「良きもの」の中の性被害について

中身のある/ない雑談

(おことわり)この「雑談」の録音は12月2日午後に行いました。編集作業の途中の4日朝、公認心理士の信田さよ子さんの「ひとつの応答として」という文章をインターネット上で拝見しました。

 信田さんの文章の冒頭には、

「よきもの」とされた集団の中では、時としてさまざまな暴力が発生しがちであること、それは暴力とされず「被害」を訴える側に問題があるとされがちであること

と書いてありました。私たちの「雑談」と似た趣旨のことがすでに書かれており感銘を受けました(もしかしたら、私たちが勉強不足なだけで、信田さんは「ひとつの~」の文章の前にも同趣旨のことを書いてらっしゃるのかもしれません)。

 以下の私たちの「雑談」の中にも「良きもの」という表現が出てきます。「正義の味方」などと変えようかとも思いましたが、自分たちの言葉の引き出しの中にあるものを変えるのもどうかと思い、先にこの言葉をお使いになった信田さんに敬意を払いつつ、この「雑談」の中でも「良きもの」という表現を使わせていただきます。


ウネリ:今回は、「良きもの」のなかでの性暴力(ハラスメント)について話をしたいと思います。ここで扱う「良きもの」とは、たとえば、弱者に寄り添う活動をしていたり、権力に立ち向かおうとしていたりと、個人の人権を尊重するという理念で活動しているような組織、集団のことです。

人権感覚の鋭い人ほど、それらの集団を「良きもの」だと思い、その活動を支援するでしょう。ただ、その「良きもの」の内部でも性被害やハラスメントは起きています。最近そうした事例をしばしば見聞きします。ここでいう「被害」とは、二次、三次被害を含めての話です。今回は特定の件を掘り下げることはしませんが、今後もウネリウネラではそれらの問題を注意深く見ていきたいと思っています。

こうした「良きもの」のなかで起きる性被害、ハラスメントの被害者は、ある種の特殊な辛さを感じるのではないかと考えます。ウネラと私がいた大手新聞社も、一般には「良きもの」の一部として見られることの多い組織だったと思います。ウネラの場合は、取材先から性被害を受け、その際の会社の対応が二次被害、三次被害に該当すると、私は認識しています。

「良きもの」のなかでの性被害という問題について、思うところを教えてください。

「良きもの」による揉み消しで心が折れた

ウネラ:私は、被害を受けたことを上司に報告したところ、簡単に言えば揉み消しに近いかたちで処理されていったわけです。社会的にオープンにするかしないか以前に、加害してきた取材先に対して、きちんとしたかたちで責任を追及しなかった。会社のもみ消し行為を目の当たりにしてきたことは、私にとっては大きな二次加害でした。自分を支えていた何か、わかりやすく言葉にするとそれは「正義」とか「誠意」みたいなものだと思うんですけど、それが根元からポキッと折れてしまった。

でも自分は、新聞の社会における役割みたいなものを、なんだかんだけっこう真面目に考えていたんですよ。ただでさえいろいろ叩かれやすい会社だと思っていましたから、私が受けたことが公になることをきっかけに、新聞とかメディア全体が、歪んだかたちで非難の対象になってしまうかもしれないと思うと、怖かったんです。それは本意でないと考えていました。

ウネリ:直接の加害と同等に、会社がそれをうやむやにしてきたという二次被害にとても傷つけられたわけだね。傷ついたけど、それを告発することを躊躇ったのはなぜかというと、会社自体の社会的意義を強く意識してしまったからだと、そういうことなのかな。

ウネラ:そういうことです。

ウネリ:ウネラは、その種の葛藤にとても苦しんでいたと思います。ちょうどその頃って、安倍政権が幅を利かせて、極端な思想の人たちが跋扈していた。今もまだその渦中にあるかもしれませんが。そういう風潮が顕著になっていく中で、いわゆるリベラルな、「個」の尊厳を大切にするような言論機関が、きちんと発言力を持っていて欲しいという気持ちはウネラの中で強くなっていましたよね。

一方で、吉田調書問題とか、慰安婦報道問題とか、さまざまなことで朝日新聞の存在感は危機に瀕している時期でもあったから、そこで自分のことがオープンになったら、さらにマイナス要因になってしまうのではないかと苦悩していましたよね。愛社精神とかそういうのではなくて、言論機関や表現の危機みたいなものを感じていたのかなと、一緒に暮らしていて思いました。

ウネラ:ウネリがさっき言っていたような「安倍政権とかその周辺の極端な保守思想の人たちが跋扈している」という状況だけでも、自分はじゅうぶん日々ダメージを受けているんですけど、そういうタイミングで、一応リベラルといえるメディアの中で起こった私の問題なんかが明るみに出たら、「それ見たことか」みたいになって、正当な批判ではない部類の歪んだ非難が溢れかえるのが目に見えている。それは本意ではない、とか考えていたんですよね。

