恐らくだれも覚えていないと思いますが、前に約束してしまった手前、このことも書かなければいけませんな。初めて印刷所に行ったときのことです。陳腐な表現で相済みませんが、時計の針を少し巻き戻しまして、今年の10月ごろのことでございます。

 家から歩いて数分のところに印刷所はあります。例によってこどもを保育園へ送り届けた後、「いんでざいん」で最後の手直しを終えた私たちは、不愛想なねずみ色をした建物の呼び鈴をおずおずと鳴らしたのでした。

 出迎えてくれたのは、皆さんにもお馴染みのねむ田さんです。ねむけ眼で社屋二階の応接室に入れてもらい、熱いお茶をいただいて待つこと数秒、ねむ田さんとともに初老の紳士が部屋に入ってこられました。

 紳士と言ったのは、紳士服を着ていたというだけの理由でございます。胴着も含めた三つ揃えでございました。髪型は今では珍しいきのこ型。ここではムッシュと呼ばせていただきましょう。予想通りというか意外というか、このムッシュさんが印刷所の社長さんでした。

 形ばかりの挨拶を交わし、氏名と連絡先が書いてある手のひら大の厚紙を交換した後、いよいよ本題となりました。4人掛けの卓の向こう側にムッシュとねむ田さん。こちらはいつもの、うねりうねら。こういう二対二の対局となりました。

 実は私たち、とても緊張しておりました。身を名古屋城のしゃちほこのように強張らせておりました。心臓ばくばく。ばくに夢を食べられてしまいそうな気持ちでした。

 というのも、二人でつくった装丁を他人様に見てもらうのが初めてだったからです。「まるちでざいなー」のMr.Tが洋酒片手の時にちらっと見てもらったことはありますが、この道の専門家の方に(T氏も専門家ですが)仕事もーどで見てもらうのは初めてだったのです。

 うねりは新聞社にいた頃から上司や取材先に怒られっぱなしだからまだいいですが、装丁を主に手掛けるうねらは数年間仕事から離れておりましたので、正直びくついておりました。しかも誰の力も借りず、T氏に勧められて買った分厚い参考書にもほとんど目を通さず、自力で装丁をつくったのですから、どんな穴があるか、分かったもんじゃなかったのです。

 何を言われるか。厳しいことを言われたらぽきんと折れてしまいそうな心細い気持ちになっておりました。

 つくってきた表紙や文章の紙の束をムッシュに渡すか渡すまいか。清水寺の舞台の欄干で蹴鞠をする前の藤原成通のように逡巡しておりましたが、えーい、ためらっていても仕方がない。雑談の切れ間に突拍子もなく「はい、これです、どうぞー」といった感じで、越後屋がお代官様に貢物を差し出すような感じで、印字した紙束を両手でムッシュ社長に差し出したのです。

 紙の束を手にした瞬間、長年この世界で生きてきた(と思われる)ムッシュの眼鏡がきらんと光った(ような気がした)のです。じーっと読み進めたムッシュは、最後にぱらぱら漫画のように頁をめくり、こう言いました。

「いい出来栄えです。トンボも入れてくれたんですね。さすがです」

 この一言で私たちは天にも昇るような気持ちになりました。名古屋城の天守閣のしゃちほこから、城のお堀端で泳いでいる鯉のような滑らかな気分に変わりました。なにせムッシュから太鼓判を押されたのですから。業界での成功は間違いなしです。応接室の窓から札束が舞い落ちる幻影が見えたくらいです。スタンリー・キューブリックの『現金に体を張れ』のように。もしくは長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』のように。

 何はともかく、トンボでした。これを入れたのがムッシュのお眼鏡にかなったのは間違いありません。申し遅れましたが、トンボとは印刷物に入れる印のことです。印刷物を持っていっても、紙のどこからどこまでを印刷してほしいのか分かりません。「ここが中心でここが角です」というのを、十字やL字形の記号で入れておくのです。これが入っていると、ぐっと印刷物っぽくなります。

 正直言ってどっちでもいいと思っていたのですが、うねらが「まあ、入れてみるか」みたいな気持ちで家を出るほんの数分前に入れていたのです。これが決め手となりました。ゴールデンゴール、昔風に言えばサドンデスとなりました。ムッシュが「合格」と言ってくれたので、私たちの初めての本は、この印刷所から世に出してもらえることになったのです。

 ということで帰り道。緊張が解けたうねらはよろよろの千鳥足になりました。その背中を片手で支えたうねりは、ひさびさに自慢のノドを鳴らしたのです。

 ああ、しあわせのトンボよ~ 

 どこへ~

 お前は どこへ 飛んでいく~

 長渕さん、すみません。私たちうねりうねらは一体どこへ飛んでいくのでしょうか。誰かに怒られなければ、次回に続くかもしれません。

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