ウネリ:新型コロナウイルスの感染問題に関連して3月1日、劇作家の野田秀樹さんが「意見書」というものを自身のホームページで発表しました。

それは、一演劇人として劇場公演の継続を望む、という意見表明でした。

この野田氏の意見表明について、今日はウネラさんと話したいと思います。

「劇場公演の継続を」物議醸した野田氏のメッセージ

ウネリ:まず野田氏の意見表明について、簡単に振り返りたいと思います。

先ほど言った通り、冒頭で野田氏は「一演劇人として劇場公演の継続を望む意見表明をいたします。」 と書いています。

その後で、劇場の公演継続を求める理由として、

  • 演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。

と書いています。そして、

  • ひとたび劇場閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは「演劇の死」を意味しかねません。

と、しています。

ここには少し説明が必要で、おそらく野田氏が言いたいのは、公演の収入で生計を立てている演劇舞台の関係者、そもそもそれほど収入が多くない人たちが頑張って演劇という芸術を支えているという現状を、よく考えてくれということだと思います。

このような理由で劇場の公演継続を望むとした上で、野田氏はこう続けています。

  • この困難な状況でも、懸命に上演を目指している演劇人に対して、「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧します。

こういったことを主なメッセージとして書いています。

もう既にいろいろなところで賛否両論、議論が展開されている野田氏の意見書ですが、改めてウネラさんはどのように受け止めましたか。

誰かに公演の許可をもらう姿勢に「違和感」

ウネラ:わりと早いうちにウネリさんから聞いて全文を見たと思うんですが、はじめこの野田さんの「意見書」というのを目にしたとき、なんか「嫌だな」と思う感覚がありました。

ウネリ:ほうほう。

ウネラ:私自身、 芸術のあり方ということに関しては、その重要性を、自分なりにですけど、日頃からわりと真面目に…若い時分からけっこう真剣に考えてきたと思っているんですけど。なんとなくこの文章には違和感、少し嫌な感じがして。それはなぜかなと思って、ウネリさんと言葉にしながら考えたんですよね。

ウネリ:この文章のどんなところに違和感を感じましたか?

ウネラ:これは誰に対する意見表明なのかなっていう感じがしましたね。

政府に対してなのか。大きな劇場公演を主催、後援してくれるような公的機関に対しての声明なのか。

だとすれば、そこに許可を取るような姿勢には、非常に違和感を覚えます。

ウネリ:そうですね。細かいかもしれないけど、 僕がまず指摘したいのは、 この文面の中で、劇場公演を継続すべきだという論旨が甘いことです。

たとえば、「演劇は観客がいなきゃダメでスポーツイベントは無観客で成り立つ」という部分は、演劇人のエゴでしかない。スポーツだって、客がいなければ、成り立ちません。

また、演劇人の生活の問題、経済的な問題を主張して理解を得るのは、難しいと思います。今の世の中、どんな仕事に就いている人も苦しいのに変わりはないですから。

でも一番大事なのは、先ほどウネリさんが言ったように「劇場公演をさせてください」と、誰かにお伺いを立てているような印象を与えることですね。

ウネラ:そうですね。

ウネリ:本来、芸術というものは、それを表現する者、その表現を鑑賞する者、それぞれの自主的な判断で行われるべきでしょう。誰かに公演を許可してもらわなければ、背中を押してもらわなければできないというものではないと思います。

演劇界のトップランナーである野田秀樹氏ともあろう人が、誰かに公演継続の許可をもらおうとしているような印象を受けます。

芸術が自主的なものでなく、お上に許可してもらって初めて保証されるものであるかのような、よくない構図に乗っかってしまっていると思います。

これは昨今の芸術と政治の関係を振り返ると、非常に重要な問題だと思いますが、いかがですか。

野田氏の意見表明は「逆効果」?

