「復興」という言葉について

 今年1月、筆者ウネリは福島市内の高校で話をしました。「3・11とメディア」という、私にとっては大きすぎるテーマでした。予想通りシドロモドロ、要領を得ない話になってしまいましたが、なんとか合計2コマ分の授業を乗り切ることができました。

 2月に入って、その時話を聞いてくれた生徒の一人から、担当教諭を経由して質問をもらいました。

「福島もしくは東北の復興は進んでいると思いますか? それはどのような点においてそう思いますか? 『復興』という言葉の定義について、朝日新聞時代のままの定義をお考えですか? それとも自分で再定義していますか? 牧内さんにとっての『復興』とは何か教えて下さい。」

 という質問でした。私なりに考え、ウネラとも議論して返答を書いてみたところ、思わぬ長文になってしまっていました。皆さまにも読んでもらいたく、サイトにアップすることにしました。


ウネリウネラから高校の生徒への回答

 こんにちは。元新聞記者で、夫婦物書きユニット「ウネリウネラ」の牧内昇平です。先日の授業、「3・11とメディア」に参加してくれた方、ありがとうございました。

 「復興」という言葉をどう考えるか、ご質問をいただきました。せっかくの機会なので、この言葉について私がふだん考えていることを書いてみたいと思います。


①「復興」という言葉に私が抱くイメージ

 まず、私は「復興」という言葉を使いません。新聞記者時代を含めて、自分の原稿に「復興」と書かかないようにしています。会話の中でもこの言葉は使いません。

 テレビや新聞では、「復興は進んだのか?」というふうな特集をよく見かけます。中身を見ると、たいていは「廃炉の進捗」「帰還困難区域の現状」「被災地の雇用」などなど。これらはすべて重要なテーマです。個別具体的に検証したほうがいいと思います。「復興」というあいまいな言葉を使う必要はありませんし、こういう言葉でひっくるめるべきではないと思います。

 「復興」という言葉はあいまいです。あいまいだからこそ、余計なイメージがついてきます。どんなイメージでしょうか? 実際に使われている事例を考えてみましょう。

「被災地の復興なくして日本の復興なし」

「東京オリンピックは復興五輪だ」

「これから必要なのは『心の復興』だ」

「元に戻す『復旧』ではなく、もっとよくする『復興』をめざそう」

「復興をめざして、前を向こう!」

 こんな言い回しがよく使われていると思います。なんとなく一定方向のイメージを感じませんか? 「復興」という言葉が与えるイメージを私なりにまとめると、以下のようになります。

“傷つけられ、奪われた大切なものが「元に戻る」だけでなく、「もっとよくなる」。それによって、つらい経験を「なかったことにできる」。「前を向こう」”

 こういう状態が実現できるのならば、「復興」と言っていいでしょう。私も「こうなったらいいな」と思います。でも、これって実現可能でしょうか?


②「もっとよくなる」「なかったことにできる」について

 一般的な「被害」について考えてみたいと思います。

 時計の針をぐっと巻き戻し、皆さんが小さな子どもだった頃のことを思いだしてください。(ものごとをシンプルに考えるために、私たちウネリウネラはしばしば「子どもの目線で考える」という試みをします。)

 あなたには、赤ちゃんの頃から遊んでいた大切なおもちゃがあります。ある日突然、そのおもちゃを友だちに壊されてしまいました。友だちは「もっといいおもちゃ、高級なおもちゃを持っている」と言って、それをあなたにくれました――。

 こういう状況を想像してみてください。

 さて、あなたはこれで本当に、「もっとよくなる」「なかったことにできる」と感じるでしょうか? 少なくとも私はそう感じません。私にとって大切なのは、長く同じ時間を過ごし、たくさんの思い出がつまったおもちゃだからです。私にとってそのおもちゃはオンリーワンの存在です。いくら新品や高級品を買い与えられても、オンリーワンの存在に取って代わることはできません。

 おもちゃくらいなら、まだあきらめることができるかもしれません。しかし、自分にとってもっと「かけがえのない大事なもの」だったら、どうでしょうか? 殺人はもちろん、暴行、虐待、性暴力。世の中にはいろんな事件があり、被害者がいます。被害者たちはかけがえのない大事な人生を奪われ、傷つけられた経験をしています。どのくらい時間がたっても、どんな謝罪や補償を受けたとしても、「もっとよくなる」「なかったことにできる」と感じるのは難しいのではないか。私はそう考えています。

