5月31日、わたしは朝からむしゃくしゃしていた。何も手につかなかった。畑の草をぬいたり、不急の本を読んだり、そんなことばかりしていた。自分ができること、すべきことが分からない。気持ちよく晴れた空は、かえって自分のちっぽけさを際立たせた。
気づくと日が傾いていた。見るに見かねてウネラが提案した。
「ローソクに火をつけてみようか」
わたしは本棚に飾っておいた小さなローソクを手にとった。3月1日、3月11日、8月6日、8月9日……。特別な日に灯すために買っておいた小さなローソク。
◇ ◇ ◇
駐車場に車をとめ、小さな水の流れに沿って歩くと、竹林のあいだから石造りの門柱が姿を見せる。「浄土宗宝鏡寺」。門柱の脇に小さな花が群れ咲いている。白い花びらに黄と紫の絵の具をふりまいたようなシャガの花。
門柱の先は石段になっている。のぼりきったところが宝鏡寺の境内だった。正面に本堂がある。「非核の火」は、本堂の左側に据えられていた。
石碑の中央に黒く縁どられたショーケースがあり、火を灯したランプが安置されていた。近づいて、ランプの中をのぞく。火はほっそりと立ちのぼっていた。人間一人ぶんの火だと、わたしは思った。
火の由来を伝えるパネルがあった。
一九四五年八月六日・九日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下され、一瞬にして十数万人の尊い命が奪われました。そして今も多くの被爆者が苦しんでいます。広島の惨禍を生きぬいた福岡県星野村の山本達雄さんは、叔父の家の廃墟に燃えていた原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として密かに灯し続けました。しかし、長い年月の中で、核兵器をなくし、平和を願う火として灯すようになりました。・・・(後略)
この「広島の火」は、長崎の原爆瓦からとった火と合わされ、「広島・長崎の火」となった。1990年からは市民たちの働きかけで東京・上野東照宮のモニュメントの中で点火されるようになった。原発事故から10年がたった2021年、宝鏡寺の住職だった故・早川篤雄さんがこの火を引き継いだ――。
早川さんは50年近く原発への反対運動を続けてきた人だ。1975年にはじまった福島第二原発の設置許可取り消しを求める訴訟で、市民たちの先頭に立った。事故が起きてしまってからは、東京電力を相手にした避難者訴訟の原告団長を務めた。
「非核の火」のすぐそばに、早川さんと同志の安斎育郎さんが建てた「原発悔恨・伝言の碑」がある。
電力企業と国家の傲岸に
「原発悔恨・伝言の碑」前半
立ち向かって40年 力及ばず
原発は本性を剥き出し
ふるさとの過去・現在・未来を奪った
早川さんのメッセージは、同じく宝鏡寺の境内にある「伝言館」で受け取ることができる。正式名称は「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」。連綿とつづく核災害の歴史、権力の傲岸さに抗ってきた市民たちの歩みが展示されている。一人で見学していると、早川さんの悔恨が聞こえてくるようだった。
立ち向かって40年、 力及ばず・・・
◇ ◇ ◇
伝言館の中に「非核の火」と同じ名前のローソクが置いてあった。ひとつ500円くらいの、小さな丸いビン。
夕ご飯の時、このローソクを食卓に置いた。子どもたちの顔が集まってきた。
「きょう、このローソクに火をつけます」
「これ、ローソクだったんだ」と小さな子は驚いている。「ヨーヨーだと思ってたんだよなー。どんな火かな?」
「早く火をつけてよ。電気消すから」と真ん中の子が急かす。
電気を消したらみんなが静かになった。ライターで火をつけると、小さな炎がぼわっと立ちのぼった。宝鏡寺にあった火よりもずいぶん背が低い。子ども一人ぶんの火だと、わたしは思った。しばらく火をみつめた後、子どもたちが一斉に息を吹きかけた。
この国の政治では、「どうしてそうなるの?」ということがしばしば起こる。頼ってはいけないものを頼り、お金をつぎ込んではいけないことにお金をつぎ込み、たった12年前のことを忘れる。12年前から損なわれ続けているものに目を向けようとしない。
むしゃくしゃするし、自分は無力だと痛感する。そんな自分に、ローソクの火は語りかけてくる。早川さんたちが建てた「原発悔恨・伝言の碑」の後半の言葉だ。
人々に伝えたい
「原発悔恨・伝言の碑」後半
感性を研ぎ澄まし
知恵をふりしぼり
力を結び合わせて
不条理に立ち向かう勇気を!
科学と命への限りない愛の力で!
(おわり)
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