先日、こういう記事を書きました。
この記事がなぜ「コロナに負けそう」なのかという点が、記事内容からはあまり明確ではなかったかなと思います。
自分でも書いた直後から、何が言いたいのか、わかるようなわからないような文章だと思っていました。
「ウネラのブログ」内の記事は、ほとんどがそんな感じですが、それにしてもこの記事は自分の中でも言葉が足りないな、ともやもやしていました。
ただ、今は、あまり考えすぎて何も書けなくなるより、なんとなく引っかかることを、不完全でも記録しておくことが大事だと感じていて、まとまらない空白はそのままにアップしました。
その後、読んでいただいた方に感想をいただいたりしたことで、改めて「自分は何が言いたかったのか」「これがなぜ『コロナに負けそう』なのか」ということを考えたのですが、
結局、最後のほうにごちゃごちゃっとまとめた
意味がはっきり呑み込めないことを人、特に子どもに対して強いることは、本当に良くないと思っています。
やる意味がわからないことをやらされ続けていると、問うことや疑うことを忘れがちな人間になってしまうのではないか。
という部分について、
「それが、コロナをめぐる数々のおかしな事象と関係している気がする」
と言いたかったのだと思います。
国を挙げて得体のしれない布マスクを配るとか(その後の流れは割愛)、
「新しい生活様式」だとか。
感染者や、県外ナンバー車に差別的な嫌がらせが起こりはじめたかと思うと、負けじと(?)行政が県外車を見張り始めたり。
医療機関受診の目安がいとも簡単に変更(一部記述削除)されたり…
数え上げたらキリがないのですが、おかしいなと思うことひとつひとつについて、
これ、やると決めた人は、自分が言ってる(やってる)ことの意味、わかってやってるのかな?
と感じます。
で、なんでそういうふうになっちゃうのかな、って考えていたときに、子どもとのやり取りから、何かつながるものを感じて書いたのが上記の記事でした。
子どもを見ていると、
「なぜこれをやるのか」「このことに取り組む意味はなにか」
さらに原始的に
「これを『やりたい』のか『やりたくない』のか」
そういったことに、こちらが見ていていらいらするほど、逡巡しています。でも、それを見守っているうちに、その逡巡の余裕を与えられることが、実はとても大事なのではないか、などと思えてきます。
逡巡を通じ、「考える」ことを身につけていくような、そんな印象です。
一方で、長い間そういうプロセスを経ず、物事の本質について自問する習慣がなければ、それが何かとても大きく大切な問題だとしても、その本質を見ないまま、上からの指示や場の雰囲気みたいなものによって、スコーンと、からっぽな決定ができてしまうのではないか。
いちいち立ち止まって逡巡するより、一定の流れに沿って行動するほうが、圧倒的に「楽」だし「速い」。そういう考え方が良しとされる社会の中では、「逡巡」などは、阻害要因でしかありません。
そこでは、「遅延」とか「停滞」とかが極端に嫌がられるからです。
「人の生き死にがかかっている」ということさえ、ブレーキになったりはしない。
毎日見聞きするコロナ関係の情報から、そんな感じを受けていて、それをまた要領を得ない文章で書いたのが「いしゃ」と「いしや」でした。
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