2月某日。ウネリウネラのふたりは、そろって、ケン・ローチ監督の映画「家族を想うとき(Sorry We Missed You)」を観てきました。労働問題を取材するウネリには必見の作品だったのですが、鑑賞後ふたりは、この映画の語るものの多さに、圧倒されてしまいます。
「この作品を、単純に『労働ものの映画』として扱うことはできない――」
映画鑑賞後から、この作品について話し続けているふたりは、物語の主人公リッキーの息子セブに注目します。
※作品のストーリーについて踏み込んで話してしまっているので、映画をこれから観る方は、お気をつけください。
映画の鍵を握る?少年セブ
ウネリ:映画「家族を想うとき」について、ウネラさんに語っていただきたいと思います。まずは少しあらすじを。
舞台はイギリスのニューカッスル。主人公は40代の男性リッキー。不況で家も仕事も失い、一念発起してフランチャイズの宅配ドライバーを始めます。妻のアビーは訪問介護士として、一日中忙しく働いています。
二人の間には、16歳の長男セブと、12歳の長女ライザがいます。
基本的には、リッキーの仕事、「名ばかり個人事業主」の労働環境の苛烈さが描かれている。多くのこの作品についての映画評でも、主にその点が取り上げられるわけですけれども。
ウネラさんは、この映画で一番大事に描かれているのは、長男のセブなのではないかと言っていましたね。「セブが希望だ」と。
ではセブは一体この映画で、どんなふうに描かれているのでしょう。
ウネラ:セブは16歳、高校生になるんですかね。非常に賢い少年なんですね。それはセブが家族とか友達とかと交わす会話の端々に表れています。
父のリッキーがフランチャイズの仕事を始めるというとき、リッキーに向かって「マクドナルドでも買収するのか」みたいなことを言ったりするんですね。世の中をよく見ている。大人の会話だという感じがしました。
セブは、夜な夜な街に繰り出して、仲間と街のあちこちにスプレー缶でグラフィティを残していく。さらにそれを動画で撮ってネットで流したり。
それはただの落書きではないんですよね。世の中の不条理に対する抵抗だってことを、強く明確に意識してる。なんとなくクサクサ曖昧にやってるんじゃなく、とても自覚的に抵抗しているんだというか。
16歳の高校生にしては「成熟してる」っていう印象がありました。
ウネリ:リッキーに「マクドナルド買収するってか」みたいに言ったのは、ある意味、資本主義社会とか、そういうものに鮮明な違和感持ってる、っていうことですよね。
ウネラ:そうですよね。だから社会が、世の中の仕組みが分かってないと出てこない発言ですよね。世の中を眺めて、自分なりに自分の頭で考えて。
セブが続ける「抵抗のための表現」
ウネリ: ゴアテックスのジャンパーを売って、スプレー缶を買ってしまうということがありましたね。グラフィティを描くための、スプレー。
ウネラ:「2着目はもう買えない」っていうね。
ウネリ:数万円はする高価な服を売って、スプレー缶を買っちゃった。
ウネラ:セブは経済的に苦しい家の状態もわかってるし、世の中になんでいろんな歪みができるのか、持ってる人持ってない人ができてしまうのか、よく考えている。だからこそ、ああいうことをしたのかなと思います。
「人としてどうあるべきなのか」っていうことまで、お金でやり取りされていいのかっていうことを、「売りとばす」って行為で表現してみせたというか。
ウネリ:あえて高価なジャンパーを大事なものとして扱わないみたいな?
ウネラ:そうですね。それに自分の存在を表現するツールが、セブの場合はスプレー缶なので。それはもう、セブという人間にとっては、不可欠。
ウネリ:単に、その時欲しいものがあったから、何かを捨てて売って、そっちを手に入れた、というような話ではなくて、「俺にとってはこれが大事なんだ」ということの意思表明だったり、さらに言えば、そもそも「お金なんて別に大したもんじゃねえじゃねえか」みたいな意味の反抗かもしれない。そういうことを印象づけるエピソードでしたね。
話が変わるけど、セブに関しては、好きな女の子のこととかもちょっと出てましたね。
あれはリッキー、アビー、ライザなどほかの家族たちにはない、細やかに描かれたシーンでしたね。
ウネラ:そうそう。すごい印象的な。引っ越してしまうその女の子をバス停まで送るっていうシーンがありますね。あれは何とも。
ウネリ:何も言えなかったな、セブは。
ウネラ:頑張ったんだけど。
ウネリ:バスの中で食べるサンドイッチすら買わせてもらえなかったという。最後まで好きだという気持ちを伝えられなかった。
ウネラ:あれは切なかったですね。街中に出てスプレー缶であちこち描いてまわって、警察官を挑発したりするような、けっこう大胆不敵なところがあるようなやつが、好きな女の子には本当にさよならも言えないって。
ウネリ:そういう一面が描かれています。
なぜ「セブが希望」なのか
それで、なぜウネラさんは「セブが希望だ」という認識に?
ウネラ:セブは、世の中に対して、間違ってるんじゃないか、このままでいいのか、っていうことを表現し続ける存在だと感じました。
自分たち家族もまるごと、「あるべきでない社会」の中の犠牲になってるっていう現実も、ちゃんと見た上で。
ウネリ:飲み込まれてしまっていってるっていう?