実際会社を辞めてから、被害と会社とのやり取りの一部をブログで公開したところ、公開直後からものすごい勢いで読まれました。しばらくしてようやく落ち着いてきたと思ったら、またけっこうな数のPVがあったので、どういうことなのか少し調べてみると、案の定「朝日新聞憎し」的なWeb媒体で、自分のことが取り上げられていることがわかりました。まさに不本意なことが、あっという間に起こってしまったわけです。

自分の尊厳にフォーカスできなかった

そういうことが背景にあって、結局自分個人の尊厳にフォーカスしていけなかった、自分個人の尊厳を起点に物事を考えていくのが、けっこう難しい状態だったと思うんですよね。ウネリや、相談にのってもらっていた社外の支援者の方々は「傷を受けた者として、何のためらいもなく行動していいんだ」ということを繰り返し言ってくれたのですが、それでもやっぱり私は踏み切れない。それは苦しかったですね

ウネリ:本当にその通りですね。ブログを読んでくださっている方の中には、ウネラの言っていることがあまりピンとこない人もいるかもしれません。ですが、当時のウネラは本当にそういう心境のなかにありました。もちろん、すべての被害者がそうなるかは別ですが、「良きもの」のなかで被害にあった場合、ウネラのような葛藤を抱える人は多くいると、私は思います。

そもそも被害者は個人としての尊厳を傷つけられたんだから、「もっと人の尊厳を大切にする世の中になってほしい」と切実に感じているわけです。でも「良きもの」のなかの被害者は、自分の個の尊厳を取り戻す行為が、逆に、尊厳を大切にしていこうとする社会の流れを断ち切ってしまうんじゃないかという心配をしてしまう。そう心配せざるを得ない状況に置かれてしまう、ということだと思います。

直接の被害にまず深く傷つけられ、信頼していた「良きもの」にも裏切られて二次被害を受け、さらにそれを告発すべきかどうかという段階でも立ち往生してしまう。非常に苦しい状況だと思います。

ウネラ:もう一つポイントがあります。「良きもの」の中で性被害などの人権侵害が起きた場合の周囲の対応です。

ウネリ:はい。

周囲の「見て見ぬふり」が被害者の孤立を深める

ウネラ:「良きもの」の中の人が被害を受けて、組織の中でその被害を訴えても隠ぺいなどの不当な処理をされて、結局、痛い思いをしてる被害者が力を振り絞って社会に声を上げざるを得ない、というパターンができている気がするんです。

ポイントは、その際の周囲の対応です。「良きもの」の周りには、さまざまな「仲間」がいます。「良きもの」の仲間たちは、多くの場合、やはり「良きもの」です。人権感覚の鋭い人が、個人の尊厳を守るための活動をする「良きもの」に同調し支持するのは当たり前ですよね。

被害を受けた当事者も、元々はこの「仲間」たちを信頼しています。ですので、自分が置かれた状況を分かってもらえるのではないかと考える。でも、意外にも、声を上げてもこの人たちが反応してくれないことが多いのです。

ウネリ:まず、“「個」を大切にする「集団」のなかで、「個」が抹殺される”。

そして、“「個」の大切さを掲げる第三者(仲間)が、本当の「個」ではなく、個を大切にする「集団」の側に立ってしまう”ということですね。

ウネラ:たぶん多くの「良識ある仲間たち」は、「良きもの」が無くなって欲しくない、汚れてほしくないと思うんでしょうね。「正義の味方」は当然正義でなくちゃいけない、と。そんな意識が、不正の告発を思いとどまらせているんじゃないでしょうか。結果的に中で辛い思いをしている人がいることについては、はっきり言えば認めたくない。見て見ぬふりをしてしまっている、という構図なのかなと思っています。

ウネリ:どこまで言い切れるか分からないけど、ウネラのケースも似たようなことがあったのではないかと思います。ご理解いただけそうな社外の方に被害のことを話すと、「あの朝日新聞でも、そんな対応なんですか?」という反応をいただくことがしばしばあります。「少なくとも朝日新聞では、そういうことは起こってほしくない」、「にわかには信じがたい」という感じです。そういう反応をされると、当事者としては辛いですよね。

ウネラ:こっちが間違ってんのかな、という気持ちになってしまいます。

あれをやられると、被害者の孤立感はとても深まります。自分が黙ればいいのかな、自分がいなくなれば全てが丸く収まるのかな、という気になってしまいます。ネットなどで見聞きする事例は、被害の内容は様々なんですが、この点にはすごく被害者の方に共感する部分が自分はあるなと。