 ですから、あらゆる事件事故の被害者たちは、一生のあいだ、そのことへの「怒り」「憤り」「悲しみ」「苦しみ」を表明していいのだ。むしろそうするのが自然だと、私は考えています。(※そして加害者(傍観者も含めて)は一生のあいだ、被害者のその訴えを真摯に聞くしかないと思います。被害者が「なかったことにできる」日は来ないことを前提に、それでもそれに向かって努力を続けることが大切です。いったん被害が生じてしまった以上、「こっちだってここまで対応したんだから被害者はもう黙っておけ」という理屈は通用しません。)

 原発事故も同じことではないでしょうか。放射性物質に汚染された空気や土地は、「元に戻る」、「もっとよくなる」ことなんてあるでしょうか。仮に完璧に除染できたとしても、「いちど汚された」という事実は、永遠に消えないのではないでしょうか。それは、つらい経験・記憶でしょう。


③「前を向こう!」について

 「前を向く」ということについては、「そうできる人はそうすればいいけど、そういう気持ちになれない人にそれを強いてはいけない」というのが私の考えです。

 下線を引いた部分が重要だと思っています。要するに、自分が心から「前を向く!」と決意できる人はそれでいい。でも、まわりの人に「前を向こう!」と押しつけてはいけない。そう思います。そして「復興」という言葉には、「前を向こう!」と似たニュアンスが含まれているのではないかと、私は考えています。

 「復興」って、ある意味「いい言葉」ですよね?

もっとよくなる。なかったことにできる。前を向く――。

 最初に書いた通り、私だって「そうなれたらいいな」とは思います。「そうなれたらいいな」ということについて、人は反対しづらいです。「うるせえ!ふざけんな!」と言いにくい。そんなことを言ったら、「悪い人、みんなの邪魔をする人」と思われてしまいそうですから。だから「復興」の名のもとに行われることは、大多数の賛成を得やすくなります。

 とりあえずこう言っておけば問題ない。波風が立たない。「復興」とは、そういう耳ざわりのよい言葉です。この「耳ざわりのよさ」が実は危ないと思っています。

 耳ざわりがよいために、みんながたいして考えず、この言葉を使ってしまう。どんな行事でも「復興応援!」みたいなタイトルがつく。そうやって言葉が急速に普及していくうちに、「なかったことにできない」「前を向きたくない」と考えている人たちが、自分の思いを言いにくくなってしまう。みんながみんな、「前を向く」ことを強いられるような雰囲気(一種のイリュージョン)が作り上げられてしまう。そういうことを私は心配しています。

“もっとよくなる。なかったことにできる” →これは実現できる。

”前を向こう!“ →こういう姿勢でみんなが努力しなければならない。

 というイリュージョンです。


④なぜ「復興」という言葉が使われるのか?

 ではなぜ、政治や行政、あるいは大人社会は、「復興」「復興」と言うのでしょうか?

 私は「この言葉を使うと楽だから」なのだと思っています。直面しなければならない問題の本質を隠せるからです。問題の本質とは何かと言えば、ずっと書いている通り、「原発事故は取り返しのつかない被害であり、償いようがない大変なことだ」という事実です。

 被害者にこのことを思いだされると、世の中はいろんなことがやりづらくなります。先ほど、「加害者(傍観者も含めて)は一生のあいだ、被害者の訴えを真摯に聞く責任がある」と書きました。原発事故の加害者はある意味では日本社会全体なのですから、社会全体がその責任を果たすことを迫られます。その責任を果たすのは大変です。「浪江町の津島地区のような山の中を除染するにはどうしたらいいのか」とか、「全国に残っている原発をどうしたらいいのか」とか、「東電敷地内にある”汚染水”や”処理途上水”などと言われている液体をどうするか」とか、未解決のテーマに一定の結論を下す場合、被害者の声をもっと重視する必要に迫られます。

 そういうことがめんどくさいから、楽をしたいから、「復興」というイリュージョンを利用しているのではないか。被害者を当面黙らせておくために使っているのではないか。私はそう考えています。


