福島県内に今秋オープンした「東日本大震災・原子力災害伝承館」(伝承館)の「あるべき姿」を考えていきます。企画の狙いについては、前の記事「企画のはじめに」をお読みください。
議論の材料として、館内の展示フロアに掲示されている「文章」をアップしてきました。以下のページにまとめていますので、ご覧ください。
いよいよブログ読者の方からいただいたご意見、ご指摘を紹介していきたいと思います。二回目は、広島県在住の40代、「がすこ」さんのコメントを紹介します。
一回目の深瀬さんと同じく、がすこさんも前半の展示エリア「災害の始まり」内の〈事故前の暮らし〉に関する文章(展示資料の記録②)について、気づいたことを書いてくれています。
ぜひお読みください!
【がすこさんからいただいたコメント】
題名: 本当にそうですか?
メッセージ本文:
これだと原子力発電所ができたことの利点ばかりが宣伝されているイメージです。
広島の平和記念資料館で、原爆が落とされる前には、何気ない日常が繰り広げられていた・・・みたいな、いやいや戦争してるんですよ。
子どもたちも戦争に協力してるんですよ、という視点がないのに似ていますね。
【ウネリウネラから一言】
がすこさん、どうもありがとうございました。広島県在住とのこと、双葉町の伝承館にはまだ行かず、このブログの「展示資料の記録」を読んでご投稿いただいたのかもしれません。そうだとしたら、「直接足を運べない人もぜひ議論を」という企画の趣旨にぴったりで、とても嬉しいです!
原発がなぜこの地域に建設されたのか、という問題意識だと受け止めました。
がすこさんのご指摘の通り、伝承館の展示は「原子力発電所ができたことの利点ばかり」が喧伝されています。たとえば、目立たない小さなパネルではありますが、こんなことが書いてあります。
●原子力発電所ができたころ
かつて相双地域の一部では、農閑期は出かせぎに収入を頼ることもありました。この地域に原発が立地したことで雇用が増え、暮らしは豊かになりました。
伝承館内の展示パネル<原子力発電所が地域にもたらした影響>より
このまとめ方はいかがなものかと思います。「出かせぎに行く必要がある貧しい地域は、原発ができてよかったじゃないか」と言いたいのでしょうか。そのように読むのは、邪推のしすぎでしょうか?
昨日に引き続き、大熊町史(1985年発行)の一節を紹介します。
大熊町史はまず、原子力関連企業による業界団体「日本原子力産業会議」が1970年にまとめた立地調査報告書の中身に触れています。
日本原子力産業会議は、(中略)敷地の概況として、「原子炉の設置地点から最寄りの人家までの距離は約一キロメートルで、周辺の人口分布も希薄であり、近接した市街地としては約八・五キロメートルに、昭和四十年十月現在人口約二万三〇〇〇人の浪江町がある。」としている
大熊町史より
それに続けて、町史はこう指摘します。
浪江町よりも近いところに当時人口七六二九人の地元の大熊町、隣接の人口七一一七人の双葉町、人口一万一九四八人の富岡町のあることは、この説明からすっぽりと脱落している事実に気づかなければならない。二万人以上の町なら市街地として扱うが、一万人前後の町は配慮の対象にならないという論法が、要するに原子力発電所の立地が東京からの距離の遠さを力説する形で適地の判断がなされることにつながっているのである。
大熊町史より
原発建設の当初から、比較的小さな町や村のことは置き去りにされていたように感じます。
皆さまからのコメント、大募集中です!
とうとう「みなさんの声」シリーズを始めることができましたが、まだ数名の方からしか、いただいておりません(涙)。このままでは、年内にも終了してしまいそうです。
多くの方からご意見をいただき、議論を深めたいと思います。短い投稿、ひと言コメントも歓迎です。もちろん、匿名・ペンネームでもOKです。掲載中の投稿を読んでの感想なども、ぜひお寄せください。投稿、お待ちしています。
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※各エリアの展示文章はこちらの一覧にまとめています。→「伝承館は何を伝承するのか」
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