「良きもの」の中で軽んじられる「個」の尊厳

ウネリ:「良きもの」の仲間たちが、「良きもの」の事業は全力で応援するけれども、中で苦しんでいる被害者の声には耳を傾けない。それは結局、天秤にかけてるんだと思います。この「良きもの」の存在を支えることは、多くの人の尊厳を守ることにつながる。でも、被害者個人の尊厳は一人分である。「多くの人の尊厳」と「個人の尊厳」とを秤にかけて、前者に重きを置いているから、こういう行動パターンになるのだと思います。

それは決して肯定されるべきではない。個人の尊厳というのは、多くの人の尊厳と同等の重みがあります。だからその二つを比べてこっち側に立つという発想を、私は少なくとも受け入れません。

あともう一つ言いたいのは、「良きもの」のほうに一種の甘えがあるということです。自分達は良いことをやっているから、多少内部でおかしなことがあっても大目に見てもらえるのではないか。そういうふうに思っている節があります。自分たちが被害者の声に目をつむっていれば、仲間たちもこの問題に関与してこないだろうという甘えがあるのではないか。それが組織としてのガバナンスを緩め、被害への対応を不十分にし、結果的に被害者を苦しめるのだと思います。

今日は最近インターネットなどで見聞きしている性被害やハラスメントの事例をもとに、自分たちの経験も思い返しながら考えたことを話してみました。繰り返しになるけれども、いわゆる「良きもの」の中で被害を受けた方が、いかに声を上げづらいか、孤立した気持ちになるかということを少しでも知ってもらいたいと思ったのです。では、どうしたらいいのか。

ウネラ:今もずっと堂々巡りで考えてる事なんですが、なぜ是々非々で考えられないのか、ということです。自分が支持している組織の中での不正には目をつむってしまう社会とは一体何なのか。そこを改めていかないと。総体としては存在意義がある「良きもの」だとしても、その中に悪いことが発生したら「それは悪い」ときちんと批判しなければならないと思います。その時に一番大切にされるべきなのは、やっぱり被害にあった人の気持ちです。その人の気持ちが大切にされた上で、検証が行われていくべきです。

ウネリ:どんな組織にもいい面と悪い面がある。「いいこと」をやっている組織の中でも「悪いこと」は発生するんだってことをちゃんと理解しなきゃいけないし、それが発生した場合に是が非でも組織自体を守ろうとする必要はないんだという気がします。その組織が本来やっている「いいこと」は社会の中できちんと保存されるべきだけど、それを新しい別の組織がやってもいいわけです。「いいこと」自体が残ればよくて、「悪いこと」を起こした組織自体はそれ相応の責任をとる必要があると思います。




コメント

  1. eeljapan より:

    こちらに書かれた内容、とても共感します。人権擁護を目指すNGOで働いていますが、そういう人権擁護団体でもスタッフの人権侵害が頻繁に起こることは最近とみに注目と批判を集めています。そういう団体だからこそ、内部告発と自己管理を啓発するガバナンスをしっかり作っていないといけないんですけど、おもてに出る情報を見る限りではまだまだそういう動きは始まったばかり、という感じです。

    • uneriunera より:

      eeljapan様

      コメントありがとうございます。
      この問題については、今後ももっと掘り下げて考えていきたいと思っています。
      eeljapanさんご指摘の通り、現状では、内部告発をされる方が心身ともにボロボロになってしまうケースがあまりにも多いと感じます。
      組織体としてやっている「良きこと」のイメージを守りたいという力が働いてしまったり、組織内部で一部の人たちが過度な尊敬や社会的評価を受けてしまうことなど、特殊な問題点がさまざまに絡み合っているように思えます。
      「良いことをしている自分たちは、すなわち良いものだ」と過信してしまう構図が、そこにあるような気がしています。
      どうしたアプローチをすれば、このような現状が打開できるのか、模索しています。
      今後も一緒に考えていただけたらうれしいです。またご意見を聞かせてください。

      ウネラ

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  3. […] ウネラ 東京シューレは「こども主体」とか、「こどもを守る」とかいうことを標榜しています。団体の評判に傷をつけるような事案をオープンにしてしまったら、「こどもたちの行き場がなくなる」という風に考えているのかもしれません。でも、それは間違っていると思います。前にも「『良きもの』の中の性被害について」という文章で書きましたが、そういう場所は必要だけど、その場所が「東京シューレ」でなければならない理由は何一つありません。それなのに、多くの人たちがこのシューレという組織と責任者である奥地氏を守ろうとする。組織内の事件で深い傷を負った厳然たる被害者がいるのに、被害者ではなく組織のほうを守ろうとする流れには、憤りを覚えます。 […]

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