福島県内に昨年オープンした「東日本大震災・原子力災害伝承館」(伝承館)の「あるべき姿」を考えていく企画「伝承館は何を伝承するのか」。議論の材料として、館内の展示フロアに掲示されている「文章」をアップした上で、みなさんから広くご意見の投稿を募集し、議論してきました。展示文章とみなさんの声は以下のページにまとめていますので、ご覧ください。

→ 伝承館は何を伝承するのか

前回のA.Sさんの投稿に続き、福島市の元新聞記者・小林茂さんより、会津若松市にある福島県立博物館で開催中の震災企画展について、精緻な論考をいただきました。ご紹介します。


【小林茂さんからいただいた投稿】

題名:福島県立博物館企画展「震災遺産を考える―次の10年へつなぐために」をみてきました

○収集し・学び・伝えることへの執念

 双葉町にできた伝承館は、肝心なことを伝えようとせず、国・県・東電などの責任から目を逸らし、忘却に加担しているかのようだ――と思っています。

 ほか(の施設)はどうなのだろうか…。そのことを知りたくて、3月6日(土)、福島市から電車・バスを乗り継いで、県立博物館の企画展を訪ねました。

 いま集めておかなくては永遠に失われてしまう時間との勝負。被災地の人々(だけでなく生き物すべて)や場所・地域の記憶〈震災遺産〉を、地を這うようにして探し、集めた学芸員の使命感と執念、がびしびし伝わってきます(最近よく目にする“熱量”という表現がふさわしいかもしれません)。

 そのようにして集めた事物(記録と記憶)から何を汲み取り、どのような形で伝えていこうとするのか、企画展実施に際して、おそらく自問自答や内部討議のあっただろうことが展示構成からうかがうことができ、被災地の人々(や生き物すべて)の暮らし・営み・息遣いが立ち上がってくるようで、なかなか次の展示に向かうことができませんでした

 土曜日だったこともありましたが、収集された史資料のまえで説明をのぞきこみ、長い時間たたずむ人たちの姿が目立ちました(写真撮影はフラッシュを使わない限り、すべての資料について可能でした)。

 展示ストーリーとコンセプトは次のとおりです。

◆第1部 東日本大震災を考える

地震、津波、火災と原子力発電所の事故を伝える震災遺産とともに、東日本大震災を振り返ります。

◆第2部 震災遺産から考えたこと

学芸員が震災遺産を収集するとき、何を考えていたのか。集められた震災遺産をどう読み解いたのか。
震災遺産とどう向き合ってきたのか紹介します。

◆第3部 震災遺産が伝えること

集めた震災遺産がなにを語るのか、伝えられるのか。震災遺産と関係者の言葉も紹介します。
みなさんと一緒に震災遺産を考えます。

○止まった時間の記憶

 博物館エントランスに置かれた、富岡駅前にあった郵便ポストと、会場に置かれた台座は津波で流されたその距離を再現している、と書かれています。

 目星をつけていた津波痕跡が、次に行った時には撤去され行方不明になっていたこと、諦めきれず四方手を尽くして探した末に、スクラップにされる寸前のところを救出・回収したことが、この日行われた企画展と同名のフォーラムで語られました。

 家族同然だったのに置き去りにしてきてしまった家畜やペットのことが何も語られていない――。双葉町の伝承館の足りなさの指摘を避難者から聞いたことがあります。

 企画展でまずみておきたいと思ったのは、南相馬・半杭牧場の牧舎に残された、やせ細った畜舎の柱(レプリカ展示)でした。餌を食べ尽くした牛がかじり、このような形になった、と説明にはあります。その傍らのパネル『場所解説 無念の石碑』には次のように書かれています。(抜粋引用)

半杭一成さんは自身が経営する半杭牧場の敷地内、牛舎が見渡せる小高い丘に「無念」という文字を刻んだ石碑を建てた。…原発事故の避難指示により家族同然の動物たちを置き去りにせざるを得なかった。震災での自身の経験を忘れないため、動物たちへの償いの気持ちを後世に残すために建てた石碑である。

