映画『Fukushima 50』(以下『50』)について、前回の続きをもう少し書いておきたいと思います。
あの映画のはじめに、<事実にもとづく物語>という字幕が入ることは書きました。ただ、実際には「事実とちがうぞ!」というツッコミが、各所で入ってきているようです。
では、どこがどう違うのでしょうか。いろんなパターンがあると思いますが、私自身が気づいた点を以下に挙げます。
①現代人なら誰にでも分かる変更
社名です。東京電力の社名を「東都電力」と変えています。「些細なこと」と思う人もいるかもしれませんが、そうでしょうか。
原発事故を起こしたのは「東京電力」である――。東日本大震災と福島原発事故から10年も経っていない今なら、明々白々の事実です。けれども、子や孫…これから続いていく次世代にとってはどうでしょうか。
30年後、50年後、映画『50』のDVDの存在を“証拠”として、「原発事故は『東都電力』という会社が起こした。東京電力は無実だ」などと主張する人たちが出てこないと言い切れるでしょうか。私には、その心配がぬぐえません(考えすぎかもしれませんが……)。
②事実と異なる印象を刷り込もうとしている部分
「1号機のベントと首相の原発視察との関連」です。
3月12日早朝、1号機の格納容器内の圧力を下げるため、原発の作業員たちはベントの準備に追われていました。同じ時間帯に、菅直人首相(当時)が現地視察を行うことを決めます。映画『50』ではこの部分をこう描いています。
※東電本店と吉田昌郎・第一原発所長がテレビ会議で話すシーン
吉田昌郎所長:「ベント、行けますか?」
東電本店:「総理がそちらに視察に行きます」
吉田:「総理が……。これからですか」
東電本店:「対応をお願いします」
吉田:「本店さん、それちょっと勘弁してくんないかな。現場にそんな余裕ありませんよ」
(中略)
吉田:「とりあえず、ベントは総理の視察が終わるまで、待てばいいんですね」
東電本店:(無言でテレビ会議の音声ボタンを切る)
映画『Fukushima 50』より
予備知識をもたずにこのシーンを見れば、菅首相の視察によってベント実施が遅れたという印象をもつでしょう。そして、原発事故をリアルタイムに経験していない将来の人たちの多くは、そう感じると思います。
しかし実際には、そのような事実はないようです。
国会事故調査委員会の報告書にはこう明記してあります。
「菅総理の訪問によって、原子炉の対応に直接従事している作業者の手を止めるように指示されたことはなかった」
また、吉田所長自身も、東京新聞のインタビューに対してこう否定しています。
「(首相の視察でベントが遅れた、ということは)全くないです。早くできるものは(首相のヘリに汚染蒸気を)かけてしまったっていいじゃないかぐらいですから。私だって、格納容器の圧力を下げたくてしようがないわけですよ。総理が飛んでいようが、炉の安全を考えれば、早くしたいというのが、現場としてはそうです」
東京新聞記事より
1号機のベントは結局、12日の14時半に実施されました。手動によるベントの準備に手間取ったこと、原発周辺の住民の避難確認にも時間がかかったことの二つが、当初の予定よりもベントが遅れた主な原因のようです。
映画でも、テレビ会議のシーンの直前に以下のシーンが挿入されています。
伊崎利夫・1号機当直長:「(ベントの)準備ができた!」
緊急時対策室にいる吉田所長の部下:「ちょっと待ってください。まだ住民の避難が確認できていません」
映画『Fukushima 50』より
こうした会話をはさめば<事実にもとづく物語>という触れ込みに反しない、と制作側は考えたのかもしれません。でも私は「ちょっと苦しいんじゃないか」と思います。
このちょっとした会話の印象は、直後のテレビ会議のシーンに完全に打ち消されているからです。吉田所長を演じているのはハリウッド俳優の渡辺謙です。首相視察に苦悶の表情を浮かべる渡辺謙の濃厚な演技に、観客はどうしても引っぱられてしまうのではないでしょうか。
しかもセリフを細かく見ていけば、「ベントは総理の視察が終わるまで待てばいいんですね」というひと言は、「首相の視察でベントが遅れた」という印象を強烈に与えるものだと思うのです。
③現実の一側面から目をつぶっている部分
これは言い出したらキリがないのですが、まず私が気になったのは、1号機への「海水注入」の描き方です。
3月12日、吉田所長は1号機の原子炉を冷やすために「海水注入」を始めました。しかし、官邸に詰めていた東電最高幹部から「いったん中止しろ」との指示が入ります。
