組織と個人

 「甲子園がつらい」記事以降、読んでくださった方から多くのご意見をいただきました。

 記事内容のみならず、ウネリ、ウネラ個人に対しても、あたたかい気持ちのこもったお手紙をいただき、大変励まされました。もうこれだけで十分、書いてよかったと思える体験をしました。ありがとうございました。

 まだもう少し書き足りないこともありますし、読んでいただいている方々からすれば、読むほどに疑問に思われる点も多数あると思います。実際的な会社とのやり取りや、甲子園以外の件については、書ける時、書くべき時が来たら、もっと詳細に、丁寧に書きたいと考えてはいます。

 ただ、「ウネリウネラ」は、この問題に特化したサイトではなく、生きているなかで出会う幅広いことがらについて、脈絡なく自由に書いていくことを目的にしています。書くことに私たちの回復の可能性を託すような思いも込めて開いたのが「ウネリウネラ」という場です。なので、これからもあくまで自分たちのペースで、さまざまな物事について書き続けていきたいと思います。今後もどうぞよろしくお願いします。

 会社と交渉している期間は、私たち家族にとって苦しい時期でした。

 問題がウネリ自身でなく、私ウネラの被害であるため、「『ウネリも退社』という決断で良かったのだろうか」という考えは、今もまだよぎります。いくらウネリが「自分からそうしたいと思って決めたことだ」と話してくれても、私自身が完全に「これで良かった」と腑に落ちるには至りません。果たしてそういう日が今後訪れるのかどうかも、わかりません。

 被害の問題を会社と交渉している期間は、「組織」と「個人」のあり方ということについて考える日々でした。

 SNSなどでもたびたび言っている通り、私は朝日新聞社を含め、マスメディアの存在意義を重視しています。現状、国内のメディアが問題を多く含んでいることは否めませんが、その存在自体を無用のものとして貶めるような言説には、まったく反対です。

 社内で働く人たちを個々人としてみれば、問題意識も高く、人として尊敬できる方々がたくさんいます。お世話になったことも数知れません。そうした方々への感謝や敬意は変わりません。

 ただ、その「個人」に対する視点に寄り過ぎると、「組織」の問題点を追及しづらくなっていく。これは大きな組織でも小さな組織でも変わらないと思いますし、私自身を含め、日本社会が「不得意」とする部分なのではないかという気もしています。

 私は今回の問題については、個人としての尊厳を傷つけられているという意識が強いですから、会社とやり取りをする際、どうしても冷静になれないところがありました。

 たとえば、交渉の間、会社からは人間性のかけらも感じられないメールが、送られてきます。

 それに私は傷つき、動揺する。それで、そのメールに感情的に返信しようとします。実際にしたこともあります。

 そういう時、ウネリは「それをやっても意味がないし、むしろウネラさんが損する可能性のほうが高いから、やめておこう。一旦落ち着こう」というようなことを言ってくれる。

 でもここで私は烈火のごとく怒るわけです。

「あんな返答されて、落ち着けるわけないよ」というふうに。思い返すと恥ずかしいですが、もう一度同じことが起こってもやはり瞬間的には同じような反応をしてしまうだろう、とも思います。

「だけど、あのメールを送ってきているのは『○○さん』という『人』じゃなくて、ただの『人事部長』っていう『役割』に過ぎない。『役割』の○○さんに『意思』とかがあるわけではないんだよ」

さらにウネリは続けます。

「会社は『人』じゃない。『組織』なんだよ、ウネラさん」

私はこれに反発しました。

「でも『人』が『組織』をつくっているんでしょうよ。やっぱり納得できない。ウネリさんが仮に『人事部長』っていう『役割』になったとして、ああいうメール送りますか?私にはできないな、あそこまでの対応はできません」

ここまで責め立てられて、ウネリはつらかったと思います。でもウネリは私の言い分を聞いた上で、また返答しました。

「そもそも、この交渉以前に、会社はウネラさんに対する対応を大きく間違っている。それは絶対だ。その上で、自分だったらどうかと言われたら、こんないい加減な対応はしないと思う。でもそれでも、それがウネラさんが求めている程度の対応になるかといったら、正直わからない」

「私が求めている程度って何よ。そんなの私にしかわからないでしょう。私の気持ちなんて誰にもわからないよ、絶対」

私はどんどん支離滅裂になっていきました。でもこれが実際のところですから、穴があったら入りたいくらいの気持ちで書いています。

ウネリの返答のところから、続きます。

「ウネラさんはちょっと会社に期待し過ぎなんじゃないか。自分はそこまで『朝日新聞社』というものに対して思い入れはないよ。所詮『会社』は『組織』に過ぎない」

 ここでまた私が怒ります。

「でも『会社』って言ったって、『言論機関』とかって標榜してるんでしょう。自分の組織内のことにこんな対応して、外向けには性被害のことだって当然「記事」として取り上げて、「社会的意義果たしてます」みたいな顔してるわけでしょう。そういうことは私にはできません」

 「顔」という表現を使っていることからも、私が会社というものにいかに「人格」的な要素を求めていたかということが、表れているように思います。

「だから、『会社』は『人』じゃないんだよ。ウネラさん、待ってくれ。落ち着いて。私はウネラさんの味方だよ」

 会社との交渉期間中は、こういう感じのやり取りをくり返す日々でした。

 それは本当に苦しいことでした。場合によってはウネリや家族との関係が破綻する可能性もあったと思います。

 なるべく子どもがいないところでやり取りするようにしていましたが、やはり私の様子はその間、ふだんとは大きく違っていましたし、大人よりずっと繊細な子どもたちには、何もかも伝わっていたんじゃないか、とも考えます。子どもたちに申し訳なかったという気持ちは今も拭えません。

 ただ、その後の人生において子どもたちときちんと向き合って生きていくためにも必要な、経なければならない過程であったとも思っています。

 半年もの間に、こんな問答がどれだけくり返されたでしょうか。

 結果として、ウネリさんの言っていたことの正しさが証明された部分は大きかったと思います。特に私が感情的に送ったメールなどに会社が反応してくることはほぼありませんでした。

 私はそのことにまた傷ついて、ある意味では無駄に傷を重ねて、最終的には「次はどう傷つけられるのか」というのが怖くなり、自分で会社からのメールを開くことすらできなくなりました。

 会社からの連絡を確認する際は、パソコンを起動するためのパスワードを入力するところまでは自力でやって、メールボックスの内容を確認する作業は、ウネリに代理でやってもらっていました。ここまでの拒否反応が出るようになるとは自分でも予想できていなかったので、ひたすら情けない思いでした。間に入っていたウネリの心労を思うと、今でもやり切れない気持ちになってきます。

 話が逸れてしまいました。

「組織」が「人」ではないとしても、ウネリがいうところの「役割」がもう少しでも、違う動き方をできなかったのかということを、やはり今でも考えてしまいます。例えば「社長」だったり「部長」だったり、それぞれの「役割」が、その時違った「動き」、違った「働き」をしていたら、当然、いろいろな結果が違っていたでしょう。

 でも、組織において、それぞれの「役割」に対し、果たすべき「働き」の方法、作法を授けるのは、いったい誰(何)であるべきなのでしょうか。

 そういうことを今もつらつら考えています。

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