原告団が最大規模の原発事故集団訴訟

明日、判決

 明日9月30日、仙台高裁でとても重要な裁判の判決が言い渡されます。

 「生業を返せ、地域を返せ! 福島原発訴訟」(生業訴訟)です。

 事故の損害賠償をめぐる集団訴訟は全国約30カ所の裁判所で行われていますが、この生業訴訟は原告の数が3000人を超えるという、最大規模の裁判になります。

 とても重要なことなので、まだ福島で活動を始めたばかり、右も左も分からない状態ではありますが、判決の日は私も取材させてもらう予定です。そこで今回は、にわか勉強ながら、この訴訟のポイントについて書いてみようと思います。

生業訴訟とは

 まず、この訴訟をおおまかに説明します。

●原告 福島、宮城、茨城、栃木の住民ら3000人超

●被告 国と東電

●請求内容 

 ①放射性物質に汚染された土地を元に戻すこと(原状回復)

 ②震災後、平穏な日々を奪われたことへの慰謝料(平穏生活権侵害)

 ③強制避難させられた人が、これまでの生活や地域との関わりのすべてを奪われたことへの慰謝料(「ふるさと喪失」)

●一審、福島地裁判決(2017年10月)の内容

 福島地裁(金澤秀樹裁判長)は原発事故について、国の法的責任や東電の過失責任を認定。そのうえで、原告の請求のうち①と③は退けたものの、②については認め、合計約5億円の賠償を命じた。

控訴審判決のポイント

 控訴審判決のいちばん大きいポイントは何かというと、

 「一審判決に引き続き、国の責任を認めるかどうか」です。

 同種の裁判はたくさん開かれていますが、実は国の責任をめぐっては、その勝敗がちょうどトントンの状態です。


●「国の責任あり」とした地裁判決

前橋 2017年3月
福島 2017年10月
     ※今回の訴訟
京都 2018年3月
東京 2018年3月
横浜 2019年2月
松山 2019年3月
札幌 2020年3月

●「国の責任なし」とした地裁判決

千葉2017年9月
千葉第二陣2019年3月
名古屋2019年8月
山形2019年12月
福岡2020年6月
仙台2020年8月

 7対6。若干、国の責任を認めた判決が多い、という印象です。

 しかし懸念材料もあります。上の表をよく見ると、2019年以降は3対5と、住民側が負け越しているのです。特に最近は福岡、仙台で連敗しています。この流れがいかに影響するかが気になります。

 上にあげた13件はすべて一審、地裁段階での判決でした。控訴審、高裁段階で国の責任の有無への判断が示されるのは、今回が初めてです。だから重要なのです。

 生業訴訟の控訴審判決は、原発事故への国の責任をめぐる司法判断の流れを決める可能性があります。上に挙げた千葉、前橋の裁判も来年に控訴審(東京高裁)判決が予定されていますが、この二つの裁判の原告弁護団は、実は今回の生業訴訟の弁護団とスクラムを組んでいます。生業訴訟の勝敗は、続く2件の訴訟の帰趨を占う意味でも、とても大切になります。

国の責任が認められたら

 では、国の責任が認められるとどうなるか。

(ここからは原発事故の賠償問題に詳しい除本理史・大阪市立大学教授の著書で学んだ内容ですが、もちろん文章上の責任はすべて私にあります。)

 おさらいになりますが、現在国は、福島原発事故を未然に防げなかった法的責任を認めていません。国が認めているのは「社会的責任」です。

福島復興再生特別措置法第1条

 この法律は、原子力災害により深刻かつ多大な被害を受けた福島の復興及び再生が、その置かれた特殊な諸事情とこれまで原子力政策を推進してきたことに伴う国の社会的な責任を踏まえて行われるべきものであることに鑑み、(中略)東日本大震災からの復興の円滑かつ迅速な推進と活力ある日本の再生に資することを目的とする。

 これをかみくだくと、こんな感じでしょうか?

