【傍聴記】311子ども甲状腺がん裁判

報道

《あの日は中学校の卒業式でした。

友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。》

 記者は人の話を聞くのが仕事だけれど、こんなに必死になって人の話に耳を傾けたのは、久しぶりかもしれない。プライバシー保護のため、東京地裁103号法廷の中央はパーテーションで仕切られている。その仕切りの奥から、原告の方の声が聞こえてくる。

《3月16日は高校の合格発表でした。

 地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友だちと昇降口の外でずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。》

 「311子ども甲状腺がん裁判」。東電福島第一原発の事故による放射線被ばくで甲状腺がんになったとして、当時福島県内に住んでいた原告6人が東電を訴えた。6人は当時6歳~16歳の子どもだった。11年がたち、今は17歳~28歳になっている。今年1月に提訴。この日(5月26日)が第1回目の口頭弁論だ。

午後2時の開廷から約1時間後、原告の1人による意見陳述は始まった。その声が聞こえてきた瞬間、法廷の空気は一変した。先ほどまで余裕ぶった表情で裁判に臨んでいた東電側の弁護士たちが、悄然として原告の声に耳を傾けている。

《甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。》

《私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。》

 この原稿を書いている今でも、原告の声音をはっきり思い出せる。やわらかくて、丁寧で。私は福島に住んで2年余り。数は少ないが、同じ年ごろの人たちと話したことがある。その人たちと同じ声をしている。

《医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。》

《大学に入った後、初めての定期検診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。》

 「治らなかった、悔しい」。そう言ったところで、原告の方は少し声をつまらせた。鼻をすするような声も聞こえる。それでも、陳述が止まることはなかった。声がかすれて聞き取れなくなることもなかった。この人は強い、と思った。傍聴席ではもう、みんなボロボロ涙を流していた。

《手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました。》

 この裁判の争点は初めから一つに絞られている。原発事故が起きたのは事実。6人が甲状腺がんになったのも事実。あとは、がんの原因が事故による放射線被ばくなのかどうか。被ばくとがん発症との「因果関係」が唯一最大の争点である。

 しかし、「因果関係」ならもうすでにはっきりしているのではないか。小児甲状腺がんは年間で100万人に1人か2人の希少な病気だという。それが福島県では38万人の子どもから、11年ですでに300人近くの人に小児甲状腺がんが見つかっている。この病気の第一のリスクが放射線被ばくであることも明確になっている。

 これで被ばく以外の理由が考えつくだろうか?

「私の説明は簡単ですので、どうか書面ではなく私の目を見て聞いていてください」

 原告本人が語る前、法廷では原告側代理人の中野宏典弁護士は3人の裁判官にこう語りかけた。身振り手振りをまじえて話す。

「スイッチを押したら電気がつく。もう一度押したら電気が消える。スイッチを押さなければ電気はつかない。電気がつくメカニズムが分からない子どもであっても、この因果関係は分かります。そのような常識的判断から出発してほしいと思います」

 原告の陳述に戻る。

《病気になってから、将来の夢よりも、治療を最優先してきました。治療で大学も、将来の仕事につなげようとしていた勉強も、楽しみにしていたコンサートも行けなくなり、全部諦めてしまいました。》

 私事になるが、この日の朝福島を出発する前、私はパートナーのウネラと、お世話になっている福島市内の知人を訪ねていた。原発事故が起きた時、小さなお子さんを育てていたご夫妻だ。「このあと東京に行って裁判を取材してくる」と言ったら、「午後2時開廷ですよね」「福島市内に住んでいた方もいらっしゃって……」と、裁判の成り行きにとても関心を持っていた。

「3月16日に高校の合格発表があったんですよね。私たちは怖くて、子どもには『おうちから一歩も出ないで』って話していました。そうしたら窓の外を子どもたちが傘をさして、高校の合格発表を見に行っていたんです。『大丈夫かしら』とずっと心配していて……。それがこんなことになってしまって……」

 私は勝手に、このご夫妻に送り出されたような気持ちになって、東京行きの新幹線に乗った。ご夫妻の声が、パーテーション越しに聞こえる原告の方の声とも折り重なるような気がした。

《一緒に中学や高校を卒業した友だちは、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。そんな友だちをどうしても羨望の眼差しでみてしまう。友だちを妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い》 

 ここのところで、原告の方はもう一度、声を詰まらせた。私は心の中で声援を送ることしかできなかった。

《もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。》

 原告の方はそう言って、話し終えた。約20分の意見陳述だった。

 原告側の井戸謙一弁護士が立ち上がる。

「裁判長、原告側は6人全員の意見陳述の機会を求めます。きょう陳述を行った原告は6人の代表ではありません。皆さん、ひとり一人置かれた状況はちがいます。そのことを裁判官には早期に分かっていただきたい」

 裁判長は被告側代理人に意見を求めた。東電側の弁護士が慎重に意見を述べる。

「(原告本人の意見陳述よりも)争点の整理が今後必要です。それを優先してほしいという考えではありますが……、意見陳述については裁判長のご判断にお任せします」

 閉廷後の記者会見で、井戸氏はこう話した。

「裁判所は毎回原告の意見陳述をすることには当初から消極的でした。被告代理人も反対でした。今日も明確に『反対』と言うかと思ったら、原告の意見陳述を聞いた直後でしたから、その迫力、うったえる力が大きかったので、被告代理人は『反対』とまでは言えなかったんだと私は受け止めました」

 原告の声が、東電側弁護士の耳にも届いたのか?

 私はそう信じたい。東電側の弁護士も結局は一人の人間である。一人の人間としてこの日の意見陳述を聞けば、心を動かさない者はいないはずだ。そして、この声がもっと多くの人に届けば、裁判を始めてから原告たちが浴びているという全く正当化できない誹謗中傷など生まれる余地がない。私はそう信じている。

 弁護団がきょう法廷で話してくれた原告の方の感想を記者団に伝えた。

「自分の伝えたいことは伝えることができたと思います。意見陳述の機会をもらえたことで、自分の言葉で裁判官に直接会って、意見を聞いてもらえて、よかったと思います」

(ウネリウネラ・牧内昇平)

※次回の口頭弁論は9月7日の予定。

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