新潟市庁舎3階の特別応接室。北東側は壁一面がガラス張りで、80万の人口を擁する同市の中心部を見渡すことができる。市庁舎のすぐそばには信濃川が流れ、2キロほど下れば日本海につながり、佐渡島などへ向かうフェリーが行き来している。
室内の調度品は明るい茶色に統一されている。中央に正方形のテーブルが1台、テーブルをはさんで窓側と廊下側に肘掛椅子が2脚ずつ。
3月30日午後4時半、眼下の町並みが黄金色に染まりはじめた頃、中原八一市長がこの部屋に姿を見せた。中原氏は窓側の椅子を客のために空け、自身は廊下側の椅子の前に立った。着席せず、直立不動のまま客を待つ。黒のスーツに濃紺のネクタイ。両手を体の前で組み、背筋を伸ばして窓外の風景に目をやる。客がやってくるまで数分の間があったが、中原氏は一度も姿勢を崩さなかった。
水道局のK総務課長に伴われ、Mさんが部屋に入ってきた。Mさんの半歩うしろを娘の希美さん(仮名)がついていく。うつむきながら歩くMさんの背中を支えるかのようだ。案内したK氏は出入り口のそばに立ち、存在感を消す。毛足の長いじゅうたんが母子の足音を吸いこむ。2人が窓側の肘掛椅子の前までくると、中原氏が口を開いた。
「市長の中原でございます。本日は大変お忙しいところご足労いただきまして、申し訳ございません。ありがとうございます。どうぞおかけください」
Mさんと希美さんが着席する。手に持っていた写真立てをテーブルに置き、Mさんが言う。「すみません。うちの夫を見ていただきたくて、遺影を持ってまいりました」。写真立ての中では背広姿の男性がやさしくほほえんでいる。
「はい。お参りさせていただきます」
中原氏はそう言って目をつむり、遺影に向かって両手を合わせた。1秒、2秒、3秒……。10秒ほどたって合掌をやめると、Mさんと希美さんに話しかけた。
「それでは、最初に私の方から、謝罪を申し上げさせていただきます」
立ち上がり、用意していた白い封筒から手紙を取り出した。
「判決の確定に至るまで長期を要したことにつきまして、深くお詫びを申し上げます。平成19年、水道局は困難な業務を担当していただくにあたり、係長らが業務の進捗状況を積極的に確認し、進捗が思わしくない部分については、必要な業務指導を行うか、または、積極的に質問しやすい環境等を構築すべきところ、その注意義務を怠った過失がありました・・・」
中原氏が新潟市長に就任したのは2018年11月のことである。男性が亡くなってから7年が経った頃だ。個人としての中原氏は当時、男性の死を防げる立場にはなかった。それでも「新潟市」という組織を代表してトップが謝るのは、遺族にとって大きな意義がある。Mさんと希美さんは座ったまま、中原氏が手紙を読み上げるのを聞いた。
「大切な職員を亡くしたことは、新潟市としても大きな痛手であり、私としても痛恨の極みです。●●さんのご遺志とご遺族のお気持ちを受け止め、この事件を教訓とし、再発防止を徹底するとともに、事件を風化させることなく、風通しの良い職場環境づくりを進めるため、今後もたゆまぬ努力を続けてまいります」
読み終えた中原氏は手紙を白い封筒に戻した。テーブルを回って遺族の席のほうへいき、封筒をMさんに手渡す。「このたびは本当に申し訳ありませんでした」。そう語り、Mさんと希美さんに向かって、深々と頭を下げた。
ーー男性の十七回忌を目前に控えて、市政トップが遺族に対して、ようやく謝った。
◇ ◇ ◇
長年待ちわび、求め続けてきた市長の謝罪だった。しかし、それが実現しても遺族の気持ちは晴れない。約15分間の面談を終えたMさんと希美さんは、別室で水道局職員と今後について話した。水道局との話し合いを終えたあと、報道陣の取材を受けた。テレビ局の集音マイクが一斉に二人に向かって伸びる。Mさんが語る。手には今も男性の遺影を持っている。
「市長には真摯に事件を受けとめていただいたと感じました。だけど……」
Mさんは下を向き、苦しそうに一つひとつの言葉をしぼり出していった。隣に立つ希美さんは、そんな母を心配そうに見守っていた。Mさんは続けた。
「水道局のK総務課長は今日の話し合いの中で何度も『区切り』という言葉を使いました。だけど、このような謝罪の場をもったことだけで『区切り』というのは……。遺族としては丸めこまれておしまいになってしまうんじゃないかと、すごく不安を感じているところです。この謝罪をもって区切りではなくて、やはり水道局がまずは真摯に反省して、それを一つの区切りとすべきだと思うんです。反省のないところに形式的な謝罪、そして適当な再発防止策を講じましょうと言われても、私は納得できません」
◇ ◇ ◇
2007年5月8日、新潟市水道局に勤めていた男性(当時38)が自ら命を絶った。「いじめが続く以上生きていけない」という遺書と共に。水道局は当初からいじめ・パワハラを否定。第三者による審査で「公務災害」が認められても否認の姿勢を崩さず、遺族への損害賠償を拒んだ。遺族はやむを得ず提訴。2022年11月24日、新潟地裁は水道局(新潟市)の賠償責任を認める判決を言い渡した。翌12月に遺族の勝訴判決は確定し、裁判は終わった。その時、遺族のMさんは語った。
「もう争いごとは終わりました。これからは水道局と一緒に歩んでいきたいのです」
それからおよそ半年。水道局と遺族の歩みは、部分的には「息が合ってきた」と言えそうだ。しかし課題は山積している。肝心なところで水道局は遺族の気持ちをきちんと受けとめていない。両者の関係性が再生される日は来るのか。数回に分けて書く。(文・写真/ウネリウネラ牧内昇平)
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