朝鮮人強制連行犠牲者の慰霊祭

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 福島県内で亡くなった朝鮮人強制連行犠牲者の合同慰霊祭が、8月27日午前、東山霊園(郡山市)で行われました。約40人の参加者が追悼碑の前で黙とうし、献花を行いました。(文・写真/ウネリウネラ 牧内昇平)


 慰霊祭は在日本朝鮮人総連合会福島県本部と日朝友好福島県民会議の2団体が主催しました。参加した方々のあいさつを紹介します。

慰霊祭の参加者たち
「福島朝鮮学校を支援する会」会長、住谷圭造さん
 日本の敗戦から78年、そして総連の皆さんの祖国が日本軍国主義者の植民地支配から解放されてから78年、という月日が経ちました。日本でも敗戦78年ということで広島長崎の被爆者、沖縄戦の経験者、そして第二次世界大戦を戦った人たちが報道で取り上げられています。
 とりわけ気になるのは、「被害」という観点はかなり大きく出ていますけれども、日本帝国主義が侵略し、植民地支配をし、多くの皆さんに被害を被らせた実相というのが意図的に薄まってきているという気がしてならないことです。我々はそういうことの一つ一つに目を見開き、なぜよその国を侵略してしまったのかということを学び、未来に向けた取り組みをしていくことが求められていると思います。
住谷圭造さん
「日朝友好福島県民会議」会長、佐藤恒晴さん(副会長の中村孝太郎さん代読)
 敗戦から78年のこの8月、今も地球上の至る所で戦争という名の殺人、環境破壊が行われています。その現実は、かつて朝鮮の皆さんに対し、非情な行為をおこなった日本の支配者の姿を見る思いです。
 今年も追悼の慰霊祭を皆さんの力で行うことができました。私たち友好運動を進める者として、今後も続けることが日朝友好の発展に資するものと信じることを申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。
中村孝太郎さん
「在日本朝鮮人総聯合会福島県本部」委員長、張泰昊(チャン テホ)さん
 今年は関東大震災朝鮮人大虐殺から100年にあたる年です。全国各地では学習会や集会などが開かれ、日本政府に対し、犠牲者への謝罪と真相究明を求める取り組みが行われています。国会においても取り上げられましたが、日本の政府は積極的にはこの問題に向き合おうとしていません。広島の原爆資料館を訪ねた外国人の青年が、「ここには原爆の悲惨さを知らせる資料は多いが、なぜこのようなことが起こったかを知らせる資料がほとんど見当たらない」という感想を述べたそうです。日本政府は歴史的事実を明らかにし、過去の過ちを認め、歴史の教訓として生かすべきだと私は考えています。被害者に対し、口先だけの謝罪やお金だけではなく、真摯に心に寄り添うことが重要だと考えています。そのことなしに、過去の清算はあり得ないと思っています。私はこれからもこのことを強く訴え続ける次第です。
張泰昊さん
「社会民主党福島県連合」幹事長、遠藤芳孝さん
