今日は久しぶりの映画に関する対談シリーズです。「地球で最も安全な場所を探して」(エドガー・ハーゲン監督)という作品について語り合いたいと思います。
●作品紹介
この60年間で、⾼レベル核廃棄物35万トン以上が世界で蓄積された。
それらの廃棄物は長期にわたって、人間や環境に害を与えない安全な場所に保管する必要がある。しかし、そのような施設がまだ作られていないにも関わらず核廃棄物、いわゆる”核のごみ”は増え続けている。
そんな中、英国出身・スイス在住の核物理学者で、国際的に廃棄物貯蔵問題専門家としても高名なチャールズ・マッコンビーが世界各地の同胞たちとこの問題に取り組む姿をスイス人のエドガー・ハーゲン監督が撮影。チャールズと監督の2人はアメリカ・ユッカマウンテン、イギリス・セラフィールド、中国・ゴビ砂漠、青森県六ヶ所村、スウェーデン、スイスなど世界各地の最終処分場候補地を巡る旅に出る。
果たして、世界に10万年後も安全な”楽園”を探すことはできるのか―。
映画公式サイトより引用
詳しくは公式サイトを見ていただくということで、早速感想に入ります。
※作品のストーリーについて踏み込んで話しているので、映画をこれから観る方は、お気をつけください。
ウネラ:私はこういう作品は好きですね。
ウネリ:とても深刻な問題を、あえて軽妙なタッチで仕上げています。テンポや音楽も効果的だと感じました。コミカルな要素もあり、飽きずに観られる。多分あの監督はフィクション、コメディなども良い作品が撮れるのでは、などと素人ながら思いました。
ウネラ:好みによるところも大きいと思いますが、リズム感のある映像進行に好感を持ちました。作品全体が風刺的だとも感じます。
ウネリ:作品の主人公になっているのはチャールズ・マッコンビーという核物理学者です。彼は強力な原発推進論者なのですが、原発を動かすと「核のゴミ」というのがどうしても出てしまう。その課題を解決するべく、世界中を回って最も「安全」で「適切な」ゴミ捨て場にふさわしい土地を探し続けるマッコンビーを、エドガー・ハーゲン監督が追っています。マッコンビーについては、どう思いましたか。
ウネラ:作品に映し出されたマッコンビーを私は「憎めない人物」と感じました。原発推進か反対かという立場で言えば、私はマッコンビーとは真逆の考えです。でも彼はある種の非常な誠実さを持って、真正面から核のゴミの問題を解決しようと奔走しているんです。その姿はひたむきです。
ウネリ:そうなんだよね。出発点は決定的にずれているように思うけれども、責任ある態度ではあるかなと感じます。面白い人でした 。
ウネラ:「原発を存続させる以上必要となる核のゴミ処理場が、果たしてみつかるのか」という問いに対し、マッコンビーらがどうにか応答しようとするいう、この作品のシンプルな構図に、大変好印象を持ちました。
ウネリ:原発廃止の考えを持つ監督が、真逆の考えを持つマッコンビーにどこまでも付き合ってみた結果「最終的にまだ答えが出ていないじゃないか」というところを観客に突きつける。その「付き合う」という手法が、この映画のいいところかなと思いました。
たとえば、マイケル・ムーア監督の作品や、最近で言えばミキ・デザキ監督の「主戦場」なども、監督と考えの違う取材対象を撮影するけれど、相手の主張の間違っている部分をその都度指摘して、反論を加えていく手法をとりますよね。
それも嫌いではないのですが、今回エドガー・ハーゲン監督は、徹底的に相手と付き合い切った末に「どうですか、みなさん」シンプルに観客に問う。それによって、「問題が解決していない」という事実を、より鮮明に表現することに成功していると思います。
ウネラ:監督に「確信」があるからこそできた方法だとも思います。さっき言った通り「原発を動かす以上、出るゴミはどうするんだ」というシンプルな問いがひたすら描かれている映画なので、「何だか原発の問題って難しそうだ」とか、「いろいろ問題あるみたいだけど、経済のために必要らしいじゃないか」といった、いつも深刻に原発について考えていない人たちにこそ、よく伝わるんじゃないかという気もします。
ウネリ:自分たちも、そうだっただけにね。原発のことを、よく見つめてこなかってこなかった市民だっただけに、そう思うところは大きいです。
ウネラ:そうです。この映画の中では、対立する者同士の不毛な応酬は描かれません。「核のゴミをどうにかできるのか、できないのか」という論点がずれない。私はそのことによって、過度に疲弊せず、クリアに問題を考えることができました。