【自分たち(国)が悪かったわけじゃないけど、原子力政策を進めてきた手前、事故にも対処しなければいけないな】

 しかし、「法的責任」が裁判所に認められれば、事態は変わります。

 法的責任があるということは、国が原発事故の「加害者」だということです。そうなれば、原発事故への対応は、「行政府の社会的責任としてやらなければいけないこと」というレベルではなく、「加害者としての責任をかみしめながら被害者に対して行う“償い”」というレベルになります。

 当然、その真剣味について、再考を迫られることになるでしょう。

「中間指針」の見直しへ

 まず見直すべきは、被害者への賠償スキームです。これまで実施されてきた事故被害者への賠償基準は、以下のような流れでつくられました。

 国の原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)が「中間指針」を策定

    ↓

 「中間指針」に基づき、東電が自主的基準を作成

    ↓

 東電が窓口を設け、被害者から賠償申し込みを受け付ける

 つまり、賠償スキームのおおもとを決めたのは、国です。その国が、実は「加害者」であるということになれば、どうなるか。当然、加害者たちだけで作り上げた基準を、どうして受け入れなければならないのかという話になります。被害者である住民側代表などもメンバーに加えたうえで、原賠審をやり直し、中間指針の見直しに取り組むのが当然のスジというものでしょう。

 ですが最近、こんな記事が地元紙・福島民友に載りました。

中間指針見直し当面不要 原賠審

 「原子力損害賠償紛争審査会は24日、オンラインで会合を開き、市町村などが要望する中間指針の見直しについて、当面は不要との見解を示した……」

 「当面は」と書いてありますが、いや、あり得ない。高齢の住民もいます。時間は限られているので、少なくとも生業訴訟の控訴審判決が出たら、すぐにでも見直しに取り組む必要があると思います。

除染などの政策にも影響か

 損害賠償だけでなく、除染などの政策にも「国の法的責任」は影響してくると思います。

 政府は2021年度からの5年間で、復興拠点外の帰還困難区域への対応には約1千億円の予算しか確保していません

 これでいいのでしょうか?

 現時点で復興拠点に入っていない地域は、除染するかどうか等の方針が決まっていません。国は費用対効果の問題を考えているのだと思います。もし国に「行政府としての社会的責任」しかないとしたら、除染などの費用と他の事業にかかるお金とを天秤にかけることができるかもしれません。しかし、国が事故の損害を「償う」立場だとしたら、どうなるでしょうか?

 最優先事項として予算を投入すべきではないでしょうか。

 駆け足になりましたが、以上が「国の責任」についての今回の裁判のポイントです。もちろん、原告たちへの損害賠償額が上積みされるかも重要なポイントになります。

 明日仙台高裁で判決が言い渡される生業訴訟は、3千人超の原告たちだけでなく、原告に加わっていない事故被害者の皆さんも含めた多くの方々に影響をおよぼすと私は思います。

 どんな判決になるか、注視したいと思います。

映画「はちどり」について(下)

 映画「はちどり」を観てウネラに起こった不思議な体験について、ウネリ、ウネラのふたりで話し合ってみました。今日は後半。前半の記事はこちらです→映画「はちどり」について(上)


ウネリ:そういう体験をするというのは、映画においても何においてもめずらしいことじゃないかなと自分は思うんだけど、そのときは(映画を)観ていて、楽しいものなんですか、苦しいんですか。

ウネラ:苦しかったです。観て数日は日常生活にもはっきりと影響がありましたよね。何をしてても手につかないみたいな感じで。やっぱり(映画が)終わっちゃうと、ヨンジ先生が(消えて)行っちゃうので。夢に見たりもしましたし、思い出そうとしたりもして。自分でもちょっと変かなって思うくらいになってしまいました。

「これはと思った映画は何回か観たほうがいい」とかって言うじゃないですか。でもこういうふうに跳ね返り、反動も大きい映画だったので、また観るには余裕がある時じゃないとな、と思います。今予告編を少し見ただけでも、やっぱりまたヨンジ先生を探しに行ってしまうような感じになっちゃうので…。

