皆さん、嬉しいお知らせがあります。気鋭の日本「文学」研究者、加島正浩さん(名古屋大学大学院博士課程)がウネリウネラに寄稿してくれました! 加島さんは、東日本大震災以後の日本「文学」を研究しています。ご専門は主に戯曲・詩歌などですが、今回は、今月8日まで東京で開催している「もやい展2021」の感想を書いてくれました。2回にわたって紹介します。


【「見えなくされる」流れに抗うーー「もやい展 2021」レビュー】(加島正浩さんの寄稿・前編)

 4月1日(木)から4月8日(木)まで、東京のタワーホール船堀で開催されている「もやい展 2021」に筆者は1日から4日まで滞在したが、「展覧会」のコンセプトは明確であるように感じた。

 そこでは、東京電力福島第一原子力発電所の「事故」被害を最も強く被った双葉や富岡、大熊、浪江などの地域を中心に何が起こったのか、そして今何が起こっているのか、そこで生きている人々が何を感じているのかを知らしめ、考えさせようとする作品とパフォーマンスを観ることができる。

 たとえば「もやい展」主催の中筋純の映像作品「九年目の津波」は今野寿美雄さんの、「フィーネ」は、堀川文夫さん・貴子さん夫妻の浪江町にあるご自宅を解体する様子を収めている。もちろん進んで解体したかったわけではない。放射線量が高くて住むことができない家ではあるが、解体するにも費用がかかる。その費用を行政が負担する期限が迫っていたため、迷いながら自宅を解体することを決断なさったのである。初日1日に堀川さんは、自宅を解体する様子を自分では見ることができないから、中筋さんに記録してもらったと話されていた。そのことを堀川さんは、家を「看取ってくれた」と話され、今野さんは自宅を「荼毘に付した」とおっしゃっていた。家は単なる直立する物体なのではない。家はそこに住む人と浪江でともに「生きて」いたのであり、家はそこでの生活の記憶を留める大切な拠点でもあった。それを喪うことがどのようなことであるのか、映像はそのことを伝える。

 上記二作品はYoutubeでも見ることができる。

九年目の津波

フィーネ

また、浪江の家屋解体については、映画監督の山田徹の記事にも詳しいため、関心のある方はご参照いただきたい。

「町から家が消えていく」いま浪江町で進む家屋解体(執筆・山田徹氏、Yahooニュース)

 そして、2日・3日に行われた朗読劇「まつろわぬ民2021」でも、浪江の現実が反映される。これまでの「まつろわぬ民」(2014年初演、2017年・2018年再演)では、白崎映美演じる主人公胆沢スエの「ゴミ」屋敷が舞台となっていたが、その屋敷が解体されてしまったのである。

安島 ゴミでねえ

山路 あ、こりゃまた失礼!いやあ実は、つい最近まで、このゴミ屋敷の撤去作業やってたもので。つい。

安島 おめえが屋敷壊したのか

山路 はい、町に委託されまして。このゴミ屋敷、異臭はひどいし、ボヤ騒ぎ起こしたり、町でも悩みの種でしたからねえ。おまけに家主は片付けを断固拒否して手もつけられないありさまで、まわりにお住いのみなさんも相当困ってましたからねえ。(中略)その胆沢さん? 家主さんが、震災で流された色んな瓦礫をかたっぱしからかき集めて、家じゅうにため込んじゃって。(中略)泥まみれのテレビとか冷蔵庫とか炬燵とか?一番厄介だったのは、除染がれき詰め込んだフレコンバッグ?どうやって運んだのか、あんなもんまで持ち込んじゃって

 行政の視点からは、住居もそこにあったはずの家具もすべて「汚染」された「瓦礫」で、流れ作業で撤去していくべきものにしか映らないのであろうが、繰り返せばそれはそこに生きた人々とともに時間を共有した物たちなのである。「ゴミ」ではない。

 「瓦礫」や「ゴミ」と片づけられるものと共に生きた人々の想いは目には見えない。それは放射性物質が目に見えないことと同じことで、芸術の課題のひとつはその目に見えないものを見えるようにしていくことにもある。目に見えないものは安易に「ない」ものにされうる。中筋の映像作品や「まつろわぬ民 2021」は「瓦礫」や「ゴミ」と片づけられるものとともにある人々の想いを―だから住居を単なる「ゴミ」として扱うことは、その人の想いをも「ゴミ」と扱うことに等しいのだと―示しているのである。