ウネラ:リッキーたち両親は、必死に頑張ってるんだけど、もう、歯車の一つとして、部品の一つとして回っていかざるを得ない。それをセブは批判し続ける。
ウネリ:アビーは「砂地獄の中で必死にもがいてるけど出てこられなくて、セブとライザがそれを引っ張ろうとしてくれてるけど…」って、そういう言い方をしていました。
確かに現状生きてくためには、大人たちはシステムのコマだろうがなんだろうがならなきゃならないけど、セブはそれを外から見ることができているのかな。
ウネラ:そうですね。
ただ、リッキーの家族の間では、とにかく生きた会話が繰り広げられています。ここが重要だとも思っています。みんなが、ずっと、ちゃんと話をし続けていく。
セブが家を出ていっちゃったとき、リッキーとアビーがセブの書き留めていた絵をみつける。それを本当にひとつひとつ愛おしそうに見つめながらリッキーが「知らない一面だな」みたいに言ったのが、とても印象的でした。
親と子とかいう関係を超えて、人として、尊重されていると感じました。
対照的に職場でのリッキーは、端末で管理されて、ほんと歯車、部品みたいに扱われている。セブはそのことでリッキーに批判的なことを言ったりもするんだけど、セブがそうやって世の中を見つめられるようになったり、自分で考えて、批判したりすることができるようになっている根底に、家族の中で人として認められていることがあるんじゃないかと、観ていて感じましたね。
だからこそ、正面から傷つけあったり、悩んだり、苦しんだりして、ボロボロになっていく印象です。
ウネリ:途中でリッキーがセブに「お母さんとの喧嘩はお前のことばかりだ」みたいに言う場面がありましたね。
確かにセブは家族のトラブルメーカーでもあるんだけど、同時にトラブルが生まれるとき、家族に生きた会話が生まれている。セブのことをきっかけで、リッキーとアビーもお互いの余裕のない気持ちを、赤裸々な気持ちを語り合っている。リッキーがアビーに対して「支えてくれよ」と言ったり。
セブが調和を崩したことが起点になっているっていうのはあるかもしれないですね。
セブの存在が一家に「人間的なもの」を取り戻させる
ウネリ:リッキーもアビーも普段働いて生きていくのに精いっぱいで、「人間らしさ」をなるべく消していく方向に動いていくわけですよね。でもその都度その都度、セブが「それは違うんじゃないか」みたいなことを、言ったり、やったりする。
毎回リッキーも腹を立てるんだけど、結局そこで社会の歪みとか本当の幸せが何なのかとかいうことに気づいていかないと、どんどん忘れていっちゃう。セブが原点に連れ戻してくれる存在なのかもしれない。
一方で、セブにそういうものの見方が育った背景には、リッキーやアビーが彼を尊重してきたってことがあるんだろうと、そういうことですか。
ウネラ:そうそう。リッキーがセブに「選択肢を狭めるな」っていうところなんかもね、印象的な場面です。
ウネリ:あそこはやるせないね。セブとしては自分が進学すれば親がさらに苦しむっていうのがあっただろうしね。
人間らしく生きていますか?
ウネリ:映画を観たあと、労働を中心として、世の中がいかに大変かっていうこと、今の社会で生きて、飯を食っていく、家族を養っていく、ということが、いかに大変かというのを思い知らされつつも、それ以上に深いメッセージを受け取っているという印象がありました。
それは何かと言えば、そういう状況下においても、 人間らしく生きるということ。
「人間らしく生きていますか?」ということ。
あの家族が、あんな大変な状況にこそ、これでもかというくらい人間らしく生きているのを見せられて「自分たちはどうなんだ」という思いを持ちましたね。
生き延びるために今の世界に迎合していかなければならないということではなくて、つらい社会だけど、その社会を変えるためにも一人ひとりが人間らしく生きようと強く思わなきゃいけない。
そういうポジティブというか、闘う意志のようなものも持たせてくれるような映画になっている。
その鍵になっていたのが、セブなのかな、と。
一人の中年男性ドライバーの話ではなく、家族の物語であり、そこにセブという少年がいて、掻きまわしてくれるからこそ、そういう闘志みたいなものを植えつけてくれてるのかなと思ったのですが、ウネラさん、いかがでしょうか。
ウネラ:セブが「子ども」として描かれているっていうのが重要なのかなって思っています。次の世代の。
ウネリ:あれが、「リッキーのお父さん」が、リッキーとアビーの働き方、生き方に疑問を持ってやってきて、っていう筋じゃあちょっと…「希望」にはならないもんな。
ウネラ:そうなんだよ(苦笑)
だからあの作品の中の、セブの存在を「貧困家庭の中では、子どもがグレちゃって…」とかっていう方向に受け取っちゃうと大変かなと思います。
むしろ真逆、「希望」かなと。
ウネリ:セブがこう、美少年じゃないのも、なかなかいいところですよね。
ウネラ:それは本当に、そうですね。
ウネリ:それでは、セブを演じたあの少年の今後の活躍を祈って、このへんで閉じますか。
ウネラ:あの…予告編のインド料理食べてるところ、あれもいいシーンでしたね…
……
(終わり)
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