ウネリ:口汚くののしったり、怒号が飛び交ったりするシーンがほとんどない。それに近いのは、ドイツのゴアレーベンくらいかな。「Aという考え方の人とBという考え方の人がいて、激しく対立しています」という描き方をしていないんですよね。Aが原発推進派の側だとして、Aの中で最も責任を持って推進している著名な学者に、監督が付き合うっていう方法を取ってる。B側の人も映画に出てくるけれど、あくまでAのマッコンビーにずっとついていく方法を貫く。そして、観客に問いかける。なぜこれが成功したのかというと、マッコンビーが数十年もの人生をかけて核のゴミの処分場を探し続けている人物だからで、彼が監督の挑戦を責任を持って受けて立ったからだと思うんです。
ウネラ:マッコンビー自体が、問題の論点を絶対にずらさない役割を担っているんですよね。核ゴミの処理場を選ぶ上で中途半端に検証を怠ったりしない。徹底検証して確かな安全性を「証明」できなければダメだという姿勢です。
ウネリ:ただマッコンビーは「遡る」ということはしないんですよね。「原発はあるべきだ」「ゴミの問題を解決しないと原発が作られなくなってしまう」という焦燥感に駆られて数十年間活動しているんだけれど、どこかで「このゴミは捨て場所がないんだ」って気付いて、むしろ「このゴミを生み出さないような社会は作れないのかな」というふうに、自分の考えを遡って検証できなかったのかな、と思います。
この映画が成立したポイントは、やはりチャールズ・マッコンビーがいたから。彼が自分なりの責任感で人生をかけて処分場を求めてきたからですよね。世界各国で処分場探しが問題になると、結構な確率でマッコンビーが登場する。「この政府の委員会のトップについたのは彼だった」みたいな感じで。
それだけ人材が払底してるんじゃないかっていう気はします。原発を作ったり、核燃料サイクルの研究をしたりする科学者はいっぱいいたとしても、その処分の仕方を真剣に考えている人が少ない。もしかしたら、マッコンビーだけなんじゃないかっていうような危惧が出てきます。
実際にこの監督は日本にも来て六ヶ所村の再処理工場を撮っていますが、そこに「人」は出てきません。推進派も反対派も一人も登場しない。そこで考えるのは「日本にマッコンビーはいるのか」ということです。原子力を「ベースロード電源だ」といまだに言っている日本で、「では核のゴミの方の問題はどうしますか」と思ったとき、私には、「この問題についてはこの人だ」という専門家の顔がパッと出てきません。たとえば脱原発の専門家、原発推進派の専門家は思い浮かびます。ただそのゴミの問題で旗頭に立って、マッコンビーのように全面的に取材を受けて立つような人物がいるかというと、私は知らないです。
例えばその北海道の寿都町と神恵内村が文献調査に手を挙げたけれど、新聞記事などを見ても、首長(特に寿都町長)の写真はよく見るけれど、政府側は「経産省の職員が説明に行った」とか匿名の存在、官僚対応なんですよ。仮に大臣対応だとしても、経産大臣だってコロコロ変わるし経産省の官僚だって2~3年で担当が変わる。そういう匿名の、「ちょっと経ったら自分たち関係ないし」っていう人たちが原発の推進機能を一時的に担っているという状態で、マッコンビーのように人生を賭けて動き回っているのとは全然レベルが違うんじゃないか、と思います。
福島では原発事故があり、汚染水の問題もあるし、高度に核燃料デブリの問題もある。その処分方法をどうするかという話になったときに、チャールズ・マッコンビーのような人がいないのではないか、誰も人生を賭けて責任をとろうという人がいないのではないか、ということを考えると、非常に暗澹たる気持ちになりました。
ウネラ:「私は日本のチャールズ・マッコンビーになれます」と言える人がもしいるのならば、ぜひ知りたいですし、話を伺ってみたい。原発推進論については、各地でお話なさってる方たちがたくさんいると思いますが、ゴミの行き先について説得的に語れないのであれば、やはりそれは無責任と言わざるを得ない。そこをどう考えているのか、論点をずらさない話を聞きたいと、真剣に思います。
ウネリ:少なくとも映画の中では「地球で最も安全な場所」は見つかっていません。ゴビ砂漠は一番有力な候補地のひとつだという話もあったけれど、はたしてうまくいくのでしょうか。映画の中で、中国のマッコンビーの仲間が「この地域には4家族しか住んでいない」と言いますが、現に人が住んでいるんですよね……。「最も安全な場所」なんて見つからないんじゃないか。仮に見つかったとしても、核のゴミを半永久的に置いておけるほど安全ではないんじゃないか。そう思ってしまいました。
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