映画「はちどり」について(下)

 映画「はちどり」を観てウネラに起こった不思議な体験について、ウネリ、ウネラのふたりで話し合ってみました。今日は後半。前半の記事はこちらです→映画「はちどり」について(上)


ウネリ:そういう体験をするというのは、映画においても何においてもめずらしいことじゃないかなと自分は思うんだけど、そのときは(映画を)観ていて、楽しいものなんですか、苦しいんですか。

ウネラ:苦しかったです。観て数日は日常生活にもはっきりと影響がありましたよね。何をしてても手につかないみたいな感じで。やっぱり(映画が)終わっちゃうと、ヨンジ先生が(消えて)行っちゃうので。夢に見たりもしましたし、思い出そうとしたりもして。自分でもちょっと変かなって思うくらいになってしまいました。

「これはと思った映画は何回か観たほうがいい」とかって言うじゃないですか。でもこういうふうに跳ね返り、反動も大きい映画だったので、また観るには余裕がある時じゃないとな、と思います。今予告編を少し見ただけでも、やっぱりまたヨンジ先生を探しに行ってしまうような感じになっちゃうので…。

ウネリ:正直言って自分はウネラさんの幼かった頃の経験とかを聞いているだけに、一緒に観ていて「本当にこれ(観て)大丈夫かな」「ここまで表現されてる映画を見て大丈夫かな」とは思いました。作りもののレベルじゃないですもんね。

そのナイフの刃の鋭さというか、触れたら切れるような映画なので。

はじめに「大人がこんなに感情移入できるのか」という言い方をしたのは、自分がこの映画の世界をどこか他人事ととらえている部分があるからだと思うんです。でもこの鋭利なナイフを、本当に自分のこととして、自分のなかに取り込んでしまったら、いろんなところを切られてしまうんじゃないかって。そんなふうに感じる作品なんです。

だから本当にウネラさんを見ていて、ちょっと大丈夫かなと思いました。でも、プラスの側面もあるんじゃないですか。映画を観ることによって気づくことや、観たあとに考えたり、こうして語ったりすることで整理がつくことというのは、ないですか。

ウネラ:それはあると思います。兄が倒れたのは私が小4の時で、亡くなったのが中2の時です。それから20年以上経って、ようやくその時のことを振り返れるようになった。これまでその過去を全く見てこなかったわけではなかったのですが、まともに見ようとすると混乱してしまう。わからない、理解できないことが山ほどあって、難題なんです。

わからないのは今も同じなんですけど、わからないなりにある程度冷静に「あれは何だったのか」と、その時起こっていたことについて考えることができるレベルにはなってきたと思うんです。

今回映画を観て特異な反応が出たことがなぜなのか考えていくと、やはり自分の過去の問題が立ちはだかってきます。振り返らざるを得ない過去を見ることになりました。

「はちどり」という映画が結果として、重大な過去の問題に私を向き合わせる装置として働いた気がします。

また、あれほど作品を観て動揺しながらも、こうしていろいろ考えることができていますから、今を生きながらも過去を見るということが、苦しいけれどできるようになったという実感も与えてもらったように思います。

ウニが、ヨンジ先生への手紙に書いた言葉だったでしょうか、「いつか私の人生も輝くでしょうか」と。子ども時代から本当に最近までは、そんな気持ちが強くありました。しかも私の場合は「そんなこと、あるのだろうか」と懐疑的な意味でです。人生の前半というか最初のほうにいろんなことが詰め込まれてしまって、消化できないままきてしまった感じなんですよね。今37歳でこれから何年生きるかわからないし、「人生の前半」などと言ったら年輩の方々には笑われてしまうかもしれませんが。

なんか、完全に自分語りになっちゃった。すみません。

映画『はちどり』公式サイトより

ウネリ:いいんだと思うよ「自分語り」で。

ウネラ:ウネリさんはどう思いましたか?

