池田澄子句集「此処」とまど・みちお「くまさん」について

ウネリ:俳人の池田澄子さんが新しい句集「此処」(朔出版)を発表しました。感銘を受ける内容だったので、今日話をしたいと思います。

ウネラさんはこの句集を読んで、まど・みちおさんの詩「くまさん」のことを思ったそうなので、そこらへんのことを中心に語っていただければと思います。

ウネラ:「此処」を読んでいて、自分の心のありようとか、自分の存在というのを、切羽詰まったものに感じて、簡単に言うと動揺しました。

ある日の夕方、少し時間をかけて読んでいたのですが、ご飯をつくったり、お風呂に入ったり、子どもを寝かしつけたり、あわただしいですから、一度句集を閉じざるを得ません。

それで夜、子どもたちが寝静まってから、また句集を開きました。何か夕方の動揺が放っておけないような感じがあったんですね。

でもその正体を突き詰めるには至らないまま、その日は眠りました。

翌朝、洗濯物を干していたら、次男と三男が見ていたテレビ番組で、まど・みちおさんの詩「くまさん」にメロディーをつけた歌が流れてきました。

うちでは家族全員が前からよく知っているお馴染みの歌です。

もともと詩の「くまさん」への思い入れが強く、以前からウネリさんとも何度も話をしてきましたね。

まどみちお「くまさん」を以下引用します。

くまさん

       まど・みちお

はるがきて めがさめて

くまさん ぼんやり かんがえた

さいているのは たんぽぽだが

ええとぼくは だれだっけ

だれだっけ

はるがきて めがさめて

くまさん ぼんやり かわにきた

みずに うつった いいかお みて

そうだ ぼくは くまだった

よかったな

冬眠から覚めたくまが自分のことを「だれだっけ」と忘れている。その後、水に映った自分の顔を見て、自分がくまだったことを思い出し「よかったな」という。

うちの子どもたちもそこが好きで、必ず最後ふふっと笑って「よかったねえ、くまさん」なんて言うんですよね。

そんな子どもたちを見ていてなんとも愛おしい気持ちになりながらも、私自身は「自分だったら『よかったな』と言えないんじゃないか」と、どうしても思ってしまう。「くまさん」を読むたび、そうやって、愛おしさと息苦しさがない交ぜのような気持ちになります。

池田さんの句集を読んだ時に感じた動揺は、その感じとよく似ているような気がしたんです。

その朝のその時、句集のことを考えていたわけではなかったのですが、ぼーっと洗濯物を干しながら、「くまさん」の歌が流れてきて、一人ではっとしました。

ウネリ:「くまさん」は僕もとても大好きな、諳んじて言える数少ない詩です。

僕の場合、そもそもウネラさんが「くまさん」をそういうふうに捉えていたということも、ある意味驚きでした。僕にとってはこの詩というのは「誕生肯定」、自分が自分として生まれてきてよかった、ということを象徴的に表す詩なのかなと思っていました。

幼い頃から読んでいたはずだけど、大人になってから、久しぶりにこの詩を詩集の中で見つけて、「ああ、これだった」と懐かしむような気持ちになりました。

大事にポケットにしまっておいたものが、ふっと見つかったというような、そんな感じ。自分の中にずっとあったんだけれども、その良さを確かめて来なかったものを再発見したという気持ちでした。

ただ、人生で本当に辛いこと、不条理なことを経験した人が「誕生肯定」というものを正面から信じられるかというと、そうではないんだろうなと。哲学者の森岡正博さんが言うような人生の「破断」というものを経験した人が、この詩に出会った時、全く違う気持ちになるんだろうなということを、ウネラさんの感想を聞いて深く考えさせられたと記憶しています。

その「くまさん」を読んだ時の心のざらつきのようなものが、池田さんの句集からも感じられたという、その共通点が非常に興味深いと思いました。たとえば句集の中のどんな句にそういう感じをもったのでしょうか。

ウネラ: ある特定の句に対して、というより、急に胸が高鳴って緊張したり、それが一気に緩んだり…といった、句集全体を通じて感じたこととして話していたのですが、そうですね…たとえばですね…

   よい風や人生の次は土筆がいい

   桜さくら指輪は指に飽きたでしょ

   こころ此処に在りて涼しや此処は何処

   そよかぜや変わりようなく君は蛇 

   隠れようなく萍に咲いている

   いっときを我は人にて冬の月

             池田澄子『此処』(朔出版) 以下、引用句は同句集より

「くまさん」について言うと、目が覚めて、自分が自分だとわかったとき、そのことを「よかったな」と言えない自分に動揺して、苦しいんだと思います。

自分が自分としてここに生きていることへの違和感や動揺というか。

ときどき無性に自分というものを脱ぎ捨てたくなったり、自分を離れていきたいと感じたりすることがあります。

池田さんの句集を読んで身に迫ってきたのは、そうした感覚だったように思います。

ウネリ:そういう気持ちは普段、日常生活の中では隠されてるものなんですか。

ウネラ:わりと私は出ちゃってると思うんですけど。

でもやっぱり「くまさん」を子どもたちと一緒に読んでいる時なんかは、にっこりして「ああ、よかった」と言って子どもたちをぎゅっと抱きしめたりするわけですよね。内心「自分は実は、そうにっこりできないんだけどな」と葛藤しつつ。でも「くまさん」の詩自体の柔らかさに、心地よさも確かに感じています。