 そして「復興」の大合唱のなか見えなくされる放射性物質の存在は、フレコンバッグをまっすぐに捉え、それを直接描く津島佳子の作品にはじまり、金原寿浩≪夜ノ森哀歌≫(2017年)のように木炭などを用いて描かれた仄暗く切ない桜の姿から感じ取らせる作品など様々な試みにより、可視化されようとしていた。

 それは金原のように仄暗く描くのみならず、展覧会の入口で入場者を迎え入れる中筋純の美しい桜の写真や加茂昴の≪福島県双葉郡富岡町夜ノ森付近にたたずむ≫(2021年)などの美しい絵画によっても表現される。ただし加茂の絵の奥には、立ち入り禁止を示すゲートや看板が描きこまれており、この美しい風景のなかに「見えない」が確かに存在するものがあることが示される。

加島正浩氏がもやい展の会場で撮影した加茂昴氏の絵画

 そして美しさのなかに溶け込むことのない現実を描くのが、今年2月に旬報社から『いぬとふるさと』という絵本を出版した鈴木邦弘であろう。鈴木は今回自らが描いた絵本の原画を中心に展示している。鈴木の絵は一見美しい。会場の天井が高いため、上部に空の絵を配置したとおっしゃっていたが、彼の展示は綺麗な青色がまず目に飛び込んでくる。

加島正浩氏がもやい展の会場で撮影した鈴木邦弘氏の作品群

 ただし、彼の絵にはその美しさとは相容れない物たちが描きこまれている。立ち入り禁止を示す看板、フレコンバッグ、更地にされた土地に立ち並ぶソーラーパネル……。

 丹念な取材を基に描かれた絵の横には、絵の元となった風景の写真が並んでいる。それと見比べてまず気づくのは、鈴木の色彩の美しさであるが、しかし風景の色合いが美しいがゆえに、そこに入り込んでいる「異物」の存在が際立つ。なぜ、こんなものがあるのか…どうして…?答えははっきりしている。原発「事故」のせいである。「事故」が何を奪ったのか。鈴木は美しい風景のなかに「事故」後に付け加わったものを描くことで、「事故」が奪ったものを表現しているのである。

 ここまで述べてみると「もやい展 2021」は、行政/権力によって「見えなくさせられようとするもの」(そこに住む人々の想い・放射性物質…)を明らかにし、来場者に今何が起こっているのかを教えるのと同時に、それを「見えなく」しようとする「悪意」に抵抗する展示会でもあるといえるだろう。何が問題にされているのか、来場すればすぐにわかる。「復興」など成し遂げられていないこと。未だ「事故」の火中にあり、「節目」など存在しないこと。15人の作家による展示と、数々のパフォーマンスがそのことを告げている。

(すべての作品に触れることが出来ず、本当に申し訳ございません…。金原寿浩さんの絵画に圧倒されたこと、山内若菜さんの作家としての出発点を観られたこと、小林憲明さんのハグの写真に涙ぐみそうになったこと、矢成光生さんの黄色のまがまがしさ、井上美和子さん星ひかりさんの素晴らしい朗読などなど、触れることができていないものが大半です。ぜひ、来場し、展示の素晴らしさを体感してください。)

 この展示会が東京で行われていることも重要である。原発「事故」の被害を最も強く受けた相双地区や数多くの被災地のことを、年に1度思い出したふりをした後は忘却の底に沈める―いや「復興」していない地域は「思い出されもしない」―東京=日本の中心地で行う美術展であるからこそ、まずは絶対になかったことにされてはならない現実をまっすぐに突きつける必要があるのだといえる。それが突きつけられる先は、権力を持つ行政機関であり、「我々」である。

 入り口には、もやい展実行委員会代表中筋純の「果たして我々の目は開いているのか……?」と題された挨拶が掲げられている。10年目の「節目」・「復興」の大合唱に霞んでいく光景があり、消されていく声がある。それをしっかりと受け止める表現が「もやい展 2021」にはある。あとはその表現の前に立つ「我々」の「目が開いているのかどうか、

 「目が開く」まで、何度でも何度でも描きつづけてやると言わんばかりの表現者の意志の結晶を前に、「我々」が何を感じるのかが、問題なのである。

 そこから、はじめられることがあるはずなのだ。


【ウネリウネラから】

 加島さん、丁寧なレビューをありがとうございました! 初日の4月1日から4日まで通い続けた加島さんだからこそ書ける、濃密な内容でした。くりかえしになりますが、ウネリウネラに書いてくださったこと、とても感謝します。後編もなるべく早くアップします。

 「もやい展2021」は今月8日までです! ご関心ある方はぜひ、足を運んでください。

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