ウネラ:野田さんがこういう言い方をしたのは、芸術界にとっては、「逆効果」だと思います。

私の感覚からすると、野田さんは演劇界で大いに成功を収めている側の方であって、その確立された地位によって守られている。そもそも公演をするにも、後ろ盾がつきやすい立場の人なわけですよね。

そこで野田さんはおそらく、演劇界全体、芸術界全体というものを俯瞰して、それらを代表して、「芸術の萎縮を危惧する」といった主旨のことを言いたかったんだと思うんですが、その表現方法、言い方がよくない気がして。

ああいう言い方をすると、公演がお上の墨付きでなければならないもので、その判断によっては、やめにしなければならないものである、という構図を認めてしまうかたちになっちゃうと思うんですよね。それが「逆効果」というわけです。

意見書のタイトルも「意見書 公演中止で本当に良いのか」とありますが、中止すべきか、 公演をするかしないかっていうのは、本人たちの考え方ですよね。この短い意見書の、声明自体が、誰に向けられているのかが、はっきりしない。

中止を呼びかける政府に対してのメッセージなのか、公演を実施する演劇人たちに対して言っているのか、または観に来る側に対して訴えかけているのか。

中途半端と言うか、留保がたくさん付いたような言い方をしていて、私としては不満でした。

野田さんという人だからこそ、もうちょっと違う言い方、違うメッセージの発し方が、いくらでもあったんじゃないかなと感じています。

議論を巻き起こしたことに意義があった

ウネリ:その一方で 何も言わずに何となく空気を読んで、公演をどんどん自粛していくよりはずっといいかなとは思いますね。

近頃バタバタと各方面、音楽業界、映画業界、どの業界も、軒並み上演中止が続いていますよね。そういう流れに物を申すという意味はあると思えます。

ウネラ:そうですよね。勇気づけられる人もたくさんいると思います。

また、一観客側である影響力のないこの私たちが、このメッセージによっていろいろ考えたり話し合ったりしている。

芸術のあり方について日頃からこうして一人ひとりが語り合うこと自体がとても重要だと考えています。なので、そのきっかけとなったという点のみでも、野田さんの発信は価値があると思います。

ある映画監督からのメール

ウネリ:話は変わるけれど、先日ある映画監督からメールをいただきました。 長年にわたり、ドキュメンタリー映画を撮り続けている方です。メールは、 3月上旬に予定していた都内での映画上映会を、「予定通り実施します」という内容でした。

少し紹介します。

どんな時にも淡々と映画を創り続けてきた私にとって、淡々と映画を見てもらう営みを続けることが、今、大切なのだと思います。

こんなメッセージが書いてありました。私はこれにとても共感を抱きました。

この映画監督は、 世間的には野田氏ほどの有名人ではないかもしれませんが、芸術家という人間の「役割」、その立ち位置というのを知っているんだな、という印象を持ちました。

ウネラ:「淡々と」 という言葉に多くのことが集約されているように感じます。

ウネリ:この映画監督は、上映の許可を求めてはいない。繰り返しになりますが、ここがポイントだと思います。

公演するかしないかは自分の判断で決める。そして、自分の判断で観ようと思った観客が観に来る。そういうことだと思います。

「個」の追求が芸術の役割

日本国憲法は、「公共の福祉に反しない限り、個人の権利の追求を尊重する」としています。この憲法13条に書かれたことをどう解釈するかという問題だと思います。

コロナウイルスとかそういう問題が出てくると、この公共の福祉、公共の利益という概念ばかりが、どんどん大きくなっていきます。「感染を広げないため」と言われたら、それにはなかなか反論できないからです。その結果、公共の概念がどうしても肥大化して、個人の権利、個人の幸福追求がおざなりになっていってしまいます。

