誕生会

落書き帳

最近は「誕生会」というのもあまり聞かないけれど、仮定の話。

うちの子が友だちAの誕生会に誘われ、行くかどうか迷っている。
なぜ迷うのかと聞いたら、「Aがぼくのもう一人の友だちのBを嫌い、いじめていて、誕生会にも誘わないからだ」と言う。

うちの子が誕生会に行かなかったら、AはBをいじめなくなるだろうか。たぶんそんなことはない。AにはAなりのBを嫌う理屈があるのだろう。その理屈が間違っているならなおさら、「誕生を祝う会」に出席しないという行為でそれを突きつければ、Aはへそを曲げ、余計にBをいじめるのではないだろうか。

私なら子どもにこう言いたい。
Aの誕生を祝いつつ、Bも同じように誕生を祝われるべき存在であることを示すことはできないだろうか。たとえば一緒にケーキを食べながら、「お誕生日おめでとう。でも、君がBにしていることはよくない」と伝えることはできないか。
もっと奇抜なアイデアとしては、Bと一緒に誕生会に行き、どさくさに紛れてBにもAの誕生を祝わせ、AにもBを歓迎させてしまうとか。自分の誕生が祝われている場で、誰かをいじめたい人って、いるだろうか。

米国が中国の五輪で「外交的ボイコット」を行うという。すでに同盟国の中には追随する国があり、日本がどのように振舞うかが話題になっている。

政治家はしばしば、「外交的努力を最大限試みる」などと言う。
しかしシンプルに考えてみたい。
「外交的努力を最大限試みる」という言い方は、「外交的努力を最大限試みてもうまく行かなかった場合」に”他の選択肢”があることを前提としている。しかし対立が話し合いで解決しなければ、何らかの形での紛争が始まり、それは最終的には戦争につながる。現代の戦争とは、全面核戦争である。誰も人類全体の絶滅は望んでいないだろう。そうすると、私たちに現実にある選択肢は「外交的努力=話し合い」のみなのである。外交的努力に「最大限」という言葉で“限界”を設けることは、してはならない。
二者のもめごとに、特に国と国とのもめごとには、「話し合い」以外の選択肢はない。たとえ望みが薄かったとしても、話し合いを続けるほかにない。五輪の「外交的ボイコット」は、話し合いの一環と言えるのだろうか?
話し合いの枠から一歩も外れてはならない。その枠から一歩も外れないために、政府があり、政治家や外交官がいる。

12月8日という日にこのような文章を書いていること自体、現代社会の片端を生きる人間として慙愧に堪えない。

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