で、主人公たちが新聞を読むシーンが2、3回あるんです。すると、私は「何新聞かな」と確認してしまうわけです。

ウネリ 私もちょっとは気になりましたが、そこは考えないようにしました。

ウネラ 「過反応」してしまう私は、主人公が持っていた新聞が、すぐに朝日新聞だと分かってしまいました。題字が見えるシーンがあって。

ウネリ そうだったんだね……。

ウネラ 「ああ、またこの流れか」とため息が出ました。

ウネリ 複雑ですね。

ウネラそういう場合いつも、自分なりになんとか気を取り直そうとはするんですよ。自分が受けた性被害と会社による二次加害、三次加害に関する記憶によって、映画鑑賞そのものを台無しにしたくはありませんから。なんとか気を逸らしてスクリーンに集中する努力をしました。

ウネリそれは、ある程度できた?

ウネラ ある程度は作品の世界にとどまれたと思います。でも映画が終わったときに……。

ウネリ 出たんだよね。バーンと。

ウネラ はい。エンドロールの最後のほうにね。「製作」だったかのクレジットに、社名が大きく出ていました。

ウネリ すごく目立つ出方だったと思いますよ。数十個の協賛企業の一つとしてバーッと流れるならまだしも、4つか5つしかない名前の中の一つが「朝日新聞社」だったからね…。字のフォントも大きかった。

ウネラ この映画自体を責めたいのではありません。良い映画を作るためにスポンサーや後援団体を探すのは悪いと思いません。ただ、こうして思いがけず社名を見ただけで、傷ついたり落ち込んだりする一個人が存在する、という事実について、理解してもらえる方には理解してもらいたい、という気持ちで、このことを話しています。

ウネリ そうだね。どんな気持ちでした?

ウネラ とにかく、がっくりする。映画を楽しんでいただけに、落差も激しいです。こういうことがいつまで続くのだろうか、という感じです。「朝日新聞社」という社名を見かけても全然平気な状態に早くなりたいと、心底思っているんです。

いま診察を受けている主治医は以前、こんなことを言いました。

「心の傷そのものはずっと消えないでしょう。傷口が乾いてしっかりしたかさぶたができても、たぶん傷跡は残ります。たとえ傷口がふさがったとしても、しばらくは傷跡を見るたびに苦しむかもしれません。でも、その傷跡を見たり、少し触ったりしても大丈夫だという日が、来ると思います。つらい記憶をもう一度みても正気を失わない、なんとか大丈夫でいられる、という状態です。それを一応の回復として、その状態をめざして治療していきましょう」

ウネリ 一年くらい前、いまの主治医と出会って間もないころにそう言われましたよね。私も覚えています。

ウネラ主治医が言ったことは、直接の性被害だけでなく、朝日新聞社から受けた「二次被害」「三次被害」についても当てはまるんだなと、つくづく実感します。きのうの映画鑑賞と似た経験、同種の落胆は、日常生活にあふれています。しかも、その1回1回のダメージはけっこう重たくて、寝込んでしまったり、食事をとりにくくなったり、身体的にも影響が出るんです。

ウネリ そうでしょうね。

ウネラ 私はいまだに、新聞をまともに読めないんです。もう大丈夫かなと思ってウネリが読んでいる新聞を時々開いてみますが、やはり無理です。すごくしんどくなります。新聞は、自分の直接の被害とも、二次、三次被害ともがっちり紐づいているからです。いまは朝日新聞は購読しておらず他紙のみです。それでも苦しくなります。

ウネリ ウネラさんはいろんな社会問題に関心を持っていますよね。それなのに新聞で情報収集できない、新聞から考える材料を見つけられないのは、つらいね。

ウネラ とにかく情けないですよ。こんな状態で世の中の問題を自分なりに考えられるのかと、自分に対する不信感も抱きます。「つらい経験をしてから新聞すら読めない」とか、「映画のクレジットに社名が出てくるだけで傷つく」とか言うと、「いつまでも恨み節を言わない方がいいのに」などと思う人がいるかもしれません。「この人は感情的になっている。感情に振り回されている」と思う人もいるかもしれません。そういう風に思われるのが嫌で、今までこの種のことはあまり言ってきませんでした。でも、被害者の心情、二次被害を含めて傷つけられた人の心情を理解してもらうには、やはりオープンにしていくしかないかなと思っています。

ウネリ だって、ウネラがそう感じているのは事実だからね。

ウネラ そうです。

ウネリ取材させていただいた過労死遺族の方が、「テレビ番組はすべて録画してから見る」とおっしゃっていたのを思い出します。民放をリアルタイムで見ているとCMが入る。亡くなった方の勤務先企業のCMが出てくる可能性がある。そのCMに遭遇するととても苦しくなるので、すべて録画し、CMをスキップして見る。と、おっしゃっていました。

ウネラそうですね……。

ウネリ 半年くらい前に「『良きもの』の中の性被害について」というタイトルで雑談記事を出しましたが、今回の映画の件はそれに近いものも感じます。映画自体はよかった。でも朝日新聞が関係していることが分かる。その瞬間、なんとも言えない嫌な気持ちになる。

