伝承館は何を伝承するのか~みなさんの声⑩

福島

 福島県内に昨年オープンした「東日本大震災・原子力災害伝承館」(伝承館)の「あるべき姿」を考えていきます。企画の狙いについては前の記事「企画のはじめに」をお読みください。

 議論の材料として、館内の展示フロアに掲示されている「文章」をアップしてきました。以下のページにまとめていますので、ご覧ください。

→ 伝承館は何を伝承するのか(展示資料の記録一覧)

 お待たせしました。「みなさんの声」です。記念すべき10回目は、熊本大准教授の石原明子さんの文章を紹介します。石原さんの専門は紛争解決・平和構築学です。福島にも何度も足を運び、研究活動を進めているそうです。伝承館を訪れた感想をご自身のFacebookに書いていました。印象深い内容だったので、本企画への転載をお願いしたことろ、快くオーケーをいただきました!

 ぜひ、お読みください!


【石原明子さんからいただいた文章】

原子力災害伝承館に行ってきました。見たものの備忘録も兼ねて、書きます。

いろいろ思いましたが、最終的に思ったのは、「1.伝承館ができてよかった。2.伝承館の内容は今の社会が原発事故をどのように受け止めているかそのものを映している鏡である。3.伝承館をこれからどのように育てていけるか、それが社会全体の責務」ということでした。

伝承館は、入ると1階の映像室に全員案内されて、一見かっこいいけれど結構物理的に見づらい映写室で、西田敏行さんのナレーションで、原発事故に関する人々の想い(のようなもの)が流れます。原発ができた年次なども表現されますが、さっくりしていて、そのことの意味はあまり表現されてはいません。

5分ほどの映像が終わると、全員スロープを登って2階まで歩いて移動です。スロープで一見バリアフリーなのですが、でも上ること自体が大人の私でも結構疲れます。高齢の方や障害のある方にはきついかも、と思いました。

2階の最初の展示は、「事故はなぜ起こったか」。ですが、この「なぜ」は2011年3月11日の津波から物語が始まります。要は「地震・津波で事故は起こった」というストーリーになっていて、なぜ、そもそも原発が作られたのか、なぜこの地域なのか、事故予防の議論や対策はどうなっていたのか、という3月11日の震災以外のファクターについては触れられていません。

次に、地域の子どもたちへの「原子力教育」に関するパンフなどが展示されています。要は「原発すばらしい」という教育パンフなのですが、パンフの年次はよく見ると2009年で事故前のものですが、なぜか展示では、「という教育がなされています」という現在形で書かれていて、これは混乱を招くのではないかと思いました。

その後、原発災害前に双葉町に設置されていた「原子力未来の明るいエネルギー」という看板(いわゆる「原子力広報看板」)の大きな写真がドーンと出てきますが、解説なし(※)なので、その看板の意味をどうとらえたらいいか、外から来た方などにはわかりにくいのではないかと思いました(※他の方から「原子力と結びつきを示す」といった短い解説が書かれていたと見せてもらいました。それでも、その短い解説と写真だけでは、一般の方にはわかりにくいかと感じました)。

その後は、原子炉の中で震災後に何が起こっていったのか、どのような対応がなされたのか、事故の急性期が落ち着いてからの技術的対応などのことが展示されます。行政や技術者のインタヴュービデオや住民のビデオが多く流されています。

被災者の体験についても書かれますが、健康被害の部分では、原発事故による実際の健康影響については全く書かれておらず、すべて「健康不安」のことしか書いていません。「風評被害」という被害については展示されていますが「実害」については書かれていません。

最後は、復興、イノベーション構想の話になって終わります。全体としていろいろ展示されているのですが、その展示をどう読み取ったらよいのかというストーリーをはっきり表現していないので、どう情報を読み取っていいのかがわかりません。で、最後イノベーション構想になるので、あまりわからない人が見たら、「うーん、なんかよくわからないけれど、復興にむかっているんだな」というような印象を持つに終わる、展示になっています。

