春の夜に

夕刻、駅ビルの中の小さな花屋を、長いことうろうろしていた。

祈りの花を選ぶのは、簡単ではなかった。

小さなころからずっと好きな、黄色いチューリップ。白く小さい花を可憐に揺らすかすみ草。色鮮やかなアネモネ……。

どの花も十分、私を支えてくれると感じた。

あるいは花屋を出て少し街を歩き、道端に咲く草花を摘んで、丁寧に薄紙に包んでいくほうが、真心を表せるだろうか。そんなことも思った。

すべての花が、とにかく美しかった。美しいと思えば思うほど、その美しくまばゆい花々を、手に取ってしまったとたん枯らしてしまうのではないかという、「畏れ」のような気持ちが沸き起こってきた。

時間には十分余裕があった。それをわかっているのに、改札の向こうの、発車時刻を示す電光掲示板を、何度も何度も確認した。

「本当に大丈夫かな。行けるかな」

花屋をうろつき出してから、もう30分以上が経っていた。

私は思い切って、一本の赤いガーベラの花を買った。

ガーベラの花は、好きでも、嫌いでもない。特別な思い入れのない、「洋花」の花束にはいつも入っているような、無難な赤い花を、苦し紛れに選び取った。

花弁がまだ開ききっていなかったことを、よく覚えている。

また電光掲示板を見ると、予定の電車には、まだ30分以上の時間があった。

花屋の横にあるカフェに入り、ホットコーヒーを飲んだ。味は覚えていない。

電車の時間を気にしながら、ひたすら、ツイッターのタイムラインに見入っていた。

「いま最寄り駅出ます」

「今日は体調考えて、家での参加にします」

「寒いから、無理しないで」

同じ場所を目指す、見知らぬ人たちの言葉が、もの凄い勢いで流れていた。

――もう電車に乗らなくちゃ。

2019年4月11日の夜、私はライトアップされた東京駅を背にして立っていた。手に一本の赤いガーベラの花を握りしめて。

それは「フラワーデモ」の、はじまりの日だった。

3月ごろ、ツイッター上で「性暴力と性暴力判決に抗議するスタンディング・デモ」の開催が呼びかけられていることを知った。性暴力事件に対する無罪判決が、各地で相次いでいた。

「花を持って、東京駅の御幸通りに集まりましょう」

かつて受けた性被害の問題と向き合い始めたていた私は、すぐさまデモの主催アカウントをフォローした。すると、日ごとそのアカウントに集まる人が増えていくのがわかった。

デモ当日、御幸通りには500人もの花を持った人たちが集まった。のちに「フラワーデモ」と呼ばれるようになったこのデモは、瞬く間に、全国各地に広まった。

ツイッターでこの呼びかけを見たとき、なんとしてもこのデモに参加したいという気持ちと、果たしてその場にい続けられるかという気持ちが混在していた。その気持ちの揺れは、当日、直前まで、おさまらなかった。

けれど「花を持って」というメッセージに、私は背中を押された。花という言葉に、「祈り」のようなものを感じた。

デモ数日前から、私の心はざわついていた。家の中でも、上の空だったと思う。

被害以後、家族や知人の付き添いなく不特定多数が集まる場所に長時間いることに、大きな負担を感じるようになっていた。少しずつ回復してきてはいるものの、混雑した電車に乗ることや、夜の時間帯に出歩くことは、今でも怖い。

当日、めずらしく夕方から出かけていくという私に、子どもたちは

「何しに行くの」

と尋ねてきた。

どう説明すればいいのか、はっきりとした答えが出なかった。あったことをありのまま話すには、まだ早いような気がした。

「いやなことはいやだ、って言ってくるんだ」

そんな答えを返すのが精いっぱいだった。

「いやなことって何。お母さん何されたの」

まだ小学一年生の長男が、畳みかけてくる。

「おれも行くよ。おれがお母さんにいやなことするなって言ってやる」

しばらく考えた末、こう答えた。

「ありがとう。でも、今日は自分でやってみたいの」

夕方、夫と子どもが車で最寄駅まで送ってくれた。

駅前に着き「行ってきます」と車を降りると、後部座席から子どもの声が飛んできた。

「オッケー。お母さん、ビシッと言ってくるんだぜ!」

4月にしては、とても寒い日だった。

日の暮れかかる広場に、色とりどりの花々が、ぽつぽつと絵の具のように浮かび上がっていた。

ライトアップされた東京駅の駅舎を、初めてこの目で見た。それを背に、写真撮影をしている、花嫁と花婿がいた。

花の色も、駅舎の明かりも、花嫁たちも、輪郭を失って、ぼんやりときれいだった。薄暗い水彩画の中に浸かっていくような気がした。

広場に着いてから、デモが始まるまでには、まだ時間があった。集まってきた人たちの間に立っていると、もう涙が落ちてきた。

花を持って、黙って泣いていた。

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