『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』という作品について、ウネリウネラで対談しています。

 内容にかかわることが含まれていますので、まだ作品を観ていない、これから鑑賞予定という方は、ご注意ください。


ウネリ:今日も興味深い映画を観たね。

ウネラ:『鳥居をくぐり抜けて風』という作品なんですが、映画ではなく「映像歳時記」と銘打っています。

『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』公式サイト

ウネリ:語り合いたいことはたくさんあるけれど、なんとなく「説明的なこと」は言いたくない。説明の必要がなくて、感じればいい、というような映画だと思いますが、ウネラさんがすごく心揺さぶられた場面があったので、そのときの心の動きについて聞けたらと思いました。

ウネラ:言葉で語れば語るほど、感じたことの実体と離れていってしまうような気がして…もどかしいところです。うまく説明できるかわからないんですけど。

「御燈祭」のシーンですよね。和歌山の熊野新宮、神倉神社で毎年2月6日に行われる火祭りです。白装束の何千人もの「上り子(のぼりこ)」が松明を持って神倉山の山頂にのぼっていきます

上り子たちが上がった神社の山門は決まった時刻になると閉ざされる。山門の中は互いの松明の火でもうもうと燻されて、炎と煙が充満します。息が苦しい、目も開けられない…そんなギリギリのところで、門が開く。その瞬間、松明を手にしたまま上り子たちが一斉に山を駆け下りてきます。まるで炎の雪崩のようです。そのシーンで、腹の奥の方から呻くような声が出て、気づいたらざーざー涙が流れてきましたね。

ウネリ:どうしてあそこまで感極まっちゃったんでしょうか。

ウネラ:どうしてっていうのは分からないね。あまりそれを突き詰めて考えていきたくないようなところもあります。ただなんて言うのかな。陳腐な表現しかないけど、頭の片隅で「走馬灯」というものをイメージしました。死ぬ前はこういう感じなのかな、とね。

ウネリ:その少し前に「去年の自分を焼き尽くす」というナレーションが入っていたね。

ウネラ:そう、それなんだね。

理路整然と言えないけれど、私は人生のいろいろなところに「破れ」があって、「繋がらない」と感じるところが多いんです。たいして長く生きてないのに破れほつれが多いものだから、ひどいもんですよ。自分の生なのに、すごく混線していて生きづらい。自分の存在が、ひとところに定まらないような感覚が強いんです。それがつらくて、いろいろなことを投げ出してしまいたくなる。

だからこそ、「去年の自分を焼き尽くして、今年の自分に生まれ変わる」という概念は新鮮だったし、そういう生き方があり得る、でき得るのかと思いました。それは頭で考えたことですが。

一方で、炎が山門から流れ出てくるシーンでの反応は、もう頭で考えてそうなったということじゃなかったんだよね。

生と死の境目みたいなものがストンと抜けるさまを見せられたような感じだった。私は「どうやって生きていくか」とか「生きていくということを自分と約束し続けていくにはどうしたらいいか」とか、いつも葛藤しているような、面倒なところがあるんです。でも、生とか死とかの線引きが、あの瞬間ストーンとなくなって、ぽっかりしてしまった。何か自分が固執しているところとまったく異質な世界に放り出されたようで、怖いとも感じたけど、観終わってからは肩の荷が下りたような気もしました。

さらにうまく言えないんですが、生まれてきた時っていうのは、こんな感じだったのかなっていうようなことも、頭を掠めました。私は生まれた時の記憶はないので、あくまで想像ですけど。そんなこと思うのも、不思議だね。

ウネリ:毎年毎年生まれなおしをするようなイメージかな。

この映像を観て感情がたかぶるところがあって、今率直にどういう感じなの?つらかったりもする?

ウネラ:動悸とか、ある種の余韻はあるけど、つらいというものではないです。ただ、咀嚼する時間がもっと欲しいという気はする。こういうものに出会って、もっと無制限にそれをただ味わって、ぽっかりしていたいですよね。

ウネリ:心揺さぶられる経験ではあったけれど、ダメージを受けたわけではないんだね。

ウネラ:観てよかったです。私はどうしても、生きていること自体に何か「背負って」しまっている感じがあるんですが、生きることをそこまで背負わない方法もあるのかな、と思ったりもしましたね。誤解を恐れずに言いますが、こう、生きているとも死んでいるともつかないでいるというか。浮遊するような、流転するような感じでここに在る、というのかな。そういう方向に、生きられる可能性を見出すこともできるのかな、とか思いましたね。自分は、ですけど。

あと、この映画の鍵となっているもののひとつに、動物と植物の両方の性質を併せ持つ「粘菌」がありますよね。粘菌が描かれている場面も、とても印象的でした。そこにも、この世とあの世、生きているものと死んでいるもの、動的なもの静的なもの…といったあらゆる「境目」の抜け落ちた空間に、ぽんと投げ出されるような感覚をおぼえました。

ウネリ:心が動く、感動する映像にめぐりあえることって、本当に貴重なことなんじゃないのかなと思う。さっき言っていたように、それを味わう時間がもっとあればいいよね。ゆっくり過ごしていく中で、その意味が「言葉」とかかたちにならなくても、感覚でつかめてくるような、心のゆとりがあるといいなと思う。

でも、こうした作品に感応できること自体をすばらしいことと認めて、感応する心があるって言うこと自体を、大切にしていけたらいいんだろうなと、隣で一緒に観ていて思いました。

この映画に「あらすじ」と言えるものはほとんどありません。ないに等しい。だからこそ、ウネラさんが経験した「感応」は生まれたのだと思います。「よく理解できた」とか「おもしろかった」とかではなく、なにがしかの「感応」を与えられる作品というのは、貴重です。百人が見れば、百人の感応の仕方があると思います。ぼくは自分がどんな感応をしたのか、まだ自覚できていないですけど。

あとこれは特に劇場で観るべき作品だと思った。たまたまご厚意で劇場公開前にDVDを貸していただいて自宅で観たけど、この作品はもう、家の小さいテレビとかじゃ絶対にだめだと観ていて感じました。

ウネラ:そうだね。

ウネリ:それと、僕個人としては、もっとナレーションが少なくてもいいくらいだと思った。これは判断が分かれるところかもしれないけれど。

ウネラ:説明を極限まで削いでいった先に残るものということだよね。あとは「伝わるかどうか」のせめぎ合いという難しさもあるのだと想像します。観客がいて、芸術として成立するわけですもんね。双方向的に。


フォーラム福島で11/27(金)から上映(~12/3(木)連日12:45より/料金1000円)

※11月28日(土) 12:45の回上映後、小笠原高志さん(プロデューサー/俳人)と
中村晋さん(高校教諭/俳人)のトークイベントあり(15時終了予定)。来場者全員にお花のプレゼントも。

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