 敗戦から78年、日本は侵略戦争により、多くの国と住民に苦痛と損害を与えました。1939年、日本は労務動員計画を策定。石炭、鉱山、土建などの重要産業部門に朝鮮人労働者の移民を実施し、その数は72万5千人にのぼりました。「移民」とは言葉だけで、実は強制連行であり、地下労働の過酷な現場に投入され、劣悪な労働条件、監視の中で働かされ、粗末な食事、給与不払い、抵抗者には暴力の行使が、軍隊式で頻繁に行われました。こうした中で不幸にも亡くなられた方々とご家族の皆さまに、心より哀悼の意を申し上げます。
 1945年、ポツダム宣言を受諾し、敗戦となりました。このポツダム宣言は日本から軍国主義者を永久に葬り去り、民主主義を確立しようとしました。それに基づき、日本国憲法が作られ、日本は78年間、戦争のない平和な国として過ごすことができました。
 しかし、朝鮮学校に対して高校授業料無償化の適用外の扱いを行い、朝鮮人に対して威力的、暴力的なヘイトスピーチをくり返し、群馬においては追悼碑の継続使用を認めない判決を出し、差別と分断を図っています。また関東大震災における朝鮮人、中国人の大量虐殺の慰霊祭に対して、歴代東京都知事の哀悼のメッセージを小池百合子知事は拒否するなど、いまだに加害責任を負わない、日本の反動化が進んでいます。
 自公政権による北朝鮮のミサイル発射、中国脅威論、台湾有事を口実に、アメリカに代わり、戦争の準備として5年間で43兆円の軍事予算をもうけ、敵基地攻撃まで明言するようになっています。平和外交による解決をかなぐり捨て、普通に戦争のできる国づくりに邁進している自公政権を許すことはできません。平和を希求する世界の人びとと手を取り合い、平和で笑顔に満ちあふれた世界ができるまで共に戦っていくことを決意いたします。憲法9条を守り、平和外交によって日朝に国交回復と平和友好条約が一日も早く実現するように活動することを申し上げ、追悼の言葉といたします。
追悼の言葉を読み上げる遠藤芳孝さん
「在日本朝鮮福島県商工会」理事長、金宗仁(キム ジョンイン)さん
 8.15祖国解放の日を迎え、強制連行犠牲者の方々に哀悼の意を表します。また、ご多忙の中を哀悼の集いに参加された日本の皆さまに感謝と尊敬の意を表します。
 私たちは8.15祖国解放の日を迎えるたびに、あらためて過去の植民地支配、略奪、戦争、強制連行などのことを思い出します。そして78年がたった現在も、日本政府から強制連行犠牲者の子孫であるわが在日朝鮮人への不当な差別が続いていることについて、怒りを禁じ得ません。朝鮮高校が高校無償化制度から除外され、わが同胞や善良な日本市民の反対する声はドキュメンタリー映画になり、日本国外でも公開されるなか、日本政府は一向に、この声に耳を傾けようとしません。強制連行で犠牲になられた方々の怨みから目を背け、あたかも日本の植民地支配が朝鮮の発展に寄与したという見方が日本社会にはいまだに残っています。
 今年は関東大震災朝鮮人虐殺から100年を迎えます。インターネットの普及により情報の拡散が容易になった現代社会において、ヘイトクライムと、これをあおるヘイトスピーチが蔓延しております。災害発生時には、100年前と変わらず、在日外国人が災害現場で犯罪をしているというデマが日本社会に蔓延します。私たちはこのような状況を打破し、お互いに尊重し、友好と親善を深めていく社会を築くため、今年の慰霊祭に参席をたまわったわが同胞と日本の方たちと手を取り合って闘っていくことを強く決意することを、強制連行犠牲者の方々に申し上げ、挨拶といたします。
追悼の言葉を読み上げる金宗仁さん

