長田弘「詩ふたつ」

折にふれ開く、美しい詩画集です。

長田弘の詩と、クリムトの絵が、共鳴しているというのでしょうか。

30代前半に買った本ですが、年を取るにつれて、開くことが多くなりそうな、そんな本です。


かしこまった追悼のための「式」がほしいわけではない。

大勢の人が一堂に会する必要もないと思っている。

むしろ、形式はどうでもよい。

ただ、誠実な追悼の「言葉」がほしい。

真心をこめて、死者を悼みたい。

そんなことを考えていて、また長田弘の詩を読み返していました。

上の記事にも関連して、言葉、詩、メッセージ、対話の大切さを、考えています。

長田弘「詩ふたつ」の一部を紹介します。

クリムトの絵と対になった愛蔵版は、宝物です。

「花を持って、会いにゆく」

どこにもいない?

違うと、なくなった人は言う

どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。

いつも、ここにいる。

歩くことは、しなくなった。

   〈中略〉

死ではなく、その人が

じぶんのなかにのこしていった

確かな記憶を、わたしは信じる。

ことばって、何だと思う?

けっしてことばにできない思いが、

ここにあると指さすのが、ことばだ。 

「人生は森の中の一日」

何もないところに、

木を一本、わたしは植えた。

それが世界のはじまりだった。 

   〈中略〉 

森の木がおおきくなると、

おおきくなったのは、

沈黙だった。

沈黙は、

森を充たす

空気のことばだ。

森のなかでは、

すべてがことばだ。

ことばでないものはなかった。 

   〈中略〉

森には、何一つ、

余分なものがない。

何一つ、むだなものがない。 

人生も、おなじだ。

何一つ、余分なものがない。

むだなものがない、

   〈中略〉 

わたしたちが死んで、

わたしたちの森の木が

天を突くほど、大きくなったら、

大きくなった木の下で会おう。

わたしは新鮮な苺をもってゆく。

きみは悲しみをもたずにきてくれ。

そのとき、ふりかえって

人生は森のなかの一日のようだったと

言えたら、わたしはうれしい。


首相式辞のなかには少なくとも

けっしてことばにできない思い

がないので

(それを)ここにあると指さすことば

もないのではないでしょうか。

からっぽ。

なんか、からっぽって言葉が頭を旋回しています。

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