子どもたちを放射線被ばくから守る権利を求めた「子ども脱被ばく裁判」は5月18日、仙台高裁で控訴審の第3回口頭弁論が開かれた。原告の一人、福島市に住む女性が、原発事故後、2人の子どもと歩んできた日々をふりかえり、法廷で陳述した。(ウネリウネラ・牧内昇平)
福島市在住の女性Aさんの意見陳述
Aさんは神経の病気であるギラン・バレー症候群を患っている。開廷前、「緊張で手足のしびれが強くなっています」と話していた。自分の意見陳述の番になると、右手で杖をつきながら、左手で陳述書を握り、裁判官を見すえて語った。
私は福島市内で、大学1年生の長男と高校1年生の次男と母と、4人で生活しています。原発事故前からギラン・バレー症候群に罹患していましたが、事故後悪化し、杖を手放せなくなりました。また、事故から1年が経過した頃から急性貧血になり、昼過ぎまで布団から起き上がることができない状況が続きました。その頃、母も精神的に不安定になり、定期的にカウンセリングに連れて行かなければならず、大変でした。
Aさんはシングルマザーだ。病気のため定期的に通院し、障害年金を受給しながら、障害者の就労支援事業所で働いている。Aさんの母も高齢で働けなくなり、生活は苦しい。だが、Aさんが一番心配しているのは、お金のことではなく、子どもの健康のことだ。
事故前、子どもたちは元気でした。ところが、事故後しばらくしてから異常な鼻血を出したり、体中に発疹が出るようになりました。元気がなくなり、食が細くなりました。特に次男はひどく、皮膚病になったり、口の端が切れて食べ物が食べられなくなったりもしました。長男は少しずつ元気になっていきましたが、次男は今も体調に不安が残ります。
時折涙で声をかすれさせながら、Aさんは大きな声で陳述書を読み上げた。閉廷後に話を聞くと「右の裁判官はよくこっちを見てくれていましたね」と答えてくれた。つらい経験を法廷で読み上げるという重圧のなか、壇上に座る裁判官3人をしっかりと正視していたのだ。
私は、息子たち、とりわけ次男の体調不良は、被ばくが原因だと思っています。事故前は病気と縁がなく、本当に元気な子どもだったのです。私は、避難しようとしてできませんでした。息子たちに申し訳ない思いでいっぱいです。
Aさんは原発事故後、新潟県に避難しようとした。しかし、転校しようとした小学校の校長から「福島から来たと言わないでほしい」と言われた。入居予定だった家の大家からは「あなたが来たら引っ越したいと言っている人がいる」と言われた。怒りを感じ、避難できなくなった。定期的に子どもたちを保養に連れて行ったが、「子どもに申し訳ない」という気持ちは消えない。
(原告敗訴の)一審判決を聞いた時、私はあり得ないと思いました。裁判所は何もしてくれないのだと思い、落胆しました。よく「子どもは宝物だ」などというけれど、それは口先だけのことでしょうか。子どもは何も言えません。大人に振り回されながら耐えています。大人が子どもを守らなければ、子どもの未来はありません。
Aさんがため続けてきた感情を、筆者はわずかばかりでも感じ取ることができた気がする。「怒り」と「苦労」と「不安」に満ちた11年と2か月だったと思う。
しかし、そんなAさんに育てられた子どもたちは、決して「不幸」ではないと筆者は確信している。Aさんは困難な条件の中で、子どもたちを最大限守ろうと、必死に生きてきたのだ。それを子どもたちは知っているはずだ。
次男が中学を卒業する時、私に手紙をくれました。それには、「ママは、僕たちのために、どんな時も頑張ってくれている。迷惑をかけるけど、これからもよろしくお願いします」と書いてありました。私の宝物です。
子どもたちは、自分たちを懸命に守ろうとしてくれる大人たちの背中を見つめ、誇りに思っている。
「子ども脱被ばく裁判」は、原発事故当時福島に住んでいた親子たちが、国や福島県などを訴えた裁判だ。被ばくを避ける措置を怠り、子どもたちに無用な被ばくをさせた責任などを追及している。
次回の口頭弁論は9月12日に開かれる。
コメント