福島県内における朝鮮人強制連行の実態

 1910年、日本は朝鮮半島を植民地化しました。抵抗した朝鮮の人びとを武力で弾圧した結果でした。そして占領した土地の多くを自分のもの(日本の「国有地」など)にしていきました。日本の植民地支配によって土地を奪われた朝鮮の農民たちの中には、仕事を求めて日本に渡った人もいました。そうして日本で暮らしていた朝鮮の人びとが虐殺されてしまうという事件が、今から100年前の関東大震災の時に起こりました。日本人が忘れてはならない「恥ずべき歴史」の一つです。

 朝鮮半島の植民地支配に飽き足らず、日本は1931年に中国東北部への侵略を始めました(満州事変)。そして1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入します。戦争は1945年8月まで続きました。

 戦争が本格化する中、日本国内では働き手不足が問題になりました。そこで日本政府は1938年に国家総動員法をつくり、国民を軍需産業などで働かせる計画を立てました。その計画の中には、植民地にしていた朝鮮の人びとを連れてくる計画も入っていました。

 敗戦までに日本に連れてこられた朝鮮人労働者の数は、72万5千人とも、150万人とも言われています。正確なところは分かりませんが、とても多くの方が連れてこられたのは明らかです。

 こうした労働力移入が「はたして強制連行と言えるのか」。そういう疑問を呈する人が時々いるようです。確かに、自らすすんで日本にやってきた人もごく一部いたかもしれません。しかし、体験者の方々の証言を読めば、無理やり連れてこられ、劣悪な条件で働かされていた人たちがたくさんいたことは間違いないでしょう。

 わたくしは一九四二年ソウルで、日本にいけば二年間はたらいて二千円ぐらいの貯金ができるという鉄道工業株式会社(土建)の誘惑にひっかかり、同胞九一名とともに北海道美唄に連行された。そこではじめて、わたくしは、炭鉱で働くということをきかされ、わたくしたちをとりまいていた警官に炭鉱はいやだと抗議したが、「戦争には石炭が必要だ。絶対に変更できない」といってなぐられ、けっきょく炭鉱で働くことになった。 (中略)

 わたくしのいた盤の沢の竪坑では一九四四年に大爆発があって百名以上死んだが、そのうち八〇名ぐらいは同胞であった。わたくしたちの組のものも一〇名ぐらい死んでいるが、この前後に負傷して眼がつぶれたり、片足を失ったりして不具になったものが五〇~六〇名ぐらいいた。死亡者にたいする慰問金も会社直属の人にはいくらか出たが、われわれのような組のものにはほとんど出なかった。

『朝鮮人強制連行の記録』朴慶植著

 わたくしは故郷(慶尚北道青松郡)で七回も徴用令状を受けたがそのつど逃げていた。しかし一九四三年二月、八回目の令状で、寝ているところを警官一名と面事務所(村役場)の吏員につかまり、郡の集結地まで手錠をはめられ、そして日本に連行された。

(中略)

 わたくしたちが連行された炭鉱は数年まえ河水が坑内に侵入して六十数名の日本人労働者がぎせいになり、そのまま閉鎖した豊州炭鉱で、すでに同胞が二千余名も連行されていた。わたくしたちの宿舎は高さ一二尺の五分板で囲われ、逃げられないように警戒が厳重であり、初めの六ヵ月間は訓練期間として、いっさい自由行動が許されなかった。

同上

 福島県内にもたくさんの朝鮮の方々が強制連行されてきました。その数は約4万8千人にのぼると言われています。常磐炭鉱(いわき市)信夫山地下工場(福島市)高玉鉱山(郡山市)沼ノ倉発電所(猪苗代町)など県内約120か所で働かされていたそうです(『福島の朝鮮人強制連行真相調査の記録』)。

 福島県内の強制連行被害の実態はよく分かっていなかったのですが、1990年代に入り、朝鮮人と日本人が共に加わる「真相調査団」が組織され、ようやく解明が進んでいきました。調査団は県内に住む体験者からの聞き取りや現地調査を行いました。

高玉鉱山で働かされていた方の証言
 私は一九四〇年二月八日木浦港から貨物船で同胞三〇〇名と共に日本に着き、二月十五日に四十八名で高玉に来ました。第一陣でした。朝鮮では日当一円八〇銭の約束が三カ月たっても一円五〇銭なので約束違反と言って仕事を休んだら郡山警察署に連行されて刑事部長に豚箱にぶち込むとおどされた。賃金は小遣少々で、何々の天引き、貯金、親元への送金といって給料は貰っておりません。
 どんな病気でも一週間の診断書しか発行してくれず、あとは仕事に追い出される始末です。虐待で一番弱ったのは、ヤカンに水を入れて、その水を鼻の穴から注ぎ込まれたのには一番困りましたね。

