1月1日の能登半島地震から約1か月がたちました。亡くなった方々の冥福を祈ると同時に、避難所などで健康を損なう人がこれ以上増えないことを切に願います。
今回の大地震は日本列島全体が原子力災害のリスクにさらされていることを改めて突きつけたと思います。北陸電力志賀原発は運転停止中だったにもかかわらず、トラブル続発中です。もしも運転中だったら……大変な事故が起きていたかもしれません。
また、今回の地震の震源地である奥能登の珠洲市にも、かつて原発の建設計画がありました。もし珠洲に原発が立っていたら……考えるだけでもゾッとします。
珠洲原発の計画は市民の反対運動で中止になりました。その時のリーダーの一人だった北野進さんは現在、志賀原発運転差し止め訴訟の原告団長を務めています。筆者は先月下旬、北野さんにインタビューを行いました。志賀原発のことを中心に聞いています。福島の雑誌「政経東北」2月号に掲載されましたので、詳細はぜひ雑誌でお読みください。本サイトでは記事に載せなかった部分を少し紹介します。(牧内昇平)
震源地は原発予定地の”裏山”
――1月1日はどちらにいましたか?
昼までは珠洲の自宅で過ごしていました。午後から親族と会うために金沢方面へ出かけていまして、能登半島を出たところにある、かほく市のショッピングセンターで買い物中に、大きな揺れを感じました。すぐ停電になり、屋外に誘導された頃に大津波警報が出て、今度は屋上へ避難しました。そのまま珠洲の自宅には戻らず、金沢の親戚宅で避難生活を始めました。自宅の様子を見に行ったのは1月5日になってからです。
――5日に戻った時、珠洲の状況はどうでしたか?
道路状況がかなり改善されたと聞いたので帰ったのですが、大変でした。金沢から珠洲まで普段なら片道2時間で行けますが、行きは6時間、帰りは7時間かかりました。道路のあちこちに陥没や亀裂、隆起がありました。片側通行ばかりで渋滞が発生しますし、そもそも危なくてスピードを出せませんでした。自宅は内陸部なので津波の被害はありませんでしたが、家具が倒れ、ガラスが割れるといった被害はありました。周りには倒壊してしまっている家もたくさんありました。停電や断水が続いているため、貴重品や衣類だけ持ち出して金沢に戻りました。今も金沢で避難生活を続けながら、ときどき珠洲に帰り、自宅の片付けを進めています。
――地域の活断層について知識があった北野さんは以前から大地震を警戒していたと思います。
そうですね。地震の直後に震源が奥能登のほうだと知り、「ついに来たか」という思いでした。能登半島の北方沖の活断層が動いたのは間違いない。そうすると少なくともマグニチュード7以上の地震は覚悟しなければならない。残念ながら珠洲は壊滅状態だろうと。あそこに原発が立たなくて本当によかったと思いました。後で分かったのですが、最大だった午後4時10分の地震の震源は珠洲原発の建設予定地のすぐそばでした。もし原発が立っていたら、その裏山に当たるような場所です。本当に恐ろしい話です。
志賀の再稼働なんて、とんでもない
――志賀原発もトラブル続きです。もちろんまだ油断できませんが、辛うじて深刻な原子力災害を免れたんだなという印象です。
とにかく一番心配なのは、今回の大地震が打ち止めなのかということです。昨年の5月5日に珠洲で震度6強を観測する地震があったように、奥能登ではこれまでも群発地震が続いてきました。これらの群発地震が引き金を引いて、今回大きな断層が動いたのだろうというのが大体の専門家の捉え方です。今回これだけ大きな断層が動いたのだから、他の断層にもひずみを与えているんじゃないかっていうことですよね。同じ断層については今回の地震でエネルギーが放出されたので大きく動くことはないとは思うんです。でも、周りにもまだいっぱい大きな活断層がありますから、そこへの影響はどうなのか。次なる大地震のカウントダウンがもう始まっているんじゃないのかっていうのが、一番怖い。
とにかく能登半島周辺は陸も海も活断層だらけです。次はもっと原発に近い活断層が動く可能性もあります。能登の住民の一人として、「今回が最後であってほしい」という気持ちはあります。しかし、やっぱり警戒しなければいけません。そういう意味でも、志賀原発の再稼働なんて尚更とんでもないということです。
珠洲原発反対、住民運動のポイントは?
――珠洲原発の反対運動のことを教えてください。30年近い運動の結果、電力会社に計画を断念させました。ポイントは何だったでしょうか?