ウネラこの映画を「いい」と思った自分自身まで否定したい気持ちになります。しかも、こういうことって、日常生活でたびたび起こるんです。たとえば絵画や音楽が、私は好きです。特に首都圏に住んでいた時は「この展覧会、行きたいな」というのが結構ありました。でも、こういう芸術分野は朝日新聞社の得意分野でもあります。

ウネリ 朝日の主催、共催だから行く気が失せた、という経験は確かに何度もありますね。会社を辞める前から。

ウネラ こういうことを言うと、「区別して考えればいいじゃないか」と言う人がいます。確かにそれができたら楽です。でも、それができないから通院しているんですよ、と言いたくなります。

ウネリきのうの映画は、見ないほうがよかった?

ウネラ そこは何とも言えないんです。気持ちの持って行き場が分からない、というか。映画自体は「見てよかったんだ」と思えたら思いたいんです。でも同時に、「見なければよかった」「見ないほうが楽だった」という気持ちがあるのも事実です。「上映期限が迫っているのに気づかず、見逃してしまっていればこんな気持ちにはならなかったのにな」というのが、正直なところでしょうか。

ウネリ つらいですね。

ウネラ けっこう嫌になります。好きなことや楽しみが、思いがけず削がれるようで。

ウネリ 少し話が変わりますが、朝日新聞を購読していなくても、朝日新聞の記事のことがインターネットやSNS上で話題になることってあるじゃないですか。社会問題に関心をもつ以上、その記事が避けては通れない内容だったりすることもあると思います。そういう時、つらいよね。

ウネラ そうですね。先ほど言ったように私は新聞を開けないのでインターネットを中心に情報収集しています。朝日新聞デジタルの記事でも、見出しを見て「読みたいな」と思うものだってありますよ。でも、実際読んでいると、記事の内容がどんなによくても、自分の中に冷めていくものがあるのを感じて、つらい。たとえば性暴力に反対する内容の記事などは、どうしたって朝日新聞のものは読めないですよ。その会社の中にいて自分の件は黙殺されたわけですから。私の話を記事にして書いてみたらどうかって、ずっと思ってますよ。人権に関するもの全般もそうです。書かれている内容に共感できるところがあったとしても、「この『人権を守るための文章』を配信している会社から、私は『人権侵害』を受けた」という気持ちが、どうしても出てきてしまいますから。

ウネリ そうだよなあ。

ウネラ ある時期までは、自分なりに努力していました。理性的でいなければと。たとえ自分の尊厳を踏みつけにした朝日新聞の記事であっても、いいものは「いい」と認める自分でいるべきだ、自分の感情とは区別するべきだ。そんなふうに考えていました。でも、それをやっていると、症状は確実に悪くなります。無理をしているからです。

ウネリ そうだね。今はどう対処しているの?

ウネラ 見出しで気になる記事があっても、朝日新聞の記事は開かないことにしています。「私は朝日新聞が嫌なんだし、許していない。だから読まないし、『いいね』したり引用したりしない」。そう思っています。それでいいんだと思えるまでが長かった。やっとここまで来た、という感じです。これまでは、今のようなことを語ることすらためらいがありました。先ほど言ったように、「いいものはいいとフェアに評価し、個人感情とは区別しなければいけない」と考えていた部分があったんです。「自分が嫌いだから読まない」は、自分の狭量さを示すように感じて悩んできました。今は、そこからは少し抜け出しつつあると思います。会社にされたことの重大さを認識できるようになってきた結果だとも感じています。

ウネリ「『良きもの』の中の性被害について」のときも話したと思いますが、自分からすすんで属した組織の中での被害は、特殊な苦しさがあると思っています。たとえば朝日新聞は一応、「人権派」のメディアとされていますよね。今となってはそのメッキもだいぶ剝がれてきたと思いますが、まだそういう風に位置付けている人は多いのではないでしょうか。元々その朝日新聞がかかげる看板に共感したから、ウネラさんは入社試験を受けたんだと思います。しかし、その組織の一員として仕事をするなかで性被害にあい、その後その組織から「二次加害」「三次加害」となる対応を受けて、尊厳を著しく傷つけられました。

さらに、そうしたことがあって会社を辞めた後も、朝日新聞という組織は「良きもの」として、性の問題や人権の問題を発信し続けます。それを目の当たりにしながらウネラさんが心の平静を保って暮らすには、どうすればいいか。一番手っ取り早いのは、ウネラさん自身が「個の尊厳」や「人権」といったテーマから目を逸らしていくことです。それまでモットーとしてきたことを捨て去り、何か別のことをモットーにして生きていけば、苦しみは軽減するかもしれません。

ウネラ でも、それでは自分が自分ではなくなってしまいます。

ウネリ そうですね。会社を辞め心機一転、自分なりに自分らしく生きようと模索します。でもウネラさんの場合、その「模索」とは、「個の尊厳や人権を大切にするための活動を行う」ことでもあると思います。たとえば、このサイト、「ウネリウネラ」の運営だって、ウネラさんのその「活動」の一端です。