池田さんの句集に関してもそうで、先ほどは、私にとっての「動揺」の部分、胸が詰まるように感じた句を中心にあげましたが、そうではなく、体のこわばりがふうっと緩んでいくような句がたくさんあって、実はそこにこそ「ああ素敵だな」と感じています。

   私生きてる春キャベツ嵩張る

   チューリップ雨を丸めて可愛くし

ウネラ:たとえば、私は自分の生をまるごと肯定できないことに葛藤して、その葛藤の苦しい面にばかりとらわれていくところがあるんですが、池田さんの句を読んでいると、そうではないんですね。日向の心地いい部分も、確かに捉えられているというか。 

そういう表現は、簡単にできることではないような気がします。

ウネリ: さっきの話で言うと、子どもの前で「よかったな」と心から言えないことを、ウネラさんはやはり、すべてさらけ出すことはできないかもしれない。でもそのことを内に溜め込んでいくだけでは辛い。

だから、そういう「よかったな」と言えない自分自身のことも、慈しめる機会が必ず必要なんだと思います。

ただ、自分自身と向き合おうとする時、暗がりの部分だけを集めてしまうと、苦しいですよね。綺麗なもの、可愛いらしいもの、明るいものを一緒にまぶしていかないと、自分自身を受け入れる余裕はできないんじゃないかな。ウネラさんにとって、池田さんの句集は、そうした役割を担ってくれているのかもしれない。

池田さんの句には、「破断」を経験した人、葛藤の中にいる人たちが、人生において携えていける言葉があるのかなと思います。

ウネラ:今ウネリさんの話を聞いていて思ったのですが、「くまさん」を読むたびに私は「よかったな」と思えない自分を否定的に捉えていました。「ずっと『よかったな』と思えないまま生きていくんだろうか」と思っては、それをまた「辛いな」と思ってしまっていたんですよね。

でもこれは不思議なことで、まだうまく言えないんですけど、池田さんの句集を読んでいると、「よかったな」と思えない自分のままで、まるごと生きていくことというのが、「可能」なんじゃないかと、こう、じわじわ実感として、思えてきたんですよね。

これからも、何度も水に自分の顔を映して「今度は自分じゃない顔が映るかも」と期待しては、やはり自分が自分であることにがっかりする、というようなことを繰り返して生きていくと思うんです。その合間にささやかな心地よさ、光や風を感じたりもするけれど、結局また自分が自分でしかないことに落胆する。

ただ、その繰り返しのなかを生きていけるかもなあ…と。

私にとっては、これはとても大きなことでした。

ところで、ウネリさんはどの句が印象的でしたか。前に一緒に読んでここでも書いた「ショール」や「口紅」の句も収録されていました。(参考記事:レースのカーテン

ウネリ:語り始めたら際限がなくなってしまいそうですが…

   逝きし人々木の葉時雨の光の中

でしょうか。

「此処」というこの句集のタイトル、此処という当たり前のことをタイトルにしなきゃならない、する必要性を感じている池田さんがいると思います。

「この世界」と同じくらい、もしくはもっと重く、大きな意味で、身近な存在として、「あの世界」がある。ただ自分はまだ「この世界」にいるという自覚もある。「あの世界」に憧れつつ「この世界」というところに今いるというのが、池田さんの「現在地」なのかなと考えました。

それはこの句集の冒頭の

   此の世の此処の此の部屋の冬灯

という句に結晶化されているのではないでしょうか。

大好きだった人がほとんど移ってしまった「あの世界」に憧れている池田さんは、ちょくちょく「あの世界」への窓を開けてみる。だから時々、この世界にいながらにして「あの世界」に住んでいる人びとの顔を見返すことができる。

そういう心象風景を見事に句に落とし込んだのが「逝きし人々」だと思いました 。


  池田澄子句集『此処』(朔出版)

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2件のコメント

  1. 思い掛けない日々ですね。こういう日々を生きるとは想像も出来ませんでした。   
    素敵なご夫婦、羨ましいです。また、私の俳句を読んで下さって、その上、このような感じ方をしてくださって、話し合って下さって、幸せです。有り難うございました。本当に嬉しいです。私たち夫婦も仲はよかったですけど、ウネリウネラさんのような夫婦ではなかった気がします。別々のことをしていました。羨ましいです。
    有り難うございました。           池田澄子拝

  2. 池田澄子さま
    私たちの拙い文章に、このようなあたたかい言葉を寄せていただき、本当にありがとうございます。素人の私たちのこのような語りが、作品を汚してしまうのではないかと、躊躇いがありました。
    世界を直視するのがつらいような日々です。でも一方で、人びとは言葉を希求している、渇望しているようにも思えます。少なくとも私たちはそう感じています。
    文壇の内外にかかわらず、多くの人が「言葉」に立ち止まり、言葉について忌憚なく語り合えたらいいのではないか。そんな思いもあり、池田さんの作品に心動かされたことを、なるべく飾りなく発信しました。
    いつかお目にかかれる日が来ることを楽しみにしております。
    ウネリウネラ

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