ウネリ:今回初めて聞いて印象深かったのは、ヨンジ先生のなかにも自分と重なる部分があるんじゃないかとウネラさんが言っていた点(前半記事参照)です。明るい光が見えたと強く思いましたね。

さっき(前半記事内)で言っていたふたりが夜の公園で話すシーン、「自分のこと嫌いになったことありますか」とウニが尋ねて先生が「もう何度も」と答えるところがありますよね。想像するに、少女時代のウネラさんは、そのシーンに出てくるウニのような感じだったんだろうと思うんです。でも逆に、大人になった今のウネラさんは、ヨンジ先生のような受け答えをするだろうな、とも思えるんです。ヨンジ先生みたいな受け止め方というのは、誰もができるわけじゃないと思います。でも、そういうことができる人に、ウネラさんは今なれているんじゃないかな。

自分が探し求めていた支え、理想の人みたいなものっていうのは、20年前ウネラさんのすぐそばにはいなかったのかもしれないけど、自分が大人になるなかで、自分自身がそういう人になってきているのではないかと思うんです。それは、誰か同じように寂しい思いをしてる人がいたら、ウネラさんはヨンジ先生のような存在になれるという意味でもあるし、寂しかった時代のウネラさん自身への救いにも、かたちを変えてなるのではないか。そういう希望のようなものを少し感じました。

作品自体について言えば、とにかくひとつひとつの描写が洗練されている印象です。

たとえばヨンジ先生とウニが出会うシーン。自己紹介の時にウニが「漫画が好きです」と言ったらヨンジ先生が「私も漫画は好き」と。もう、それだけ。知らない人同士っていうのはそうやって、お互いの価値観がわからないなかで、それを少しずつ小出しにしながら自分との共通点を探りながら仲良くなっていくわけで、そういうこともその数秒の場面に凝縮して語ってしまっている。その演出の力強さは強烈なものを感じます。

映画『はちどり』公式サイトより

ウネラ:本当にそうだね。

ウネリ:言い出せばキリがないけど、大げさなことは何もないんだけれど、すべてが濃密で、集中して見ざるを得ないような映画になっていますよね。

ウネラ:本当に作りものっぽくないんだよね。ウニの両親がけっこう激しい喧嘩をするところがあるじゃないですか。とてもハラハラしました。でも翌日起きてきたら、その父と母がなんか肩並べて一緒にテレビ見て笑ってたりするんですよね。ああいうのは、「はあ~、そうなんだよな~」なんて妙に思ってしまいました。で、それをずっと見てるウニの冷えた視線もすごくよく描かれていて、はっとします。

ウネリ: そうそう。たぶんキム・ボラ監督という人は、自分の子ども時代の記憶をとても大切にして生きてきた人なのだろうなと思います。

それは別に良い思い出だけじゃないっていうことは、映画を見れば一目瞭然です。それでも、それも自分の人生の一部として、忘れないようにしてきたんだろうなと感じます。

友だち同士でけなしあったり裏切ったり、すごくむしゃくしゃしている時に大音量で部屋のスピーカーで音楽をかけて足を踏み鳴らしたり…というウニの言動を見ていると、この監督もきっとそうしたんだろうなと思うし、自分にもそういうことがあったと思い出すところもあります。

そういうところをなぜあそこまでリアルに描けるのかと言えば、監督がその頃の記憶を自分の中に大事にしまっておいているからだと思います。その点に関しては脱帽する思いがあります。「自分の子ども時代」というのは、少年少女を主人公にした作品を作る上では、欠かせない要素のひとつなんじゃないでしょうか。

昔読んだ尾崎真理子さんが書いた石井桃子さんの評伝のなかに、フランスの作家ル・クレジオの言葉が紹介されていました。

 人は、読んだ本や話してもらったり耳にしたりしたお話も含めて、人生の最初の何年かのあいだに経験したことに大きく左右されるのです。そういったものこそが、本当の使命を人に授けてくれるのです。(中略)残りの人生の意義はたぶん、虎にならなければならないあの虎みたいに、この時期を再構築することにあるのかもしれません。(ル・クレジオ、インタビュー「探求の文学」)

尾崎真理子『ひみつの王国―評伝 石井桃子―』(新潮社)より

非常に印象深い言葉でした。自分の子どもの頃の経験、記憶を大事に持って生きていくということは、やはり重要なんだと思います。

自分なんかはわりと中学時代のことを、家族にも友人にも恵まれて良い思い出も多かったと思っているんだけど、正直言ってその時期のことがだんだん薄らいできている、忘れてきてしまっている部分もあります。この映画を観て「そうだこういう感覚だった」「この年の頃ってこういうことあるよな」と思い出していました。

今、これまでやってきた新聞記者ということだけじゃなくて、もっといろんな表現方法を模索している時なんです。そういうことに挑戦する上でも、自分の子ども時代の感覚とか十代の頃、ローティーンの頃の感覚みたいなものっていうのを、もっとちゃんと思い出したい。それを思い出さなければ表現できないもの、到達できないものがあるような気がする。そんな思いを抱きました。

(終わり)

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