ウネリ:正直言って自分はウネラさんの幼かった頃の経験とかを聞いているだけに、一緒に観ていて「本当にこれ(観て)大丈夫かな」「ここまで表現されてる映画を見て大丈夫かな」とは思いました。作りもののレベルじゃないですもんね。

そのナイフの刃の鋭さというか、触れたら切れるような映画なので。

はじめに「大人がこんなに感情移入できるのか」という言い方をしたのは、自分がこの映画の世界をどこか他人事ととらえている部分があるからだと思うんです。でもこの鋭利なナイフを、本当に自分のこととして、自分のなかに取り込んでしまったら、いろんなところを切られてしまうんじゃないかって。そんなふうに感じる作品なんです。

だから本当にウネラさんを見ていて、ちょっと大丈夫かなと思いました。でも、プラスの側面もあるんじゃないですか。映画を観ることによって気づくことや、観たあとに考えたり、こうして語ったりすることで整理がつくことというのは、ないですか。

ウネラ:それはあると思います。兄が倒れたのは私が小4の時で、亡くなったのが中2の時です。それから20年以上経って、ようやくその時のことを振り返れるようになった。これまでその過去を全く見てこなかったわけではなかったのですが、まともに見ようとすると混乱してしまう。わからない、理解できないことが山ほどあって、難題なんです。

わからないのは今も同じなんですけど、わからないなりにある程度冷静に「あれは何だったのか」と、その時起こっていたことについて考えることができるレベルにはなってきたと思うんです。

今回映画を観て特異な反応が出たことがなぜなのか考えていくと、やはり自分の過去の問題が立ちはだかってきます。振り返らざるを得ない過去を見ることになりました。

「はちどり」という映画が結果として、重大な過去の問題に私を向き合わせる装置として働いた気がします。

また、あれほど作品を観て動揺しながらも、こうしていろいろ考えることができていますから、今を生きながらも過去を見るということが、苦しいけれどできるようになったという実感も与えてもらったように思います。

ウニが、ヨンジ先生への手紙に書いた言葉だったでしょうか、「いつか私の人生も輝くでしょうか」と。子ども時代から本当に最近までは、そんな気持ちが強くありました。しかも私の場合は「そんなこと、あるのだろうか」と懐疑的な意味でです。人生の前半というか最初のほうにいろんなことが詰め込まれてしまって、消化できないままきてしまった感じなんですよね。今37歳でこれから何年生きるかわからないし、「人生の前半」などと言ったら年輩の方々には笑われてしまうかもしれませんが。

なんか、完全に自分語りになっちゃった。すみません。

映画『はちどり』公式サイトより

ウネリ:いいんだと思うよ「自分語り」で。

ウネラ:ウネリさんはどう思いましたか?

ウネリ:今回初めて聞いて印象深かったのは、ヨンジ先生のなかにも自分と重なる部分があるんじゃないかとウネラさんが言っていた点(前半記事参照)です。明るい光が見えたと強く思いましたね。

さっき(前半記事内)で言っていたふたりが夜の公園で話すシーン、「自分のこと嫌いになったことありますか」とウニが尋ねて先生が「もう何度も」と答えるところがありますよね。想像するに、少女時代のウネラさんは、そのシーンに出てくるウニのような感じだったんだろうと思うんです。でも逆に、大人になった今のウネラさんは、ヨンジ先生のような受け答えをするだろうな、とも思えるんです。ヨンジ先生みたいな受け止め方というのは、誰もができるわけじゃないと思います。でも、そういうことができる人に、ウネラさんは今なれているんじゃないかな。

自分が探し求めていた支え、理想の人みたいなものっていうのは、20年前ウネラさんのすぐそばにはいなかったのかもしれないけど、自分が大人になるなかで、自分自身がそういう人になってきているのではないかと思うんです。それは、誰か同じように寂しい思いをしてる人がいたら、ウネラさんはヨンジ先生のような存在になれるという意味でもあるし、寂しかった時代のウネラさん自身への救いにも、かたちを変えてなるのではないか。そういう希望のようなものを少し感じました。