半杭さんは「無念」の石碑の横に寄り添うように小さな石碑も建てた。この石碑は、牛と同じように置き去りにされ死んでしまった半杭さんの飼猫の石碑である…。

 この『場所解説』末尾には「半杭さんの様々な思いが込められた二つの石碑は、震災から十年を迎える今も静かに佇んでいる」という学芸員の一言が添えられています。

南相馬・半杭牧場、取り残された牛がかじりやせ細った牛舎の柱(レプリカ)。
牛舎の記録写真、「無念の石碑」の解説が記されている=福島県立博物館、小林茂撮影

○記録し再現して伝える

 第2部 震災遺産から考えたことその1 場所を読み取る――では、会場の広範なスペースをとって、富岡町災害対策本部の当時の様子が『震災遺構 災害対策本部跡』として再現されています。

動態保存的手法で再現された富岡町災害対策本部の遺構。周囲には放射線防護具や安定ヨウ素剤などの現物史資料が詳細解説とともに並べられている=福島県立博物館、小林茂撮影

 安定ヨウ素剤の実物、10キロ圏外避難を呼びかけるアナウンス原稿、おにぎり炊き出し計算メモ……。「防毒マスク」と書かれた段ボール箱とその説明に目が止まりました。

 納品の日付(大きな段ボール箱の製造年月欄には「2001.3.12」、上に乗った小さな段ボールには防毒マスクと記され、製造年月日「94.12.12」と読める)から、震災のはるか前から放射能対策品が備蓄されていたことがわかります。

 原発立地自治体(福島県も含め)では、本格的な避難訓練は原発の危険を印象付けるとして形だけの訓練で済まされてきましたが、富岡町は緊急事態に備えて放射性物質拡散に備えた防護備蓄をしていたのだと、回収されたマスクや段ボール箱から伝わります。説明書きには富岡町がどのような経緯でこのような備えがされたかは踏み込んではいないものの、他の自治体も最悪を想定し同様の備えをしていただろうか、そのような疑問が浮かんできました。

○アートを通して伝える

 この日午後1時半から行われたフォーラムは、磐梯山噴火記念館の佐藤公館長、南相馬市博物館の二上文彦学芸員、県立博物館の筑波匡介学芸員、伝承館の瀬戸真之学芸員が登壇しました(瀬戸さんはリモート参加)。

 『伝承館は何を伝承するのか〜みなさんの声』9回目で『ベンシャーンと県立博物館』の題で、アート(ヤノベケンジ氏のサンチャイルド像)について触れましたが、フォーラムではアートという切り口での発見(出会い)がありました。

 福島県内のミュージアム同士の横のつながり『はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト』の一環として、二上さんが行った、現代美術家の岡部昌生氏(※記事文末に注)による震災痕跡を擦りとるアート(フロッタージュ)を通じた伝承プロジェクト――の報告です。

 スライドでは、津波で壊された防波堤の断面をすり取る作業などが紹介されました。フロッタージュによる災害痕跡の掘り起こしと伝承に関し、二上さんは発表スライドの中で次のように書いています。

目に見える実物よりも鮮明にそのモノが浮かび上がって見え、そこで起こった出来事を生々しい臨場感とともにイメージできた。

(被災者の方も涙を浮かべていた)

それくらい“リアル”

対象になった実物は復興工事で現場から撤去

作品は残り、あの場所で何が起こったのか、平面から、

そのストーリーを多次元的に思い起こさせてくれる。

防波堤断面のフロッタージュ作業を行う岡部昌生さんのスライドを解説する二上さん
=福島県立博物館、小林茂撮影

 第3部 震災遺産が伝えること:その3 考える これからをどう生きるか――には岡部昌生さんの手ほどきを受けた大熊町の鎌田清衛さんのフロッタージュ連作が展示されています。

 パネル説明『人物紹介 鎌田清衛さん』には次のように書かれていました(抜粋引用)。

鎌田さんは三歳(終戦)から大熊町で育ち、梨農園を営むかたわら、大熊町を愛する人たちで活動している「おおくまふるさと塾」に携わり、大熊町の歴史の普及に尽力してきた。二〇一一年、原発事故にともない大熊町から避難し、現在は須賀川市に住んでいる。…「大熊の土壌、自然は、これから生まれてくる未来の人たちのものです。私たちはそれを借りて生活しているのです。だから、今よりも悪くしないで、大事にして次の世代に渡してやらなければならない」

岡部昌生さんの手ほどきをうけて、鎌田清衛さんが擦りとった大熊町の記録
=福島県立博物館、小林茂撮影

○双葉町には津波が来ないという思い込み

 ところで、私の生まれ育った双葉町では私の知る限り、地震・津波災害は明確な形で伝承されてきませんでした(古い歴史資料には、大きな集落が津波に襲われ移転した――との記述がありますが、それがいつのことなのかは不明)。

