ウネリ:本日は新型コロナウィルスの問題に関して話したいと思います。
死者・感染者に関するニュースの扱いが小さい
ウネリ:最近テレビや新聞で気になるのは、感染した人が何人になったのか、亡くなってしまった人がいるのかという、本来最も大事な情報の扱いが小さいことです。
たとえば、日曜のテレビニュースでは、卒業式中止の話とか、マラソン大会の話のあと、最後に付け足すように、感染者の死亡情報が扱われていました。
新聞も同様です。
今朝(3月2日付朝刊)の朝日新聞、毎日新聞の紙面を見ても、(感染した)北海道の70代男性が死亡したという記事は、社会面に小さく掲載されています。
「新型コロナウイルスが就活に影響」などといった記事が社会面トップに入るのに対して、ずいぶん小さくまとまってしまっている印象です。
こうした記事が小さく扱われることについて、ウネラさんはどうお考えですか。
ウネラ:今回この問題をめぐっては、亡くなった人を悼んだり、感染した人たちを案じる気持ちというのが、あまり伝わってこない気がします。また、感染規模や感染経路など、問題の本筋的な情報が薄いことで、ウイルスに対する「正当な恐怖」といったものが、うまく認識できないように感じています。
「本筋」よりも目立つ「余波」の報道
ウネリ:そうですね。先週末に安倍首相が全国一斉の休校を要請したあたりから、だいぶこの傾向が強まってきた印象があります。
感染情報や感染を防ぐための対策といった「本筋」の情報よりも、感染から生じた影響、その「余波」みたいなものに言及した記事が目立つようになりました。
ウネラ:卒業式は、勉強はどうするのか、子どもの声が街から消えた、自粛ばかりでいいのか、といったことが大きな見出しで扱われていると思うのですが、そういったニュースには、「人」の声がたくさん取り上げられて、感情が乗っかっている印象です。
それに比べて、亡くなった人、感染した人を報じるニュースには、とても無機質な感じをおぼえます。
人の命が関わっている大事なことなのに、そこには感情が乗ってこない。
ウネリ:もちろんファクトをきちんと伝えると言う使命があるのだけど、あまりにも無機質な感じがしますね。
逆に、先ほどウネラさんが言ったような、いわゆる「余波」の記事ばかりに感情が織り込まれた結果どうなっているか。
新型コロナウイルス問題について「迷惑」「不都合」といったイメージばかり増幅される傾向になっているのではないか。それは「俺たちも我慢してんだからみんなも我慢しろよ」という「自粛の押し付け」にもつながることだと思います。
「他人事」の空気の醸成
ウネラ:新型コロナウイルスの問題が全体として、どこか「他人事」のように伝わっているように感じています。
人が亡くなっている、毎日のように新たな感染者が発覚しているということから、「これは他人事ではない」「自分ももう感染しているかもしれない」「自分の家族もどうなっているかわからない」といった感覚をおぼえるのが、ごく自然な反応だと思うのですが、どうも、そうはなっていないようなところがあるというか。
それには、さっき言ったように、感染規模・経路など本筋であるべき情報が薄い一方で、マラソン大会のようなことが大きく報道されるというようなことも、影響していると思います。
ウネリ:僕は過労死の問題を長く取材していますが、ある問題に真剣に取り組めるかどうかの分水嶺として、問題を「自分事」として捉えられるか、「他人事」として考えてしまうかということがあると思います。
卒業式がなくなったとか、スポーツイベントが自粛になったとか、そういう「余波」の話は、(コロナウイルス問題を)「他人事」として考える契機を生んでしまうんじゃないかな。
他人事として捉えたい人がこういう記事を欲するし、こういう記事が多く報道されることによって「他人事の気分」が醸成される。
本来必要なのは、新型コロナの問題を「自分事」として捉えることだと思う。
たとえば僕の場合、自分の父親は70代の男性で、北海道で亡くなった人と同じです。もし自分に症状がなくても、感染していた場合、気軽に親に会いに行けば、父親の命を危険にさらすことにもつながりかねない。
そう考えても決して大袈裟ではないというふうに思います。
自分の頭で考える
ウネラ:「他人事」は怖い。実態が見えにくいものに対して、あまり深く考えずに、なんとなく流されてしまう、自分の頭で考えて行動することをやめてしまう。それは戦争に向かうメンタリティーなんじゃないかと。「加担してしまうメンタリティー」なんじゃないかと考えています。戦争へ向かうムードにもつながるんじゃないかという危機感を抱いています。
問題に対する考え方はいろいろあるのが自然だと思うのですが、自分も含め、それぞれが考え抜いて判断しているかどうかが重要だと思います。
それと、自分の命も他人の命も、軽く考え過ぎていないか。命に関わることを、もう少し深刻に真剣に捉えるべきではないかと思っています。
ウネリ:「自分も危ないかもしれない」という気持ちは持っておかないといけない。(コロナウイルスのことがなくても)「明日をも知れぬ命」であるということは、常に自覚していなければならない。
ただ、そのことを正視するのはつらい。自分も危ない、命の危機にある、といったことを、正面から意識するのは苦しいので、その「余波」みたいなものを読んでいたほうが楽なのですが。それでは、それだけでは……足りないと思います。
感染者の数や、どれぐらいの人が感染の検査を受けているのか、そういった情報は常に、新聞ならば一面トップに載せておくべきではないでしょうか。
そして、現時点ではアプローチが難しいかもしれませんが、亡くなった人、感染した人に思いを馳せるような記事を、大きく扱っていきたい。
ウネラ:周辺の「余波」の情報はその後だというかね。なくていいと思っているわけでは、ありませんが。
ウネリ:優先順位としては、「余波」はサブの位置づけかなと思います。
(終わり)
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