作品自体について言えば、とにかくひとつひとつの描写が洗練されている印象です。

たとえばヨンジ先生とウニが出会うシーン。自己紹介の時にウニが「漫画が好きです」と言ったらヨンジ先生が「私も漫画は好き」と。もう、それだけ。知らない人同士っていうのはそうやって、お互いの価値観がわからないなかで、それを少しずつ小出しにしながら自分との共通点を探りながら仲良くなっていくわけで、そういうこともその数秒の場面に凝縮して語ってしまっている。その演出の力強さは強烈なものを感じます。

映画『はちどり』公式サイトより

ウネラ:本当にそうだね。

ウネリ:言い出せばキリがないけど、大げさなことは何もないんだけれど、すべてが濃密で、集中して見ざるを得ないような映画になっていますよね。

ウネラ:本当に作りものっぽくないんだよね。ウニの両親がけっこう激しい喧嘩をするところがあるじゃないですか。とてもハラハラしました。でも翌日起きてきたら、その父と母がなんか肩並べて一緒にテレビ見て笑ってたりするんですよね。ああいうのは、「はあ~、そうなんだよな~」なんて妙に思ってしまいました。で、それをずっと見てるウニの冷えた視線もすごくよく描かれていて、はっとします。

ウネリ: そうそう。たぶんキム・ボラ監督という人は、自分の子ども時代の記憶をとても大切にして生きてきた人なのだろうなと思います。

それは別に良い思い出だけじゃないっていうことは、映画を見れば一目瞭然です。それでも、それも自分の人生の一部として、忘れないようにしてきたんだろうなと感じます。

友だち同士でけなしあったり裏切ったり、すごくむしゃくしゃしている時に大音量で部屋のスピーカーで音楽をかけて足を踏み鳴らしたり…というウニの言動を見ていると、この監督もきっとそうしたんだろうなと思うし、自分にもそういうことがあったと思い出すところもあります。

そういうところをなぜあそこまでリアルに描けるのかと言えば、監督がその頃の記憶を自分の中に大事にしまっておいているからだと思います。その点に関しては脱帽する思いがあります。「自分の子ども時代」というのは、少年少女を主人公にした作品を作る上では、欠かせない要素のひとつなんじゃないでしょうか。

昔読んだ尾崎真理子さんが書いた石井桃子さんの評伝のなかに、フランスの作家ル・クレジオの言葉が紹介されていました。

 人は、読んだ本や話してもらったり耳にしたりしたお話も含めて、人生の最初の何年かのあいだに経験したことに大きく左右されるのです。そういったものこそが、本当の使命を人に授けてくれるのです。(中略)残りの人生の意義はたぶん、虎にならなければならないあの虎みたいに、この時期を再構築することにあるのかもしれません。(ル・クレジオ、インタビュー「探求の文学」)

尾崎真理子『ひみつの王国―評伝 石井桃子―』(新潮社)より

非常に印象深い言葉でした。自分の子どもの頃の経験、記憶を大事に持って生きていくということは、やはり重要なんだと思います。

自分なんかはわりと中学時代のことを、家族にも友人にも恵まれて良い思い出も多かったと思っているんだけど、正直言ってその時期のことがだんだん薄らいできている、忘れてきてしまっている部分もあります。この映画を観て「そうだこういう感覚だった」「この年の頃ってこういうことあるよな」と思い出していました。

今、これまでやってきた新聞記者ということだけじゃなくて、もっといろんな表現方法を模索している時なんです。そういうことに挑戦する上でも、自分の子ども時代の感覚とか十代の頃、ローティーンの頃の感覚みたいなものっていうのを、もっとちゃんと思い出したい。それを思い出さなければ表現できないもの、到達できないものがあるような気がする。そんな思いを抱きました。

(終わり)

映画「はちどり」について(上)

ウネリ:久しぶりの対談ですね。今日は私たちが大変衝撃を受けた映画「はちどり」(キム・ボラ監督)について話をしたいと思います。この映画を観て、ウネラさんは自身でも「初めて」という不思議な体験をしたそうです。とても興味深い内容だったので、今回は上・下2回に分けて配信してみたいと思います。