 語り継いでこられなかったのは一体何故なのか、私なりに仮説をたてて調べていますが、二上さんら研究者が何らかの知見を持っているのではないかと、質問を用意していたのですが、時間がなくかなわなかったのが残念でした。

○噴火記念館・佐藤館長の問いかけ

 最後に、フォーラムに先立って、2000年8月の磐梯山臨時火山情報(小規模な噴火の可能性を示唆)を契機に交流いただいている佐藤公館長から「安達太良山の噴火災害(注:1900年7月17日発生、沼ノ平にあった硫黄採掘工場で働いて80人あまりが亡くなった)が広く語り継がれてこなかった理由はなんだと思いますか」との問いかけがあり、「経済的な理由では…」と返しました。

 噴火災害のリスクや不安というマイナス材料を、観光地として(あるいは災害対応を迫られる自治体として)忌避したい意思が働いたのではないか、と推測したのですが、佐藤館長の答えは「亡くなった人のほとんどが県外の人だったこと」、そのために身近な災害として語り継ぐ努力が払われず、慰霊祭などもないまま忘れ去られたということです(佐藤館長によれば「沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会」による伝承が唯一のものだそうです)。

 いやな思い出・忌まわしい記憶はできれば忘れたい、見ないようにしたい、と思うのは誰しものことですが、しかし、何十年、何百年という発生スパンの違いはあっても、いずれまた起こりうる災厄の、その時に、被害を軽微で終わらせ、死なないで済むようにするために、学び・伝えることの大事さを改めて考えています。

 佐藤館長とのやりとりに関連し、私がこだわっている津波伝承にとどまらず、自然災害と伝承への言及も積み残しとしてあるのですが、あまりに長尺になりましたので、また別の機会に回したいと思います。

 県立博物館の企画展は3月21日(日曜日)まで開かれています。

 また、二上さんが勤める南相馬市博物館の企画展「南相馬の震災10年」5月5日まで開かれており、伝承館との比較作業としてこれから訪ねる予定です。

※岡部昌生氏に関する若干の注釈

CAI02(札幌市)開廊5周年記念展「色は憶えている」港千尋×岡部昌生――に際しての、オンラインマガジンSHIFT日本版インタビュー(2012年6月28日 抜粋引用)

――今回展示されているフロッタージュには、3つの数字がプリントされていますね。

フロッタージュは、広島旧国鉄宇品駅プラットホームを擦りとったもので、作品には3つの1894、1945、2004と年号が記されています。

1894は日清戦争開戦の年であり、山陽鉄道から宇品港(現広島港)までの軍用鉄道か造られた年です。

それ以来、第二次世界大戦集結まで、この駅から莫大な数の軍需物資と兵士がアジアへ向けて送り込まれました。

1945は広島に原爆が投下され、終戦を迎えた年です。

2004は高速道路建設によって宇品のプラットホームが壊され、これ以上刷り取ることができなくなった年です。
近代日本の海外侵略の拠点のために造られ場所が、その結果として原子爆弾という形で被害を被り、同じ場所が加害と被害の同時に2つの顔を持つこととなった。

そして都市の再開発計画で完全に消滅してしまい、人々の記憶から忘れ去られようとしています。

オンラインマガジンSHIFT日本版2012年6月28日より引用

皆さまからのコメント、大募集中です!

 小林さん、詳細なリポート本当にありがとうございました。考えを深める手がかりが多く散りばめられた論考に、感謝します。県立博物館での企画展は21日まで開催です。ぜひ多くのみなさんに足を運んでほしいと思います。

 引き続き多くの方からご意見をいただき、議論を深めたいと思います。短い投稿、ひと言コメント、匿名・ペンネームでもOKです。掲載中の記事を読んでの感想なども、ぜひお寄せください。お待ちしています。

 以下のフォームよりご意見をお寄せください。必要事項を明記し、紺色の「送信」ボタンで投稿完了です。

※各エリアの展示文章と過去の投稿記事はこちらの一覧にまとめています。→「伝承館は何を伝承するのか」

※フォームでの送信がうまくいかない場合や長い論考などはuneriunera@gmail.comへお願いします。コメント欄などもお気軽にご活用ください。

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