『福島の朝鮮人強制連行真相調査の記録』朝鮮人強制連行福島県真相調査団日本人側・朝鮮人側共同編著

沼ノ倉発電所で働かされていた方たち(朝鮮人と日本人)の証言

 沼ノ倉発電所工事のために朝鮮人が連行されてきたのは夏(一九九四年)で、現場にバスに乗って大勢到着しました。

 夏だから薄い麻の服を着て、足には藁の履物をはいていて、猪苗代警察署の特高刑事が、連行されてきた朝鮮人に対し、大要「君達は産業戦士としてここに来たのであり、日本の勝敗は君達の両肩にかかっているのであるから一生懸命働くように」の訓示がなされ、飯場というか監視付きの収容所のようなところで寝泊まりしていました。
 猪苗代は真冬は寒いのですが、夏服のままで冬をすごしていましたから、朝などは体をブルブル震わせているのをよく見ました。

 沼ノ倉は長瀬川添えで風も吹きますし、雪も降りますから朝鮮人の方達は現場で使い終ったセメント袋を足にまきつけ、腹や背にもまいて縄でしばって寒さをしのいでいました。
(中略)

 朝鮮人の方の逃亡は数多くありました。逃亡者がでると警察出動、警察の支援組織も動員されて逃亡者探しをする訳です。捕った場合ですが、まず警察でたたかれ、組に連れ戻されると組で又たたかれる仕末でした。
 私の同胞は二七〇名いて一二八名しか帰国していませんので、あとの人はどうしたのか聞いたところ飯場では「逃亡した」と答えていたが逃亡したのか殺されたのか判っていないのです。沼ノ倉では三十三名が殉職してますが、その当時は埋葬ですから事故死の外凍死したり変死をした方達の扱いはどのようであったのか皆目判っていません。 

同上

 こうした調査で福島県内の朝鮮人強制連行の実態が分かってきて、犠牲になった方々を弔うための追悼碑が建立されることになりました。東山霊園の追悼碑は1995年に建立され、それ以来定期的に、今回紹介したような合同慰霊祭が行われています。(筆者はまだ直接目にしていませんが、沼ノ倉発電所の敷地内にも「朝鮮人殉難者慰霊碑」が建立され、碑の裏には亡くなった33人の氏名が刻まれているそうです)。

 前述した朝鮮人強制連行福島県真相調査団で朝鮮人側団長を務めた宋紀洙さんの言葉を引いてこの文章を終わります。

 悲惨で暗い時の一部である「朝鮮人強制連行」の事実を明らかにし、こうして記録にとどめる作業は大変な労力と時間を費しています。しかし、これは、その愚を再びくりかえさない為に私たちの手でしなければならない事でした。
 「真相」は計画的に「連行」し「強制労働」をさせた側がより正確に知っているはずです。残念ながらその側の協力はほとんどなく連帯の善意だけです。このことが、再び、起き得る愚につながらなければと言う想いで一杯です。 

同上

参考文献:
『福島の朝鮮人強制連行真相調査の記録』朝鮮人強制連行福島県真相調査団編著
『朝鮮人強制連行の記録』朴慶植著
『強制連行された朝鮮人の証言』朝鮮人強制連行真相調査団編著
『労働力動員と強制連行』西成田豊著
『朝鮮人強制連行』外村大著

コメント

  1. 脇田 より:

    福田村事件 を見ました。
    関東大震災から100年、今年は各地で関連した催しがたくさん行われています。
    先日、森達也監督の上記映画を見ました。
    香川県から来た薬の行商団が 関東大震災の五日後に 千葉県福田村の住民に
    9人が朝鮮人に間違われて虐殺されるという 実話に基いた劇映画です。
    この映画のように福島県でも大震災前後に朝鮮人に対して 強制連行、強制労働、
    暴力行為が頻繁に行われていたのを 初めて知りました。
    明治維新後、政府が欧米列強に負けじと 富国強兵策を取り 朝鮮半島に侵出、
    併合、植民地化したのが原因です。
    これによって生じた民族差別意識は今尚、連綿と続いています。
    日本政府がこの150年間について 歴史を正面から真摯に向き合わない限り、
    これからも在日の方たちへの不当な圧力は続くと思います。
    結局、市民レベルで私たち一人一人が過去について理解を深めるしかないです。

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