そういった問題をはらんでいるとわかっていても、政治家だったりマスメディアの人間が声高にはそれを語ろうとしません。

それは、「ウイルスの感染を広げるな」という命題に対し、倫理的な反論が難しいからです。

この閉塞した状況を切り開ける「職業人」がいるとすれば、それは芸術家たちなのかなというふうに思います。

野田氏が書かないほうがよかったこと

ウネラ:野田さんはこの文章の中で「感染症が撲滅されるべきであることには何の異議申し立てするつもりはありません」と書いていますよね。

それは個人としての正直な気持ちなんでしょうが、ここでそれになんで触れちゃったのかな、って、それ何で入れちゃったのかな、っていう感じがするんですよね。

先ほどの、誰に対するメッセージなのかが明確でないということにもつながるんですが…。ここを「書かない」ことはできなかったかな、っていうのが私の感想です。

この一文を入れてしまったことで、なんというか、芸術家として腹括っていないのかな、と少し残念なような気持ちになりました。

こうした意見書を出すからには当然「感染を広げていいのか」っていう批判はきますよね。それも引き受けなければならない。

感染症が撲滅されるべきかどうかについての意見っていうのは、芸術家としての野田さんから聞きたいことではないというか。

芸術家としては、そういった思いも含めて、舞台の上でやればいいのではとないかと思ってしまいました。

ウネリ:ここは結構キーポイントかもしれないな。結局、野田氏は公共の福祉にも反しないよ、とここで保険を打ちたいわけですよ。ただ、それは虫がいい。

やはり公共の福祉と個人の幸福追求とは相反する時がある。

それを認めた上で、自分は最終的にどっちにつくのだという気概が見られなかったということだと思います。そういう意味でこの「感染症撲滅~」の一文は、 確かにキーポイントでした。

ウネラ:ちょっと守り過ぎっていう感じがしましたね。

ウネリ:その両方成り立たせますよ、っていうのがね。

芸術家は「身勝手」であるべき

あと一つ気になったのが、野田氏の文章の中で「身勝手な芸術家たち」という風評が出回ることを危惧する、と書いてあるところですね。

ウネラ:そうですね。

ウネリ:先ほども言った通り、ある局面では、芸術家は「身勝手」でなければならない。身勝手という立場を取り続けなければならないと、僕は思います。

彼らが言ってくれないと、誰も個人の大切さを言えない時代になってしまう。

ウネラ:身勝手でない芸術っていうのはあるんだろうか。身勝手さを脱いでしまったら、そこからたちまち、芸術性って、失われていくものなんじゃないかなと思います。

ウネリ:各芸術家が芸術活動を自粛するかどうかは、その人たちそれぞれが考えて決めるべきことだと、僕は言いたい。

そして、このウイルス蔓延下でも芸術活動を続けるという人がいた場合、世の中はそれを「身勝手」という理由で非難するべきではないのではないか。

どんな状況下でも表現を続けることが、芸術家が社会から託された「役割」だと考えるべきだと思います。

芸術は生死に関わる

ウネラ:そう思います。それと、観る側が求めていく姿勢っていうのは、やはり大事ですよね。

私は芸術は人間の生にとって不可欠なものだと考えています。何か大げさなことを言いたいわけではなくて、むしろ逆、「普通に要るものなんだ」と言いたい。

たとえばある音楽を聴き、ある詩を読み、それに心を動かされ、踏みとどまるように生きる一日というのが、誰にでもあるのではないでしょうか。少なくともその意味で、芸術は本来すべての人の生き死にに関わる問題、生き死にそのものとも言えると思っています。

コロナウイルスという、命にかかわる危機が迫っています。でも実は普段から、生きている限り、誰しも一瞬一瞬の「命の危機」のなかを生きているわけですよね。芸術は常に、そういった生死の問題を直視するよう、迫ってくると同時に、自分がここに生きていることを確めさせてくれるような、そういう存在だと感じています。

だから、我々はもう少し真剣に、芸術を求めていったほうがいいような気がします。

芸術家の側は、危機的な状況においても、表現することを自らの「役割」として、なるべくいつも通りやっていく。それに対して観客も「呼応する」というか。そういうのがあるべき姿なんじゃないでしょうか。(表現する側と観る側が)お互いに求め合うという関係と言うか。

危機的な事態によってある公演が縮小、中止に追いやられるということが起こったとき、市民たちが求め続けていく、「観たい」と声をあげていく、動くということが重要だと思います。

いまこの社会では、芸術に対する優先順位がかなり低い気がします。芸術の「役割」が顧みられないことに危機感を抱いています。そういったことが、問題の本質であるような気もしています。

野田さんに否定的なことばかり言ってきたんですが、やっぱりこういう問題提起をされたことには意味があったと思ってるんですよ。

ウネリ:今は感染を避けて外に出ない、出られない人もたくさんいるでしょう。それでも、カンパとか、いろんな芸術の支え方は、あるんじゃないんでしょうか。

ウネラ:そうですね。

(終わり)

ウネリ追記:その後、本文で紹介した映画監督から「上映会は延期の判断をせざるを得なくなった」とのメールが届いた。監督がなぜそうした判断に至ったのか、会ったときにぜひ聞いてみたい。

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コメント

  1. Shelton

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