子どもの「問い」

renrakucho

ウネラのブログ2020年2月3日掲載の記事より。一部加筆、修正。

ちょっと真面目な話

 今月のはじめ、勝浦へ家族旅行に行った帰りの車中でのことです。
小学二年の長男がふいに
「産んだら必ずその子どもを愛せるの?」
とたずねてきました。

 前後に関連する話をしていたわけではなく、にぎやかで明るい雰囲気の車中だったので、重い問いかけに少し驚きました。

 ただ、こうしたことはめずらしいことでもありません。

 子どもって根源的で、深遠な問いを、本当に唐突に投げかけてきますよね。

 その問いとまともに取っ組み合っていると、私なんかは、たちまち気が滅入ってくることがあります。

 誠実に答えようとすればするほど、その問いに自分の答えが出ていないことや、問うこと自体を避けてきたという事実を、いやというほど思い知らされるからです。

 大切なことを放り出してきたような気まずさ、まともな答えを持たないいら立ち。

 「また面倒なこと聞いてきましたなあ…」
というのが、正直なところです。

 散らかしっぱなしにしてきた引き出しの中身を突然引っ張り出してこられたような、そしてその中身を「今ここで」きちんと片づけるよう迫られているような、そんな感じがして、やけにつらい。

 ただでさえ、三人の子育てであっぷあっぷですから、場合によっては上手に受け流すことも必要なのかもしれません。

子どもの問いとどう向き合うか

 ただし個人的には、この手の根源的な問いが投げかけられたとき「とりあわない」「答えない」はなしだと思っています。

 質問してくる子どもは、小さいながら、一生かかっても答えが出せるかどうかわからない壮大な「問い」に取り組んでいる(のかもしれません)。
頭の中は、もやもやでいっぱいになっているかもしれません。不安で胸がつぶれそうになっているかもしれません。そんなことはまったく考えすぎで、「なんとなく」思いついたことかもしれません。

 いずれにしても、その問いは自分のなかだけでは答えが出ない。だから、誰かに尋ねたのでしょう。


 誰かに「問いかける」ことによって、自分で抱えきれなくなった問題を、なんとかとらえたい、つかまえたい。

 子どもが何かを問う姿には、切実で正直な探求を感じます。

 そういった問いかけに応じることを拒否してしまったら、どうだろうか、と考えます。

 「わからない」「そんなことまだ考えなくていい」「そんなこと考えても意味ない」……あるいは無視。そんなふうに答えそうになったこと、数え切れません。余裕、ないですもん。

 下の子の世話に忙しく
「いまそういうこと聞かないで!」
なんて言っちゃったことは、たくさんあります。

 なんだか、泣きたかった。今も思い出して泣きそうです。

 だけど、やっぱり、つたなくても、問いかけてきてくれたことにはできる限り応答すべきだというのが私の考えです。

 応答を拒否されてしまったら、子どもはたぶん、何かを問いかけることをだんだんしなくなってしまうのではないか。答えの出ないような、抱えきれない問題を考え抜くことも、だんだんしなくなってしまうのではないかと思うのです。

「聞かなきゃよかった」
「聞いちゃいけない(考えることもいけない)ことだったのかな」

 もちろん、子どもがみんなそうなるといいたいわけではありませんし、そうではないと思います。ただ、自分自身もそうなった経験があります。

「難しいことばかり考えるもんでない」
「考えすぎ」

 切実な問題を問うたとき、家族にこんなふうに言われ、子どもながらにどうにも悲しいような、情けないような気分になったことを覚えています。

 家族は、とても忙しかった。今ならわかります。

 けれど私はだんだん、そういった「問い」を家族に投げかけることはしなくなりました。

魔法の言葉

 こういったことに悩んでいた時、ある方が、私にすてきなことを教えてくれました。

 その方は通称「くまおばさん」。長年子どもたちに絵本やわらべ歌を聞かせる活動する傍ら、自宅そばの小さな私設文庫で、親たちにも交流の場を開いてくださっていました。

 あるとき、小さな子を持つ親御さんがくまおばさんに
「子どもの『何?』『なぜ?』の質問攻めに、疲れてしまう」
と相談していました。私もまったく同じような思いでいました。

 くまおばさんは、こともなげに言いました。


「無理に答えようとしなくていいんじゃないかしら。『あなたはどう思う?』って聞き返してみたら」

 目から鱗でした。胸のつかえがとれていくように感じたのを、今でもはっきり覚えています。

 それまでは私は、子どもから唐突に飛んでくる問いに手が負えず、いら立っていました。なにか、自分のところで適切に処理しなければならないもののように、思い込んでいたのかもしれません。

 投げかけられた問いを重い荷物のように抱え込むのではなく、いったんきちんと受け止めたら、また投げ返してしまえばいい。

 そう言われてみると、とても気が楽になると同時に、そうして何度も何度も繰り返されるやり取りこそが、何にもかえがたいもののように、思えてきました。

 心も体も余裕がなく、自分ではなかなか、そうした考えにたどりつけなかったと思います。

 「あなたはどう思う?」は、実際、魔法の言葉でした。
それ以降、子どもの問いを、だいぶ(前とくらべれば)しなやかに受け入れられるようになった気がします。

問いの重要性

 あなたはどう思う?」のあとに続くやりとりは、本当に豊かです。
子どもが考えていることは、親の想像などははるかに超えて、宇宙的。

 それを受けて、また私のほうでも固い頭をなんとかひねって、あれこれめぐらせた考えを子に伝えます。それにまた子どもが何か言って…の繰り返し。

 最終的には、子どもが「ふーん」とか「へー」とか言って、その話をおしまいにしてしまうことが多いです。

費やす時間に対し、あっけない最後ですが、それでいいと思っています。

 そのときはいったんおしまいになっても、そのやりとりは子どもの頭か心か、どこかの引き出しに入ったよね、などと思って、満足しています。

 もちろん、私自身にも同じことが言えて、それは先に述べたように、人と人との、かけがえのないやりとりなのだと考えています。

 長くなりましたが、この子どもの問いに関する問題については日ごろその重要性についてわりと真剣に考えていることでもあり、今後も折にふれて書いていきたいと思っています。

 くまおばさんが教えてくれた「あなたはどう思う?」式のコミュニケーションは、子どもに限らず、むしろ多くの大人、社会全般に必要なものなのだと思います。

 けれど、それがずいぶん蔑ろにされている。そんなふうに思っています。

 長い割に消化不良感のある文章でした。

 大切だと感じていることだからこそ、今後長い時間をかけて、ゆっくり消化していきたいと思います。

ちなみに

 冒頭の長男の問いです。内心動揺し、どう答えたらいいのか逡巡はあったのですが、あまり間を置かず
「そうとは限らないと思うよ。長男はどう思う?」
と答えました。

 するとその後、話は(生意気になってきた)弟ふたりの世話がしんどい、かわいく思えない、という話に展開していき、「それは大変だと思う」「いつもかわいいとは思えないだろう」といった月並みなやり取りに終始したのち、またぷつんとおしまいになりました。

 質問の意図が本当にそこ(兄弟関係)にあったのかは、わからないし、確かめようもありません。そこに親としては一抹の不安がないでもありません。

 けれど、不穏な問いから始まった少しのやり取りは、やはりかけがえのないものだったと思い出しつつ、ここに記録しておきます。

 

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