十年ほど前、友人の結婚披露宴に出た。宴もたけなわの頃、新郎にあいさつの順番が回ってきた。
「えーと、実はですねー、彼女とは何年も何年もつき合ってきたんです。前から結婚する雰囲気はあったんですが、私はずっと、それをためらっていました」
坊主頭の頃から知る私の友人が、似合わぬタキシードを着て真っ赤な顔でぐだぐだと語っている。新郎のスピーチなど型通りのものばかりでつまらないというのが相場だが、なんとなくおもしろくなりそうだった。
「それと言うのも、私は結婚するのが怖かったんです。これで人生が少し進んでしまうというか、死が一歩近づいてしまうんじゃないかと思うと、怖かったんですよ。私はずっとそういうところがあるんです。学校を卒業するときも同じように怖いと思いました。それはすべて、死の恐怖なんです」
ずいぶん昔のことなので、記憶が薄ぼんやりとしている。私も新郎と同じくらい酔っていたので、一つひとつの言葉は正確ではない。だが大意としてはこんな話だった。
聴衆は苦笑いしたり、「オイオイ」とつっこみを入れたりしていた。めでたい場で主役が大まじめに「死の恐怖」などと言い出したのだから無理もない。私も周りをまねて苦笑いの表情をつくったが、心の中にはちがう思いがあった。
あいつもオレと同じことを考えていたんだな。よく正直に話したなあと、感慨深く感じていたのだ。
人生を列車の旅だとすると、「結婚」はたくさんの駅のひとつだ。「卒業」もそうだろう。ふだんはあまり気づかないけれど、駅にとまると俄然、この列車が猛スピードで進んでいることに気づく。気づかされる。(もちろん駅を通り過ぎてしまうことは可能だが、それでも状況は変わらない。列車は走り続ける。)
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニとカムパネルラは宇宙を旅する。車窓からのぞく星のじゅうたんは美しいが、実際には一つひとつの星は数億光年も離れていて、その間にあるのは絶対的な闇だ。私たちはいつかこの列車を降りる時がくる。いつかは必ず降りるのだから、今のうちに降りた先のことを考えねばならないのだが、車窓から見える闇はあまりに深くて、ついつい明るい車内へと目を戻してしまう。
せめてレースのカーテンがほしい。大きならっぱを吹き鳴らす小さな子どもとか、見たこともない熱帯の植物とか、そういう楽しい柄のついた白いレースのカーテンを、車窓にかけておきたい。レースの柄を楽しみながら、その奥にある闇をちらちらと見る。これならできるかもしれない。死を片時も忘れず、かといって絶望にも陥らない。そんな絶妙な距離を保つための、白いレースのカーテンがほしい。
ふだんの私にはない発想が出てきたのは、今月の角川俳句の巻頭に掲載された池田澄子さんの俳句のおかげである。特別作品50句のうち、とりわけ私がひかれたのは以下の句だ。
人生の終わりの方の冬すみれ
いっときを我は人にて冬の月
生き了るときに春ならこの口紅
昭和はじめに生まれた池田さんは、恐らく私よりも、死という闇について切実に考えているのではないだろうか。しかし必要以上に怖がることなく、適度に距離をとってその闇をみつめる術を、池田さんは知っているような気がする。
口紅の句を舌で転がしたときの、静かな甘さがすばらしい。死の恐怖を「あんこ」にしてしまい、それを詩心やユーモアという「ぎゅうひ」でくるっと包んで、かわいらしい和菓子に仕立てあげる。そしてその和菓子をぽいっと口に放り込み、味わいながら口元を隠してオホホと笑う。池田さんのそんな姿が浮かんでくる。(池田さんとは面識がなく、ご本人が実際どんな方かはまったく知らない)
そして50句のいちばん最後の一句が、さらにすばらしい。
ショール掛けてくださるように死は多分
私の「レースのカーテン」なんて、池田さんから借りてきたものにすぎないことを白状する。そして大事なことを考えさせてくれた池田さんの句に深く感謝する。
コメント