3.11政府追悼式について

中止になった政府追悼式

政府による東日本大震災の追悼式典の中止が決まった。

「新型コロナウイルスの感染拡大を受けて中止の方向で政府が最終調整」という記事が朝日新聞に載ったのが3月4日のことだった。

その後、与野党内で「規模を縮小しても式典は行うべきだ」との声も出たが、結局は中止になった。

本当にそれでいいのか。

東京オリンピック関連の主たるイベントは粛々と実施しておきながら、震災の追悼式はピシャリと中止では筋が通らない。あまりにも冷淡だ。国としてなんらかの行事をやるべきだと私は思っている。

ところでこの式典については、震災10年を迎える2021年3月で終わりにするという政府方針がすでに報じられている。

行方不明や関連死を合わせると犠牲になった人の数は2万人を超える。津波被災地では、災害公営住宅での孤独死が相次ぎ、福島は原発に近い浜通りを中心に未来を奪われた状態にある。

これほどの大災害の政府追悼式が残すところあと1回で終わり、ということのようだ。

「たった10年で忘れるつもりか」と、怒りの感情が湧き起こるのは自然なことだろう。

これまでの追悼式を振り返る

一方で、これまで8回行われてきた追悼式がどのような内容だったかを振り返ることも必要だろうと思う。毎年行われてきた式典がいったい誰のためのものだったのか。行政のトップである首相の式辞は誰に向けて読み上げられていたかを、この機会に少し考えてみたい。

まずは概要から。

式典は毎年3月11日、東京都千代田区の国立劇場で開かれてきた。黙禱に続いて首相や皇族、衆参両議長、最高裁長官が追悼のことばを述べる。その後、被災地遺族の代表者があいさつし、参列者の献花が行われる。昨年は約1千人が参加したという。

なぜ東京での開催なのだろう。国立劇場はふだん文楽や歌舞伎の公演があるところだ。私もそうだが、恐らく被災地の人びとの中にも縁遠い場所と感じる人が多いのではないだろうか。

第一回の式典を準備していた2011年12月ごろの新聞記事を読むと、「東京開催は警備上の問題」と書いてあった。だが、被災地のインフラが整ってきた現在なら状況は変わっているはずだ。天皇も代替わりし、高齢ではなくなった。東京開催は主に永田町周辺で活動する人びとの都合だろう。

では、この式典で主催者である首相はどのようなメッセージを発してきたか。首相の式辞は官邸のホームページで全文を読むことができる。毎年驚くほど変わり映えしない内容だが、例として昨年分を抜き出して紹介する。

首相の式辞 テーマは「復興」

<かけがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から、8年の歳月が流れました。最愛の御家族や御親族、御友人を失われた方々のお気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えません>

通り一遍ではあるが、ここまでは理解できる。ところがこの先、話の内容は本題のはずの「追悼」からどんどん外れていく。

<震災から8年が経ち、被災地の復興は、着実に前進しております。地震・津波被災地域においては、復興の総仕上げに向け、(以下略)>

<原発事故によって大きな被害を受けた福島の被災地域では、帰還困難区域を除くほとんどの地域で避難指示が解除され、(以下略)>

<政府として、今後も、被災者お一人お一人が置かれた状況に寄り添いながら、(中略)生活再建のステージに応じた切れ目のない支援を行い、復興を加速してまいります>

<3年間集中で、災害に強い国創り、国土強靱化を進めていくことを、改めて、ここに固くお誓いいたします>

 復興、復興、復興。首相の式辞のメーンテーマは「復興」であり、「追悼」でないことは明らかだ。その文章からは、津波や原発事故の犠牲になった人びとを悼む気持ちが全くと言っていいほど感じられない。そして、式辞の終盤で首相はこう述べる。

<我が国は、幾度となく、国難と言えるような災害に見舞われてきましたが、その度に、勇気と希望をもって乗り越えてまいりました。今を生きる私たちも、先人たちに倣い、手を携えて、前を向いて歩んでまいります>

くり返されるキーフレーズ「前を向く」

「先人たちに倣い、前を向く」という言い回しは、毎年の式辞でバカの一つ覚えのようにくり返されている。キーフレーズ化しているこの言い回しが、政府追悼式の問題性を象徴しているように私は思う。

前を向き、力強く歩む。たしかにそれは、社会全体にとっては正論なのかもしれない。しかし、そのような「大きな物語」になじめない被災遺族もいるのではないか。なじまないといけないような気がして、自分にウソをついている遺族もいるのではないだろうか。

「前を向く」精神の押しつけは、震災の犠牲者を追悼するための場にふさわしいものだろうか。

被災者の実情を伝える新聞記事には、「あの日から時間が止まっている」というフレーズが何度も出てくる。私は恐らくそれが、被害を受けた人びとの本音なのだろうと思う。

これまで人生を共にしてきた人が急にいなくなってしまったのだから、これまでと同様に人生が過ぎていくこと、同じように時が流れていくことの方が不思議なはずだ。

 そして、時間が止まっている人びとに対して、時計の針を前に進めるように促すのがいいことなのかどうか、私には分からない。それは人によってさまざまだと思うし、もしも私だったら、「あえて時間を止めていたい」と考えるように思う。

 時間が「正常」に流れることで、大切な人と過ごした時間の「濃度」が薄まってしまう。それが許せないから、あえて時の流れを止める。自分の心の時間をあの日の14時46分に止めて、大切な人を「過去に亡くなった人」にしない。亡くなった人を「死者」として固定せず、生と死の「あわい」の中に漂う存在にしたい。そして、自らもその「あわい」の中に入り込み、いつまでも静止した時間の中で大切な人とともに生きたい。

「前を向く」ことを遺族に押しつけるな

「復興」をめざして「前を向いて歩く」ことは、時計の針を前に進めることに他ならない。それを目指せる人は、それでいい。しかし、震災による遺族が等しくそう考えているわけではない。すべての被災者を追悼するための式典で、それを押しつけてはならない。

復興は、社会全体の課題だ。したがって、「復興」「復興」と連呼し続ける政府追悼式は、あくまで「社会のための式典」である。

私は「被災者・遺族のための式典」を行ってほしい。今年の式は中止になってしまったが、少なくとも来年3月までにはまだ一年ある。

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