いま、「反出生主義」という考え方に関心をもっています。「反出生主義」とはなにか。難しいですが、ざっくり言うと
“自分は生まれてこないほうがよかったし、今後子どもをつくるつもりはない”
という考え方だと思います。それを展開させて、
“人類はみな生まれてこないほうがよいし、人類は今後いっさい子どもをつくるべきではない”
という考え方に至っている人もいるようです。
私自身は「反出生主義」に賛同しているわけではありません。しかし、こうした考え方を理解すること、この考え方に共鳴する人と十分なコミュニケーションをとることは重要だと思っています。
現代社会に横たわる「何か」が見つかるような気がしています。
そういうわけで先日、こんな本を買いました。
デイヴィッド・ベネター著『生まれてこないほうが良かった』(小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店)↓
ベネター氏は南アフリカ共和国のケープタウン大学の教授で、21世紀に入り「反出生主義」の論陣を一手に担っている哲学者だそうです。
彼の考え方を一言で言うと、
「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」
ということになります。同書9ページ、序論のところにいきなり登場する言葉です。
そして、その考え方の根幹をなす図を探すと…同書48ページにありました。こういうものです。
シナリオA (Xが存在する) |
シナリオB (Xが決して存在しない) |
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(1)
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(3)
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(2)
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(4)
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人間Xが存在する場合(シナリオA)と、けっして存在しない場合(シナリオB)の二つを想定する。
シナリオAの場合、(1)「苦痛がある」ことは「悪い」こと。
(2)「快楽がある」ことは「良い」こと。
ここまではなんとなく分かる気がします。
一方、シナリオBは難しいです。
特に、なぜ(4)が「悪い」ではなく、「悪くはない」になるのか。このあたりの理解を助ける一つの例として、ベネター氏はこんなことを書いています(同書44ページ)。
「苦痛に彩られた人生を生きている異国の住民のことを思うと確かに悲しくなる訳だが、人の住んでいないある島のことを耳にしても、もし存在していたらその島に住んでいたであろう幸福な人々のことを思って同じように悲しくなったりはしない」
食物豊富な無人島を見ても、私たちは「ああ、ここに『誰か』が住んでいたら、その『誰か』は腹いっぱい食べられて幸せだったろうになあ」と嘆き悲しむことはない、ということのようです。なので、「快楽がない」ことは、少なくとも「悪い」こと、ではない。
したがってシナリオBの場合、(3)「苦痛がない」ことは「良い」こと。
である上、 (4)「快楽がない」ことは「悪くはない」こと。
となる。
シナリオAに「悪い」状態があるのに対し、シナリオBにはそれがない。であれば、人間Xが存在しないシナリオBの方がいい。
そういうことのようです。なんとなく分かったような、分からないような感じです。
このベネター氏の考え方について、論理的に成り立っているのか、間違っているのか、哲学者の間では論争が巻き起こっているそうです。
私は哲学者ではないので、浅い感想めいたものしか言えませんが、正直言って、この話はピンときません。
なにが「苦」でなにが「快」なのか、簡単に判別できるものでしょうか。
「苦がある=悪い」「快がある=良い」と言い切れるのでしょうか。
A、Bという二つのシナリオが想定されていますが、そもそも、生きている中で「いま自分は存在しているのだろうか」と疑問に感じることはないでしょうか。「自分が存在している」という確固たる手触りがないまま生きてきた人って、結構いませんか?
脈略なく、そんなことを考えたりします。全く見当はずれな意見かもしれませんが。
このブログを読んでくださっている人の中には、「反出生主義」という言葉自体を聞いたことがなかった人もいると思います。上の図を見て、「こんなふうに考える人もいるのか」と知ることは価値のあることだと思い、付け焼き刃の知識で恥ずかしい限りですが、少し紹介してみました。
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