【中身のある/ない雑談】映画『対峙』について

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ウネリ:久しぶりの「雑談」です。2カ月前くらいにフォーラム福島(福島市内の映画館)で見たアメリカ映画『対峙』について語り合いたいと思います。あらすじは公式サイトから引用します。

愛する者よ、私たちはどうすれば良かったのか――。

アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が勃発。多くの同級生が殺され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。それから6年、いまだ息子の死を受け入れられないジェイとゲイルの夫妻は、事件の背景にどういう真実があったのか、何か予兆があったのではないかという思いを募らせていた。

夫妻は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をする機会を得る。場所は教会の奥の小さな個室、立会人は無し。「お元気ですか?」と、古い知り合い同士のような挨拶をぎこちなく交わす 4 人。そして遂に、ゲイルの「息子さんについて何もかも話してください」という言葉を合図に、誰も結末が予測できない対話が幕を開ける──

映画『対峙』公式サイトのSTORYより

※以下、ストーリーに触れる部分があります。映画をこれから観る方はお気をつけください。

加害者側と被害者側、それぞれの視点

ウネリ:どう思いましたか?

ウネラ:映画の中で1カ所すごく泣いたシーンがありました。「泣いた」というか、もう「嗚咽」だよね。でも、そうは言っても作品全体としては絶賛はしたくないな、というのが鑑賞後の感想です。

ウネリ:加害者側と被害者側、4人の当事者が出てきますよね。基本は4人の会話劇であり、室内劇なんだと思います。

ウネラ:そうならないように努めて鑑賞したつもりだけれど、それでもどうしても、私は被害者側のお母さんの気持ちになってしまっていました。加害者側のお母さんが花束を持ってくるじゃないですか。ああいうのは嫌だなとか思った。自分はあそこでつい、「ありがとうございます」なんて言ってしまうだろうけど。

ウネリ:たしかにその通り。私も鑑賞しているあいだ、終始一貫して被害者側の両親の視点になっていました。加害者側の視点で物語に参加できなかった。加害者側の親父のあの発言はきついな~とか、すぐに思ってしまう。そういう自分に恐ろしさを感じました。

ウネラ:どうしてもそうなってしまうよね。あの親父も鎧を着ていないと生きられないのだと思うけど。

ウネリ:一歩引けばその通りなんだけど、第一印象的には全然そう思えない。これは現実世界でも同じことです。「少年が少年をナイフで刺した」というような事件が報じられた時、自分の子と被害少年とをまず重ね合わせてしまう。そんな身勝手さが私の中にあります。

ウネラ:それをまずいなと思えているところは、自分を認めてあげてもいいのだと思います。私も同じです。自分のことは十分やばい人間だと思っている自覚はあるんだけど、子どもについてはかわいくてしょうがない。でもふとした時に、この子たちがどういった人間になっていくのか、いろいろ考えて怖くなることもあります。私としてはできる限り彼らとコミュニケーションをとって生きていくことしかできない。そういう点は、この作品『対峙』も指摘していたと思います。

ウネリ:そうですね。

「赦し」というテーマ

ウネラ:作品のテーマは「赦し」だと思います。私が嗚咽したシーンというのは、被害者側のお母さんが「赦し」に至ろうとする流れです。赦したほうが楽になれると思う。しかし、ある理由があって、赦すことに自分でロックをかけている。ものすごく葛藤がある。

ウネリ:ウネラは母であり、性暴力被害の経験者であり、共感できる部分が多かったと思います。

ウネラ:これからの話は性暴力のことではなく、自分の生い立ちなどに関わることですが、私が「赦したいのに赦せない」「赦せなくて苦しい」と思っていることがあるのは本当です。

ウネリ:はい。

ウネラ:医師やカウンセラーからは「『理解する』と『赦す』は違いますよ」と言われます。なぜ相手はそんなことをしたのか。それには相手なりの理由があるに違いない。私はそう考える傾向があります。医師やカウンセラーは、「それはあなたの優しさだからいいんだけど、ただし、相手を赦さなくても、いいんですからね」と言います。「無理に赦さなくてもいいよ」という意味だと解釈しているんですけど、実は少し違和感があります。

ウネリ:どんな違和感ですか?

