福島県知事3月11日メッセージについて~みなさんの声編

先日【意見】福島県知事3月11日メッセージについてという記事を書きました。それに対し、読者のF.Kさんからご意見をお寄せいただきましたので、ご紹介します。

ぜひお読みください。


【F.Kさんからいただいた文章】

まず「知事メッセージ」が「知事のメッセージ」ではないということですね。

僕は、特に震災以降の彼の言葉から「肉声」を聞いたことがないように思います。このメッセージもそうです。メッセージの内容もそうだし、メッセージの主体が「メッセージ起草委員会」なるものであるならば、その責任主体もまた、知事ではないことになる。

「知事の言葉」なるものは、どの県でも役人の作文であることは珍しくはないと思いますが、「知事の言葉」であるからにはその責任主体もまた知事に他ならないでしょう。

しかし件の「知事メッセージ」の場合、その責任すら回避しようと言うのでしょうか。そんな「知事メッセージ」などなくてもいいと思います。

福島の地方二紙については、ハナから「権力の監視」という使命は捨てているように見えます。「震災復興」に関しては、県の広報誌みたいな役割に徹しているようにさえ見えます。


【ウネリウネラから一言】

ウネリウネラは昨年、政府追悼式における首相(当時は安倍晋三氏)追悼式辞について批判・検証しました。その内容がコピペ的と言わざるを得ないほど、前年と変わり映えのしないからっぽなものであることを、しつこく書いたものです。※以下、既読の方は飛ばしてください。

3.11政府追悼式について

3.11政府追悼式 首相の式辞はこれでいいのか?(上)

3.11政府追悼式 首相の式辞はこれでいいのか?(下)

3.11 首相の追悼の辞に入った「五輪」という言葉

福島に暮らすようになって福島県知事もメッセージを出していることを初めて知り、そのメッセージの「作られ方」に注目した結果が、先日の記事です。

私たちウネリウネラは「行政と報道機関との距離感」について指摘しましたが、F.Kさんは、「知事メッセージなのに知事の『肉声』がない」ということに力点を置いてくれました。3・11当時からこの地に暮らす人の実感のこもった声だと受け取りました。

このことに関連し、上記昨年の記事から一部引用します。

追悼とは、死者をいたむことだ。大切な人を失った遺族の悲しみを共有することだ。人生を突然断ち切られてしまうことへの無念、津波にのみこまれるときの恐怖。その瞬間、被災地の人びとを襲った感情のひとつひとつを、可能な限り共有しなければならない。

そのための営みのひとつが、追悼式なのだと思う。

たとえ最終的に似たような内容になるとしても、真っさらな気持ちで机の上に白い紙を広げ、追悼の言葉を一から記していく。

一年間の被災地との関わりを思い起こし、限界を感じながらも犠牲者・遺族の悲しみを共有するよう努め、一文字一文字、白い紙を言葉で埋めていく。その営みは「時間の無駄」ではない。

被災した人びとに思いを寄せていれば、少なくとも判で押したような文章にはならないはずだ。

「どうせ内容が変わらないなら、少し手直しするだけでいい」という発想の単純さは、薄気味悪い。

2020年3月10日配信「3.11政府追悼式 首相の式辞はこれでいいのか?(下)」より

昨年福島に引っ越す直前の私たちは、こんなことを考え、書いていました。今も考えは変わりません。内堀雅雄知事にも、真っ白な紙を自分の言葉で埋めてほしかったと思います。

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