【裁判レポート】原発事故の責任を追及する「生業訴訟」

報道

 原発事故の責任を追及する運動は、今も盛んに続いています。5000人超の市民たちが原告団に加わる「生業を返せ、地域を返せ! 福島原発訴訟」、いわゆる「生業訴訟」(第二陣)の口頭弁論が、7月1日、福島地裁でありました。その様子をお伝えします。

 まずは原告のお一人、福島県伊達市在住の高橋敏明さん(67)がこの日行った「意見陳述」を紹介します。


原告団に加わった伊達市在住、高橋さんの思い

「高橋家は400年以上前から、月舘町で農業を営み、おいしい水や風土を利用して米や野菜を作ってきました」

 高橋さんは黒いスーツ姿で裁判長の前のイスに座り、意見陳述を始めました。
 1953年生まれ。福島県の“中通り”(原発がある“浜通り”に比べ内陸部)に位置する伊達市月舘町に住んでいました。原発事故が起きるまで、「妻が主に農業を担い、私は会社員をしながら休日に農業を手伝っていた」といいます。3人のこどものうち、息子2人は独立し、当時27歳の娘と同居していました。高橋さんのお母さんも一緒に住んでいました。

 住み慣れた土地での平穏な暮らしは、原発事故によって突然に奪われました。

 中通り地域の多くは放射線量が高かったにもかかわらず、避難指示が出ませんでした。
 けれど高橋さんが住む月舘町は、事故後に放射性プルームの通り道になって全村避難となった飯館村から、直線で300メートルほどしか離れていませんでした。住民たちは、不安な状況に陥りました。

「隣の飯館村が避難を指示されるほど汚染されているのですから、私たちが住む土地も同じように汚染されているのではないか、避難したほうがいいのではないかと、住民の中で騒ぎが起こりました。放射性物質の影響は未知数であり、今後どのような健康被害が出るかわからないという不安が今もあります」

 一家の中では、娘さんが最も不安を強く感じていました。家じゅうの窓のサッシに目張りし、外で飼っていた犬と猫を室内に入れて、家の中に閉じこもるようになったそうです。

「私と妻は、娘のことが心配になったこともあり、相談の結果、少しでも原発から遠くへとの思いで、妻の実家がある伊達市霊山町に避難しました。本当は、もっと遠くまで避難したかったのですが、犬と猫もいたため、やむをえませんでした」

 しかし、避難生活は2週間ほどしか続きませんでした。高橋さんのお母さんが、「家に帰りたい」と言ったためです。避難について家族内の意見が割れ、苦しまれていた様子が、目に浮かびます。

 原発事故は、高橋さんのその後の人生設計も狂わせます。福島市内に住んでいた長男は、2011年秋に月舘町の生家に戻り、一緒に農業を営む予定でした。そのため、田んぼを整備し、倉庫を直して、準備を進めてきたそうです。

 けれど事故後、長男は「セシウムが入ったものを売ることはできない」と考え、実家に帰ることを諦めざるを得ませんでした。福島県産の米の単価が下がって米の作付けができなくなると、田んぼはみるみる荒れていきました。イノシシが土を掘り起こし、モグラの穴だらけ――。

 高橋さん一家は、米作りをやめました。

「原発事故で、すべてが台無しになりました」

 高橋さんは住民たちによる「集団ADR」の申し立てに加わりました。集団ADRとは、裁判よりも時間をかけずに、住民が東電と交渉し、事故の賠償を受けるための制度です。しかし、東電がこのADRによる和解案を拒否したため、交渉は打ち切りになってしまいました。

 最後に、高橋さんは法廷でこう訴えました。

「東京電力のやり方に納得できない思いがあり、生業訴訟に加わることを決めました。帰ってくるはずだった長男も帰ってこなくなり、私たち家族の生活や将来は狂わされました。国や東京電力には、きちんと責任を取ってほしいと思います。差別なく、被害実態に応じた明確な対策や賠償をしてほしいです」

 高橋さんは、淡々とした口調で、裁判官に意見を述べました。しかしその言葉の一つ一つには、原発事故に人生を狂わされたやるせなさが満ちていました。

裁判の前に行われた集会でマイクを握る高橋敏明さん

生業「第一陣」は最高裁へ

「生業訴訟」は、提訴の時期によって第一陣と第二陣に分かれています。きょう法廷の様子を紹介したのは第二陣です。

 この訴訟のキーポイントは、何と言っても、「原発事故を起こした国の法的責任が認められるか」です。第一陣のほうは福島地裁(2017年)、仙台高裁(2020年)と連続して勝訴し、「国の責任」を司法に認めさせています。現在は最高裁に進んでおり、ここで覆されることがなければ、判決が確定することになりますので、要注目です。

 なぜ国の法的責任が認められることが大事かは、仙台高裁の判決前に書いた記事(原告団が最大規模の原発事故集団訴訟)をお読みください。

コメント

  1. […] 【裁判レポート】原発事故の責任を追及する「生業訴訟」 […]

  2. 二瓶由美子 より:

    私が勤務していた短大の学生の多くは地元出身者でした。専業農家に育った学生もいました。原発事故後、家業を続けられるかどうかを家族で話し合っていると相談に来た学生もいました。親戚中にコメを送るために家族でコメ作りをしているという兼業農家に育った学生もいました。祖父母が畑でたくさんの野菜を作っていたけれど、生きがいをなくしてしまったと涙した学生もいました。思い出すだけで胸が詰まります。原発事故は、多くの人々の日常を奪いました。

    • uneriunera より:

      二瓶由美子さん
      コメントありがとうございます。
      理不尽に多くの人たちの日常を奪った原発事故のことを、伝え続け、語り継いでいく努力が必要だと痛感する日々です。
      微力ではありますが、こうして記事を書きそれに対しコメントをいただく、といった相互的な営みが、忘却や風化への抵抗となり得ると思っています。
      今後もご意見をお寄せいただけたら幸いです。
      ウネリウネラ

  3. […] 【裁判レポート】原発事故の責任を追及する「生業訴訟」 […]

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