ウネラ そうですね。

ウネリ この活動を続ければ、いろいろな人とつながりができます。それ自体はとても嬉しいことなのですが、少しだけつらいのは、そうして出会う人の多くが朝日読者というか、人権派メディアとしての朝日新聞に一定の信を置いている、という事実です。それは致し方ない部分があります。もともとのモットー、方向性が似ているのですから。

ウネラ そういう地味なつらさは、積もってきますよね。

ウネリ これは簡単に解決策が講じられるような話ではないと思いますが、自分がすすんで属していた組織に傷つけられた人にはこのような苦しさがあるということを、ひとりでも多くの人に分かっていただければと思います。

ウネラ そうですね。今話し合ったようなことは、ある種の「生きづらさ」と言っていいんじゃないかと思います。普通に自分らしく生きることは、難しくなってしまった。

先ほど、「私は朝日新聞が嫌だから、興味・関心のある記事があっても読まないし、『いいね』したり引用したりしない」と言いました。それは、朝日新聞に書かれている事柄を理由に、自分の主義、主張や考えを変えるということでは全くありません。でもけして朝日新聞の言説には『乗らない』ということです。それが私の尊厳を守る上で大事なんです。

自分の考えと朝日新聞の論調とに重なるところがあったとしても、絶対に朝日新聞の記事に重ねて自分の思想・信条を主張することはしない。たとえ見ている方向が同じであっても絶対に連帯しない。特別何をするというわけではないんですが、自分のなかにそういう意識を持っていることが、今のところ、生きる上で重要です。

ウネリ そうですね。少なくともそういうことは言えるかもしれません。

(終わり)




3 thoughts on “ある日、映画を見ていたときのこと

  1. とても考えさせられました。
    到底傷の深さは比べものになりませんが、わたしにも同じ対象があります。
    一生それを自分の生の根幹に据えていこうとした団体を、共同運営者に根本から信頼関係を壊された結果、その団体の名前を見るとウネラさんのような感情を覚えます。
    その度ごとに、恨み節を言った方の負けだと思い、感情を飲み込んできました。
    けれど、のうのうとその団体(の元共同運営者)は活動し続けているようです。
    こうした感情、傷と一生どのように向き合っていけばいいのか、見て見ぬ振りをするしかないのかと、四年経っても疼きます。
    幸いにも、その際に知己を得た方々とはカフェロゴを通じて交流が継続できています。
    ウネラさんにとってのこのブログは、私にとってはカフェロゴなのです。
    誰かを傷つけたことを無視したまま、平然と公共性を僭称しながら活動を継続する団体組織を許しはしないでしょう。
    そして、それを言語化して刻み続けることの重要性を考えさせられました。
    ありがとうございました

    1. 渡部さん

      こちらこそありがとうございます。
      今も続くつらい経験を綴っていただいたことに深く感謝します。
      私にとってのブログが渡部さんにとってのカフェロゴであるということ、とてもよくわかるような気がしました。
      渡部さんからのコメントをいただいて、この文章を書いてよかったと心から思うことができました。
      コメント欄でのやり取りには限界がありますから、お会いした時にまた少しずつお話できたらと思います。
      本当にありがとうございます。

      ウネラ

  2. 「良き者による性加害」について、私も深く傷ついた経験があります。東日本大震災直後のことでした。ある映画監督から「ぜひ、そちらの短大で私が制作した映画を上映したい」という申し出があったとのことで、検討されました。チェルノブイリにおける汚染と健康被害をテーマにしている作品(絵本もあり)でした。主人公は少女です。しかし、私にはその監督の名に別の記憶がありました。映画への出演をほのめかして少女たちに性暴力をふるい、実刑判決を受けた男性でした。ベラルーシでの撮影でも、少女たちへの加害行為が疑問視されていました。福島での上映場所に女子短大を選んだことへの疑惑も強く、私は断固反対しました。そのときの周囲の反応は「罪は罪、人は人、作品がよければよし」でした。納得できず、強烈に反対して上映は断念されましたが、私への「狭量な人」「小さな問題で騒ぎ立てる人」という評価が残され、働きづらくなりました。

    卒業生が、かつて短大で働いていて異動した教員(妻帯者)と結婚(お子さん2人いましたが離婚)して出産したことを知って驚いた私に、「在学中からあの学生と付き合っていたことも知ってたし、その前にも他の学生と性関係があったことも知ってたけど、二瓶先生に知られると大騒ぎになるから黙ってたわ」と、責任者である教員に笑いながら言われました。未成年の学生と学内でも性行為をしていたという事実(学生たちから告発があったそうです)に対し、「無かったことにする」「黙っている」ことが組織を守ることなのだと、愕然としました。愛着のある職場でしたが、今は辛い記憶がよみがえる場所です。トップに上り詰めた件の教員の写真を見ると、人間不信に陥ります。

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