時間を超えて ~ワタノベさんご自身のこと②~

報道

 福島県相馬市の高校生が震災後に発表した演劇「今伝えたいこと(仮)」などの記録映像上映を通じ、継続的に対話の会を開いている高校教師の渡部(ワタノベ)義弘さん。演劇の成立過程や、今も続く上映と対話の会の内容などの本題に入る前に、震災直前から直後のワタノベさんご自身の体験について紹介する。

 前回の「ワタノベさんご自身のこと」①では発災翌日の2011年3月12日以降、相馬を離れ、各地を転々とした経緯を詳細に綴ってもらった。その後のワタノベさん何を思い、どう行動したのだろうか。(ウネラ=牧内麻衣)

※隔週土曜に連載します

相馬への帰還

 結局、3月末に一度相馬に一度戻った後、4月11日には避難先のウイークリーマンションを引き上げて相馬に戻った。一人で「逃げた」ので、父親との親子関係はぎくしゃくした。衝突することが目に見えていたため、3月末は家には戻らず、妹夫婦の家に泊めてもらった。

 近所に住んでいた姪たちは発災時、小学4年生と幼稚園年長だった。小4の姪のほうは、父親が単身赴任をしていた期間、ワタノベ宅で生活をしていた。一緒にままごとをしたりして、その時期は親気分を味わった。喘息気味だったので、呼吸器のことはとても心配だった。
 発災後ワタノベは一人で相馬を離れたわけだが、無理にでも姪たちを連れ出せば良かったと思っている。その後、甲状腺検査で異常が発見されていないのが救いだ。

 この頃の姪の学校の対応をめぐり、こんなことがあった。PTA総会に出た妹は「誰かが放射能のことについて訊くだろう」思っていたけれども、誰からも質問は出なかったという。それでも内心、放射能のことについて心配な妹は、兄であるワタノベにパスを投げてきた。「学校に何か言ってくれ」と。同業者なので多少の気兼ねはあったが、それ以上に姪の体のことが心配だったので、姪の通う小学校に電話した。
 おおよそ、以下のようなやり取りだったと思う。

ワタノベ:(姪の名前)の伯父ですが、校長先生をお願いします。
小学校:校長は出張で席を外しています。
ワタノベ:教頭先生をお願いします。
教頭:何か御用ですか?
ワタノベ:教頭先生は、この殺人的な放射能についてどうお考えですか?
教頭:「殺人的な」とか個人的な見解ですよね。
ワタノベ:教頭先生は、もちろん原発の労災認定が5ミリシーベルトであることは知っているのですよね?
教頭:(数秒無言)
ワタノベ:よろしくお願いします(電話を切る)

 もともとはせめてマスクぐらいはつけさせて欲しいと思って電話をかけたのだが、相手の出方に、つい挑発的な言い方をしてしまった。結果的に学校側は、その週のうちにマスクを推奨するようになった。

震災の爪痕

 震災から20日程過ぎて戻った相馬には、まだまだ震災の爪痕が残っていた。記録すべき物や場所は沢山あったはずだが、カメラを回すことはためらわれた。

 そこはまさに激甚被災地で、家の近所にも遺体は流されてきている。家の前にワタノベ家の田圃があり、そこには瓦礫とおぼしきものも流されてきていた。けれどもそれは、近くに住む人の生活の跡でもある。軽々にカメラを向けられるものではない。報道のためにそこを撮影するのは仕方がないが、被災地を舞台にして何か表現しようとしていたり、報道目的でない人がそこを舞台に何かを発信しようとする姿には、怒りすら覚えた。

 知人を亡くした母は、遺体安置所に行ったり、津波の被害が大きな地域を回ったりもしていたそうだ。ワタノベは、発災当日は21時近くまで学校に詰めていた。その間に近くの避難所に生徒たちと移動したり、3月1日に卒業したばかりの生徒の安否確認をした。相馬の従弟の家はすべてのライフラインが生きていた。近くに避難所になった中学校があったせいか、地盤のせいか、今となっては判別できない。

 3月末に一旦戻った時、唯一撮影したのが畑である。橋を渡った瞬間、「被災地」が姿を現した。畑には海岸線から流されてきた松の木もあった。水没していて、かつて畑であったかを想像するのは難しかった。

 自分の生活地の一部であったから、唯一カメラを向けることができたのだった。

学校現場の混乱

 その際ワタノベは、職員会に参加した。一時的に戻ったのは、実は休職を願い出るため だったのだ。避難先(携帯電話)には毎日のように学校から電話がかかってきた。曰く「担任をやらないか」と。いやいや、そもそも人が住んでも良いところかも分からないのに、「教育を再開」するってどういうこと? そう思っていたワタノベは、職員会でどんな見通しが話されるかということにも興味があった。

 この状態ではさすがに普段のような入学式は出来ないであろうと思っていたのだが、管理職は普通通りに挙行しようとしていた。震災のため、全ての人事がストップしていたのだが、相馬高校の校長は退職していた。そのため、校長職務代理者教頭という名で教頭が代理の校長をしていた。今思うに、校長ほどの権限はなく教育委員会のいいなりだったのだろう。

 放射能についてはどうかと思うことがあったが(「ワタノベさんご自身のこと」①を参照)、入学式について教職員たちは一様に「いつも通りの開催は難しい」という見解だった。何より、市内のほとんどの学校が避難所になっている中、相馬高校だけ「普通」に入学式を実施することに、相当な抵抗があったのだ。管理職判断としては、「こちらは県立高校」なので(その他の学校とは位置づけが)違うというものだった。教職員たちの抵抗もあり、入学式は10日ほど繰り下げられたのだった。

 開催された入学式は「異様」なものだった。その様子は、2013年に相馬高校放送局が制作したドキュメンタリー映像「相馬高校から未来へ」に収められている。

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