⑤メディアの役割

 先日の授業のテーマは「3・11とメディア」でした。それに関連して言うならば、こうしたイリュージョンをひっぺがす役割を担っているのが、ジャーナリストやマスメディアだと思います。「耳ざわりのよい言葉」をあえて使わず、政治や大人社会が隠しておきたい「本質」を可視化する、ということです。でも、実際には「復興をめざして」とか「本当の復興とは?」とか言っているテレビや新聞が多いですよね。むしろマスメディアが率先して、「耳ざわりのよい言葉」に安住しているような気がします。「復興」という言葉を軽々しく使っているかどうかは、そのメディアの良心を量る指標の一つだと思っています。

 私がふだん試みていることは二つです。

 その一は、「復興」という言葉を使わないこと。その二は、この言葉と出くわしたら警戒し、中身を見きわめること。

 この文章の初めのほうで書きましたが、「復興」という言葉はそもそもあいまいです。ニュースや新聞、もしくは人の話にこの言葉が出てきたら、それが具体的に何を指しているのかを考えたほうがいいと思います。

 行政に「復興推進本部」などという名前の部署ができた時、具体的には、被災地のインフラ整備(堤防作りとか)だったり、企業誘致だったり、移住促進だったり、が多いですよね。ならばもともと、「復興推進本部」ではなく、「スーパー堤防建設本部」とか、「企業誘致促進本部」とか、そういう名前をつけたほうがいいです。そういうふうに自分で名づければいいのです。行政が「復興」という言葉を使っていたとしても、それに合わせる必要はありません。「言い換え作業」です。「耳ざわりのよい言葉」がなくなれば、ものの本質が見えてきて、反対意見も言いやすくなります。少なくとも、自分がイリュージョンを広める役割を担わなくて済みます。


⑥最後に

 最後に書いておきたいことがあります。

 先ほど「原発事故は取り返しのつかない被害であり、償いようがない大変なことだ」と書きました。しかしそれは、「だから福島の人はもう充実した人生を送れない。生きててよかったとは今後一切思えない」ということを意味しません

 取り返しのつかない被害を経験しても、ひとはその後充実した人生を送れると、私は信じています。私事になりますが、パートナーのウネラは私と同じように元新聞記者ですが、記者時代に性暴力被害にあいました。現在もその記憶・経験に苦しめられています。つらいことを「なかったこと」にはできません。「前を向く」ことも難しい。しかし同時に、そうしたことはあったけれども、これからの人生は充実させようと努めています。私自身もそれを手伝い、「どんな経験をした人でも生きててよかったと思える」ということを証明したいと思っています。

 以上、「復興」という言葉を私が使わない理由について、長く書いてしまいました。

 これはただの「私の考え」です。オリジナルというわけでもなく、いろんな本を読みかじった知識をあれこれつないだだけ、というものです。まして私は2020年に首都圏から福島に引っ越してきた人間です。原発事故について言えば「被害者」ではなく「加害者」、甘めに言っても「傍観者」です。私の考えに異論がある人はたくさんいると思います。

 でも、そんな不十分、中途半端な考えでも、私自身の頭でまとめた考えには「一人ぶんの重み」があると思っています。そして、それを表明することは大事だと思っています。私の考えに「一人ぶんの重み」があるのと同じように、●●高校のすべての生徒の皆さんの考えにも、「一人ぶんの重み」があります。知識・経験の量とか、思考の深さとか、そんなものは関係ありません。「復興」ということをどう考えるのか。皆さんも自分の頭で考えてほしいと思います。そしてもし可能ならば、考えたことを私にも教えていただければ幸いです。

2 thoughts on “「復興」という言葉について

  1. いつも有難う御座います。

    辛くても、考え、考え、考え抜くことが、重要と思いました、

  2. このたびは、本校生徒のためにこのような丁寧なご回答を考えていただき、本当にありがとうございました。
    ただいま彼・彼女らは、そのまとめを仕上げている最中です。
    どのような考えが生まれてくるのか楽しみです。
    彼らの中に生まれる思考の酵母は、それこそ千差万別です。
    とにかく我々にできることは、種をまき続けることのみです。
    そして、できるだけよい肥やしと水に出合わせることです。
    その結果がどうなるかはお楽しみ。
    そこからできることは、当てにしないで期待するという境地でのみです。
    よい肥やしと水は撒いたつもりです。
    それが今回の質問という形で芽を出したことは、主催者として嬉しいことでもありました。
    牧内さんのお話がそれを引き出したものと感謝しています。
    一年間の総仕上げは冊子にまとめる予定ですが、完成しましたらお送りいたします。
    セミナー&討議とともにあらためて御礼申し上げます。

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