ターニングポイントの一つは1989年の市長選だったと思います。少しさかのぼって話すと、珠洲原発の計画が公になったのは1970年代でした。関西電力・中部電力・北陸電力が3社共同で建設するという計画でしたが、実は電力会社の熱意はそれほどでもありませんでした。北電は能登原発(現在の志賀原発)の計画が先行していたし、中電は浜岡原発(静岡)を抱え、芦浜(三重)の計画もありました。関電は若狭湾(福井)がメーンで日高・日置川(和歌山)にも計画がありました。珠洲はどちらかと言えば「抑え」みたいなところで、むしろ地元の珠洲市から電力会社にラブコールを送っていた状態だったんです。
そんな中でいよいよ計画に現実味が出てきたのが1988年のことです。関電が高屋地区で立地可能性調査を始めると言い出しました。そこで翌1989年の市長選に私が立候補しました。告示の直前にもう1人原発反対を言って立候補した人もいました。結果的には推進派の現職が当選したのですが、私ともう1人の原発反対派の得票を合計すると、なんと当選した市長の票を440票上回ったんです。
これは大きかったです。市長選の前まで、地元は「原発反対なんて言っているのはごく一部の住民だ」という雰囲気でした。推進派の人たちは「反対する者は珠洲市民じゃない」って言うくらいでした。でも、ふたを開けてみたら「反対」の人が半分以上いたんです。これが市民の皆さんを勇気づけました。それまでは内心「原発反対」と思っていても、なかなか声を上げづらかったわけです。でも、実は半分以上の人が自分と同じ思いだったということになると、やっぱり元気が出ますよね。
「原発は民主主義のない地域を狙ってくる」
――北野さんは以前、著書に〈原発は民主主義のない地域を狙ってくる。民主的手続きを経て建てられた原発など全国で一基も存在しない〉と書いていました。その言葉が印象的でした。
後から理屈をこねたようなところがちょっとありますけど(笑)。そうですね。市長選で「原発反対」が半数以上だったにもかかわらず、関電はその後、立地可能性調査を進めようとしました。僕らとしてはとんでもない話です。そこで高屋地区に行って阻止行動をやったり、市役所の会議室で40日間の座り込みをやったりしました。会議室で市長と交渉していたら、市長が「関電と話し合ってくる」という言葉を残して部屋を出たきり、雲隠れしてしまったのです。仕方ないので、市民が交代で会議室に座り込みました。
そういう運動の合い間、時間があるのでみんなで話をします。政治の話になることもありました。他の地域と同じように、珠洲市内にはいわゆる地域代表的な市議会議員がいました。「そういえばあの人は原発についてどう考えているんだ」と話題になり、次に会う時までに調べてきた人が「あの議員は市議選で原発賛成の公約を書いていたぞ」とみんなに話して……。それまではみんな、公約など読まずに名前だけ書いていたわけです。そういうことを反省して、「ちゃんと公約を確認してから投票しなきゃ駄目だよね」という話になりました。
原発反対の運動が政治の話をするきっかけにもなったのですね。
民主主義の基本中の基本ですけど、1票の大切さみたいなのを皆さんが実感していったプロセスでした。座り込みをしながらの雑談でそんな話になったんです。誰かが教えを授けたとか、そういうことでは全くありません。日々の阻止行動の合い間で自然にそういう流れになっていきました。自然と民主主義が鍛えられていったのだと思います。
1989年の市長選後、私は県議会議員に当選し、県議として原発阻止に注力してきました。珠洲市議会では、ピーク時は議員定数18人のうち6人、原発反対の議員をつくることができました。住民運動と議会の取り組みをうまく組み合わせることができたのが大きかったと思います。あと、住民運動と労働運動がうまく噛み合ったという側面もあったと思います。
●プロフィール きたの・すすむ。1959年、珠洲郡内浦町(現・能登町)生まれ。筑波大学を卒業後、民間企業に就職したが、有機農業を始めるために脱サラして地元に戻った。1989年、原発反対をかかげて珠洲市長選に立候補するも落選。91年から石川県議会議員を3期務め、珠洲原発建設を阻止し続けた。「志賀原発を廃炉に!」訴訟の原告団長を務める。
北野さん、避難中で大変な中、本当にありがとうございました!政経東北については以下のサイトからご参照ください。
また、能登半島地震については韓国の京郷新聞にも寄稿していますので、よろしければ読んでみてください。
コメント
大変、勉強になりました。民主主義のだいじさがよくわかります。なぜ市長選挙で、候補者を一人にできなかったのか、が残念でした。内容が知りたいです。