吉田所長はここで一つ、演技を打ちます。テレビ会議上では部下に「中止」を指示するふりをしますが、裏では部下たちに「継続」を命じていたのです。その結果、海水注入は止まることなく続きました。
この件については、一般的に吉田所長の“英断”と評価されることが多いですが、実際は注いだ海水のほとんどが原子炉まで届かず、どこかから漏れてしまっていたことが分かっています。NHKスペシャル取材班は、日本原子力学会などへの取材をもとに
「3月23日まで1号機の原子炉に対して冷却に寄与する注水は、ほぼゼロだった」
『福島第一原発 1号機冷却「失敗の本質」』(講談社現代新書)より
と書いています。
映画『50』では、東電作業員や自衛隊員たちによる海水注入の鬼気迫る様子が、大迫力で描かれています。
彼らが必死の思いで海水注入作業にあたっていたことは、疑いのない事実だと思います。けれど映画では、その決死の作業が実は焼け石に水だったということには、一切触れていません。
そうした切り取り方をしてしまっては、あの作業が“事故の収束に効果的だった”との印象を与えかねないと思います。
また、『50』は、米軍による「トモダチ作戦」を大きく取り上げています。米軍将校を「子どものとき福島・浜通りに住んでいた」という設定にし、その将校が避難所で1・2号機当直長の伊崎利夫に「トモダチ、トモダチ」と語る場面まであります。
実際には、「トモダチ作戦」に参加して被ばくしたとして、当時の米兵が東電を訴えた例もあります。映画はそうした側面には目をつぶり「トモダチ作戦」を美談として扱っているように感じます。
<事実にもとづく物語>という字幕
以上、①から③まで書いてきましたが、結局私が一番こだわっているのは、<事実にもとづく物語>とは何なのか、という点に尽きます。
さまざまなグラデーションで事実と異なる部分はあるわけですが、<事実にもとづく物語>とはじめに堂々と提示されてしまうと、すべてが事実であるかのような気にさせられてしまわないでしょうか。
私自身、恥ずかしい限りですが原発事故についてまだまだ不勉強なので、この文章を書くために国会事故調の報告書や、ノンフィクション数冊を拾い読みしました。事故についてほとんど知らずに観る人や、「事実を知りたい」と思って観る人もいるでしょう。他方、忙しい日常のなかで、映画を鑑賞した後にあらためて原発事故に関する事実関係を調べ直したり、比較検討したりする余裕のある人は、なかなかいないと思います。
すると映画を観た大部分の人たちは、前回書いたような細かい「人物設定」はさておき、事故の本筋にかかわる部分については「事実」として受け止めて、日常へと戻っていってしまうでしょう。そこに残るのは、おそらく「当時の政治が足を引っ張った」「現場は機略を尽くしてよくがんばった」という強い印象だと思います。そうした作りになっているのですから、純粋に映画のストーリーを追っていけば、そうなるのが当然です。
けれど、そのようなわかりやすく短絡的な印象は、「なぜこんな事故が起こってしまったのか」という問題意識や、「こんなに危ない原発というものを、今後も使っていっていいのか」という危機感を、覆い隠してしまうような気がして、私はとても心配です。
さらに心配なのは、これからの世代のことです。今はインターネットで調べれば、国会や政府事故調のページに行けますし、さまざまな著書もすぐに入手できます。しかし、子どもの世代になって同じ環境が維持されているかは分かりません。かなりの手間をかけなければ、この問題についての事実関係が調べられなくなっている可能性もあるでしょう。
映画について言うと、たとえば、原発問題を深掘りしたドキュメンタリー作品は、DVD化されているものでも非常に製造枚数が少ないのが現実です。それに比べ「エンターテインメント超大作」である『50』は、ひとケタもふたケタも多い数のDVDが、市場に出回っていると思います。
そうした状況を鑑みると、このままでは、数十年後には「原発問題の映画はこの作品しか観ていない」という人が大多数になるという状況も、じゅうぶんあり得るでしょう。
ならば、せめてもう少し<事実にもとづいて>描いてほしかったなあと、私などは思うのです。DVDのパッケージには、<全ての人に贈る、真実の物語。>と書いてあるのですから……。
もちろん、今後また違った視点から原発事故を描いた傑作映画がどんどん登場すれば、私の心配は杞憂に終わるでしょう。そうなることを望んでいます。
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