ウネラ:はい。お願いします。

※作品のストーリーについて踏み込んで話しているので、映画をこれから観る方は、お気をつけください。

【あらすじ】

1994 年、ソウル。家族と集合団地で暮らす14歳のウニは、学校に馴染めず、 別の学校に通う親友と遊んだり、男子学生や後輩女子とデートをしたりして過ごしていた。 両親は小さな店を必死に切り盛りし、 子供達の心の動きと向き合う余裕がない。ウニは、自分に無関心な大人に囲まれ、孤独な思いを抱えていた。

ある日、通っていた漢文塾に女性教師のヨンジがやってくる。ウニは、 自分の話に耳を傾けてくれるヨンジに次第に心を開いていく。ヨンジは、 ウニにとって初めて自分の人生を気にかけてくれる大人だった。 ある朝、ソンス大橋崩落の知らせが入る。それは、いつも姉が乗るバスが橋を通過する時間帯だった。 ほどなくして、ウニのもとにヨンジから一通の手紙と小包が届く。

映画『はちどり』公式サイトより
映画『はちどり』公式サイトより

ウネリ:私たちが大変お世話になっているある映画通の方から「今年の上半期ベスト」と紹介されたことに触発され、劇場に観に行きました。先に感想をひと言で言ってしまえば、素晴らしい映画でした。私自身、観ていて相当ヒリヒリした感覚をおぼえて「中学生の女の子の気持ちにここまで感情移入できる作品があるのか」と心底驚きました。ウネラさんの感想はいかがですか。

ウネラ:これまで映画を観てきた中で初めての、とても不思議な体験をしたんですよ。

この映画はフィクションだし、出てくる俳優さんたちも、私からするとみんな初めて見る人です。私はシネフィルじゃないですし、韓国映画にも詳しくないし。

でも、その中の登場人物のひとりである「ヨンジ先生」を見たときに……見ているというか、映画の中で出会ったというか、「見つけた」というか。もうずっと昔に出会っていた知っている人であるような、一方で、ずっと自分が探し続けている人であるような、どうにも不思議な感覚に陥ってしまったんですね。ヨンジ先生が出てきてから以降は、物語が進行しているさなかにも、ヨンジ先生を思い出して泣いてしまうようなことになってしまって。そういう映画体験は初めてだったので、戸惑いました。

ウネリ:ヨンジ先生は、主人公のウニが通う漢文の塾で出会って慕うようになる先生だよね。

映画『はちどり』公式サイトより

確認したいんだけど、そのヨンジ先生のことをウネラさん自身は「昔この先生に会ったことがあるんじゃないか」「自分の人生の中の実在の人物なんじゃないか」というふうにも思えた一方で、自分の人生にこういう人はいなかったんだけれども「こういう人がいたらいいな」とずっと頭で思い描いて生きてきたような気がするという、両方の感覚があるということでしょうか。

ウネラ:そう、なんでしょうかねえ…

いずれにしても、非常に自分が求めてきた人、必要としてきた人、こういう人があってほしい、この人が私のそばにあって欲しいと強く思っていたような人だったのかな。今この話をしながらヨンジ先生を思い出すだけでも、胸が詰まるようなところがあります。

ウネリ:主人公のウニという女の子は、男性中心の社会の中にあって家庭の中であまり重視されない、自分にあまり関心を払われない状況にいて、思春期特有の悩みなどもある中で孤独感を抱えている女性だと思うんですが、そこと自分の子ども時代が重なるところはあるんですか。

ウネラ:私はさほど男尊女卑的な環境で育ったわけでもなければ、学歴主義を押し付けられたことも、むしろなかったです。

ただウニと同年代の時期、個人的に兄が病気で、一時的に両親と非常に距離が遠くなっていた、一緒に過ごす時間も極端に短くなっていたということはあります。今思えば、寂しさというか、もう少し自分に関心を払ってもらいたかったという気持ちはあったんでしょうね。それを出せるような状況ではなかったので「今思えば」なんですけど。