ウネラ:うまく言えませんが、「赦し」という気持ちは、ある日ふわっと出てくるものだと思っているので……。確実に言えるのは、赦さない状態もきつい、ということですね。

タイトルをめぐる「混乱」

ウネリ:私から話したいのはタイトルについてです。邦題は『対峙』ですが、原題は『MESS』なんですね。

ウネラ:へえー。

ウネリ:messの意味を英語辞典でひくと「混乱、ごちゃごちゃの状態」などとあります。つまり、両者がそれぞれの立場に分かれて「対峙」するのではなく……

ウネラ:あのー、ちょっと待ってください。原題は『MESS』じゃなくて『MASS』ですよ。

ウネリ:え・・・。

ウネラ:ほら(スマホで検索した公式サイトを見せる)

ウネリ:あら・・・。ということは…(急いで英語辞典をひく)

ウネラ:massの意味は第一に「大きな塊、集団、多数」。第二に「キリスト教のミサ」。この作品の場合、舞台が教会なので、2番目の意味でしょうね。

ウネリ:がーん。

ウネラ:・・・。

ウネリ:失礼しました。話したいことの前提が崩れてしまいました。でも、いいや。強引に話し続けます。邦題よりも原題がいい、という話をしようと思いましたが、ウネラさんのご指摘で今気づきました。この作品のタイトルはまちがっている。『MASS』じゃなくて『MESS』がいい。私が話したいのはそういうことです。

ウネラ:そっちに持っていくとは…。強いな~。私にはできない芸当です。がらっと雰囲気が変わりましたね。

ウネリ:はい。

関係性の進展に必要な「mess」の状態

ウネリ:作品の邦題は『対峙』です。確かに前半では主要登場人物の4人が対峙しています。対峙からスクリーン上の物語はスタートするし、6年前に銃乱射事件が起きてからずっと、4人は対峙していたのだと思います。しかし、ラストに向かって4人の関係性が進展していく過程で、「対峙」の状態は崩れていきます。ごちゃごちゃな「mess」の状態になっていく。言い換えれば、ラストに至るためには、「対峙」から「mess」の状態に移ることが不可欠だった。

ウネラ:ほう。

ウネリ:問題は、誰が「mess」の状態を作り出すのか、ということです。この作品はそこを明確に示しています。「mess」の状態を作り出したのは「4人ではない誰か」です。これ以上はさすがにネタばらしになりすぎるので具体的に話せませんが、私はここがポイントだと思っています。先ほどウネラさんは、「赦し」という気持ちはある日ふわっと出てくるものだと思う、と言いました。ここと重なります。事情をよく知らない者の思いつきだったり、ある意味で無駄な動きだったりが、ガッチガチに「対峙」していた状態に偶然、ひびを入れる。「赦し」は、当事者たちの意図していないところから、偶然的に、ある日ふわっとやってくる。それは「mess」と共にやってくる。そんなことを考えました。

ウネラ:ふむふむ。

ウネリ:大事なのは「mess」の状態をいかに作り出すか。だから、作品のタイトルは『MASS』じゃなくて『MESS』にすべきだった。どうですか!トランスフォーマーさん?(※トランスフォーマーはこの作品の配給会社)

ウネラ:はは(笑)。タイトル勘違いのアクシデントから変なテンションになったね。

「混乱」のまま雑談は終了

ウネラ:そうかー。「mess」をセットアップしてたんだね。思い返せば、あの場面か、あの場面かってなるねー。

ウネリ:でしょ。作り手はかなり分かりやすく、そういうSTORYにしている。

ウネラ:ちょっとやりすぎかもね。

ウネリ:そうなんだよ。

ウネラ:そこがラストの納得いかなさにつながってくるのかも。

ウネリ:そうだと思う。やっぱりね。「Mass」感が出てるんだよなー。テーマは「mess」なんだけど、作り方自体が「mess」じゃないんだよ。そこに課題があるんだよ。そこに…

ウネラ:作品テーマを「mess」だと言い切った上作りにまで口出しするウネリの強さに驚きつつ、このへんで終わります。ウネリが多少やけくそ気味になっていますが、二人共どうしても見たかった作品で、今でも見てよかったと思っている。ということを最後にお伝えしておきます!

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