時間を超えて~ワタノベさんご自身のこと③~

報道

 福島県相馬市の高校生が震災後に発表した演劇「今伝えたいこと(仮)」などの記録映像上映を通じ、継続的に対話の会を開いている高校教師の渡部(ワタノベ)義弘さん。演劇の成立過程や、今も続く上映と対話の会の内容などの本題に入る前に、震災直前から直後のワタノベさんご自身の体験について紹介する。

 前回の「ワタノベさんご自身のこと」②では発災直後に避難するも、各地を転々とした後、相馬に帰還するまでのことを綴ってくださった。今回は企画のテーマである「相馬高校放送局」の当時の様子を振り返ってもらった。(ウネラ=牧内麻衣)

※隔週土曜に連載します

震災直後、相馬高校放送局

 2011年4月、この時点で放送局は3年生1名。何も活動できないでいた。生徒たちも学校に来ない時期があったため、ワタノベは教材研究をしたり、室内で放射能に関する不安を職員と語り合ったりするだけの日々であった。未来への見通しは無かった。

 4月の或る日、新地駅で被災した車両が撤去されるというニュースを見た。仙台に行く際に、ダイヤの関係で時々新地駅を利用していた。前にワタノベは瓦礫すら撮影できなかったと書いた(ワタノベさんご自身のこと②を参照)。この新地駅では非番の警官が列車に乗車していて、津波から逃れるために乗客を誘導していた。よって、死者は出ていなかった。

 「ここなら」と思い、撮影に行った。家の畑以外、「被災地」を初めて撮影した。厳密にいえば、ここが相馬高校放送局の震災後の活動のスタートだったかもしれない。

「サテライト校」のなかで

 「緊急時避難準備区域」原発からの直線距離20~30キロの地点では教育活動が再開できないため、その管内にある高校は教育拠点の移動を余儀なくされた。別の場所で教育活動を再開した学校を、教育委員会では「サテライト校」と称した。相馬高校は旧相馬女子高校舎も管轄していた。結果的に相馬高校の敷地には南相馬から原町高校・相馬農業高校・小高工業高校・小高商業高校が引っ越してきた。相馬高校の在校生は約700人。そこに500人のサテライト生がやってきたため、1200人の生徒が入り乱れる学校になった。

 余震が頻発していたので、ワタノベは合同避難訓練を提案した。この規模で被災時にどんな動きになるか分からないし、面識のない生徒たちをいざという時にどう守れば良いかを皆で検討したかったのだ。しかしその提案には何の反応もなく、粛々と日常は進んでいった(もちろん原子力緊急事態下であるので何が起きるかは分からなかった)。

 原町高校にも放送部があり、同じ校舎に同居する形になった。放課後は部室と視聴覚室で活動していたのだが、視聴覚室は原町高校に譲った。この時点では相馬高校放送局は1名しかおらず、番組を制作できるかも不明だった。「原発に一番近い」原町高校の放送部がこの状況をどのように記録して番組にするのかも興味があり、それを微力でも支えたいと思ったことも事実だ。

是枝裕和監督との交流

 5月には是枝裕和監督の訪問もあった。

 福島市でのチャリティー上映に是枝監督が来場した際に、フォーラム福島の阿部泰宏支配人にお願いして、直接話をさせていただいたのだ。「1名で活動する局員に何かメッセージを」とカメラを持参したのだったが、その後メールのやり取りを経て、実際に相馬高校まで来てくださることになったのだ。

 福島から直接車で来るルートは生きていたが、仙台からのルートで監督はいらした。何度か霊山を経て福島に行ったことがあり、線量の高さも実感していた。その事実も事前にお伝えして、最終的なルートの判断は監督に委ねた。部室に入った是枝監督に聞いてみた。

ワタノベ「(放射能が)怖くないですか?」
是枝監督「怖いですよ」

 そうした率直な返答があり、腹を割って話そうと決めた(といっても、生徒たちとはAKBの話などの雑談から始まったのだが)。

 途中まで進行している作品を見てもらい、アドバイスも受けた。その作品は完成した形として残っていない。アドバイスとは別の形で作品は完成した。

 うちだけで独占するにはあまりにも惜しいので、原町高校放送部にも話を振った。それぐらい原町高校放送部にも思い入れがあった。普段はもちろんライバル視しているし、負けたくない「相手校」なのだが、この時はそういう感情は全く沸かなかった。


 ワタノベさんご自身の話は今回で終わります。次回から企画本編に入ります。

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