病気の兄っていうのは脳死の状態だったんです。非常に難しい状態を生きている兄を前にして、自分は誰に言われるというわけではなく、おのずから「兄の身代わり」的に振る舞ってしまう。そういう時期だったんですね。

たとえば自分はたいして運動が好きでもないけど、兄が好きだったバスケットボールを始めたり。バスケはけっこうハードだから、最初はきつかったですよ。おもしろいとも思えなかった。でも「バスケやり始めた」と言ったら、張り詰めた無菌室がなんとなくなごんで、やつれた親が笑ったりするでしょう。

兄は不自由というか、意識がなく動けない状態ですから、自由に体も動く自分はもう何もかも一生懸命頑張んなきゃいけないんだ、みたいに思ってですね。親からそういうことを言われたりしたおぼえは本当に一切ないんですよ。外に出れば「お兄さんのぶんまで頑張りなさい」みたいなことを言ってくる人もいましたけど。それはもう、状況がそうさせたというか、「そうしなければならないんだ」と子ども心に思っていました。

だから、自分の人生を生きていた、というよりは兄の代わりをするように、その日その日をなんとか生きていたという感じだったのかなと、あとから思えばそういうふうに思います。自分がそういう生き方をしたことを今もまだ全然認められないというか、受容できない、どう肯定していいのかわからないんですけど、誰を責められる状況でもなかったですから。

ウネリ:自分が周囲から目を向けられていないという意味での孤独感、寂しさとか、自分が自分の人生を生きられていないことからくる抑圧。たとえばウニの場合は、韓国で女性として生きるならこうあるべきだとか、学歴のことだとかを、かなり家庭内でも社会でも押し付けられていたということが、映画からは読み取れます。背景は違うけれど、自分らしく生き切れていない、自分らしさにふたをしなければならないという意味では、ウネラさんもかなりウニと似た状況だったのかなと思いました。

それで、「ヨンジ先生が本当に自分の知り合いだ」「ヨンジ先生がいたんじゃないか」という感覚にまでなってしまったというのがすごく興味深いんだけれども。実際にはヨンジ先生はいなかった、ですよね?似た人がいた?

ウネラ:自分でも「あの人に重ねているのかな?」とかいろいろ考えてみたんですけど…いろいろなかたちで、いろいろな人が私を支えてくれていたんですよね。でも、どう考えてもヨンジ先生と重ねてしまった特定の人というのは思い当たらないんですよね。そういう感じではないんです。

むしろリアルに「ああ、この人、ここにいたのか」という感じになっちゃったわけです。けどおかしなことですよね。ヨンジ先生は韓国語を喋ってるし、私は韓国に行ったこともないし。実際には会っていないと思います。

ウネリ:ドッペルゲンガーじゃなければね。

ウネラ:そうそう。 不思議と「あの人に似てる」とかじゃなくて、「この人」なんですよね。どう言えばいいんだろう…自分でもちょっと説明ができないんですけど。そうですねえ…

それについては、まだわからないんですけど、ヨンジ先生自身が、ある時期の自分に少し似ていると感じるところもあります 。

ウネリ:ああ、確かにねえ。煙草を吸っちゃってたり。

ウネラ:(苦笑)まあそれはちょっと退廃的な感じというかね。脆いような危ういような時がありました。風貌なんかも含めて、いっときの自分に似ているようなところも、少し関係するのかもしれないですね。

ウネリ:それもあるだろうね。

ウネラ:夜の公園でウニとヨンジ先生がふたりで腰掛けて話すシーンがあります。ウニがヨンジ先生に「先生は自分が嫌になったことは?」と尋ねると、先生は少しの沈黙のあと「何度も 本当に何度も」と答える。

ヨンジ先生は「自分を好きになるには時間がかかると思う」というようなことを言いながらウニに「つらい時は指を見る」というんですよね。そして実際にその指を一本一本をゆっくりと、震えるように繊細に動かしていく。私にとって忘れられない、とても印象的で大切な場面です。