あと、大事なのに書かれていないことは結構多くありました。

上記の、放射能による健康被害もそうですが、健康リスクについても書かれていませんし、そもそも事故後の人々の気が狂わんばかりの不安や、叫びや、人間関係の葛藤や分断にも触れられていませんでした。賠償金の違いや、裁判についても触れられていませんでした。

ということだけ書くと、なんか残念な面だけ強調されてしまいますが、水俣市の水俣病資料館だって最初の患者の公式確認から30年ほどたって資料館が出来ているのであって、できてからも、何年もかけてより良くしていくための取り組みがあったわけで、原子力災害伝承館が、震災からたった10年でストーリーを固定化させるのは本当に難しいのだろうと思います。

まあ、展示は現時点では、とにかくボヤっとしているし、大事なのに触れられていないことが多すぎるのですが、でも、できてよかったな~と思ったことが、決定的にありました。この伝承館では、一部地元の方が展示案内人と働いておられてお話を聞かせて下さったり、語り部の方もおられたり、その方々にお話を伺いながら聞くと、その一つ一つの展示の意味がとっても浮かび上がってくるのです。

また、その館に関わる方がおっしゃっていたのですが、最も被災された双葉郡の方々はここにきて、泣きながらご覧になるということでした。本当にそうなのだろうと思います。ここしか、彼らが記憶をたどり、人と出会って語れる場もなかなかないということです。

つまり、ぼんやりした並びの、でも一生懸命並べられている展示の一つ一つは、じーっと耳を澄ませば、そこに深い深い意味や悲しみや痛みが静かに表現されている。声にならない声を聞こうと耳をすませながら見なければいけない展示ということです。

つまり、今の福島県の状況自体がこれなのだと思います。まだまだ混乱と痛みの中にあって、痛みに向き合うにはほど遠い中にあり、日常生活では言えないことも多くて、ふたをしている。震災の記憶や傷は断片的に出てくる。奥底に、痛みがあるのに、それは堂々とは語られない混乱の中を一生懸命生きている。

伝承館がまさにそんな感じです。

表現できないのに、一生懸命に表現しようとしている伝承館が、いとおしくさえ思いました。

もちろん資料館としての成熟はまだまだです。でも、伝承館さんが、きちんと伝えるべきことを伝えられるようになるかどうかは、私たちの社会が今後原発災害にどれほど、きちんと向き合っていけるのか、にかかっていると思いました。

伝承館の責任、県の責任ではないのです。この伝承館をどう育てていけるかは、社会全体の責任だと感じました。

だから、大事に大事に育てていきましょう。これ以上委縮しないように。


【ウネリウネラから一言】

 伝承館の足りない点を指摘しつつも、よいところを積極的に見つけようとする姿勢に感銘を受けました。

水俣市の水俣病資料館だって最初の患者の公式確認から30年ほどたって資料館が出来ているのであって、できてからも、何年もかけてより良くしていくための取り組みがあったわけで、原子力災害伝承館が、震災からたった10年でストーリーを固定化させるのは本当に難しいのだろうと思います。

 水俣病が公式確認されたのは1956年5月1日、水俣市立の水俣病資料館がオープンしたのは1993年です。資料館ができてからも、何度も展示の見直しが行われており、現在の展示に関しても賛否両論があると聞いています。伝承館についてもじっくり、時間をかけて改善していく必要があるのだろうなと思いました。

最も被災された双葉郡の方々はここにきて、泣きながらご覧になるということでした。本当にそうなのだろうと思います。ここしか、彼らが記憶をたどり、人と出会って語れる場もなかなかないということです。

 この指摘も印象的でした。被災された方々が語り合う場は、どれくらいあるのだろうか。「伝承」とは別の問題として、痛みを分かち合う場がもっと必要なのではないかと、考えさせられました。

 分かりやすくかみくだいた文章で、大切なご指摘をたくさんいただきました。石原さん、ありがとうございました!


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※各エリアの展示文章はこちらの一覧にまとめています。→「伝承館は何を伝承するのか」

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