ウネリ:ウネラさん自身が、自分を受け止めてくれる存在を強く必要としている時期があった。その時期もいろんな人から支えられてはきたんだけれども、それだけではどうしても足りない、満たされていない気持ちが潜在意識下にはあって、それを満たしてくれる存在をずっと探してきたのかもしれません。

その存在は、はっきりした顔とか形とかをとっていたわけではなかった。少なくともウネラさんが意識できてはいなかったんだと思います。ところがこの映画のヨンジ先生は、そこにあまりにもぴたっとはまってしまった。今まで顔形も思い描いていなかったはずの、少女時代に自分が求めていたものの要素をすべて集めたような人が、「ヨンジ先生」としてそこにいた。だからああいう体験をしたのかなと思います。

映画『はちどり』公式サイトより

(下に続く)

 明日配信(予定)の(下)では、この映画体験が現在のウネラにとってどういう意味を持つのか、ということについて掘り下げていきます。

ベネター著『生まれてこないほうが良かった』を買ってみる

 いま、「反出生主義」という考え方に関心をもっています。「反出生主義」とはなにか。難しいですが、ざっくり言うと

“自分は生まれてこないほうがよかったし、今後子どもをつくるつもりはない”

という考え方だと思います。それを展開させて、

“人類はみな生まれてこないほうがよいし、人類は今後いっさい子どもをつくるべきではない”

という考え方に至っている人もいるようです。

 私自身は「反出生主義」に賛同しているわけではありません。しかし、こうした考え方を理解すること、この考え方に共鳴する人と十分なコミュニケーションをとることは重要だと思っています。

 現代社会に横たわる「何か」が見つかるような気がしています。

 そういうわけで先日、こんな本を買いました。

デイヴィッド・ベネター著『生まれてこないほうが良かった』(小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店)↓



 ベネター氏は南アフリカ共和国のケープタウン大学の教授で、21世紀に入り「反出生主義」の論陣を一手に担っている哲学者だそうです。

 彼の考え方を一言で言うと、

「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」

ということになります。同書9ページ、序論のところにいきなり登場する言葉です。

 そして、その考え方の根幹をなす図を探すと…同書48ページにありました。こういうものです。

シナリオA

(Xが存在する)

シナリオB

(Xが決して存在しない)

(1)

  苦痛がある
  (悪い)

 

(3)

  苦痛がない
  (良い)

 

(2)

  快楽がある
  (良い)

 

(4)

  快楽がない
 (悪くはない)

 

デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』(すずさわ書店)より

 人間Xが存在する場合(シナリオA)と、けっして存在しない場合(シナリオB)の二つを想定する。

シナリオAの場合、(1)「苦痛がある」ことは「悪い」こと。

         (2)「快楽がある」ことは「良い」こと。

ここまではなんとなく分かる気がします。

 一方、シナリオBは難しいです。

特に、なぜ(4)が「悪い」ではなく、「悪くはない」になるのか。このあたりの理解を助ける一つの例として、ベネター氏はこんなことを書いています(同書44ページ)。

「苦痛に彩られた人生を生きている異国の住民のことを思うと確かに悲しくなる訳だが、人の住んでいないある島のことを耳にしても、もし存在していたらその島に住んでいたであろう幸福な人々のことを思って同じように悲しくなったりはしない」

 食物豊富な無人島を見ても、私たちは「ああ、ここに『誰か』が住んでいたら、その『誰か』は腹いっぱい食べられて幸せだったろうになあ」と嘆き悲しむことはない、ということのようです。なので、「快楽がない」ことは、少なくとも「悪い」こと、ではない。

したがってシナリオBの場合、(3)「苦痛がない」ことは「良い」こと。

である上、         (4)「快楽がない」ことは「悪くはない」こと。

となる。

シナリオAに「悪い」状態があるのに対し、シナリオBにはそれがない。であれば、人間Xが存在しないシナリオBの方がいい。

そういうことのようです。なんとなく分かったような、分からないような感じです。

 このベネター氏の考え方について、論理的に成り立っているのか、間違っているのか、哲学者の間では論争が巻き起こっているそうです。

 私は哲学者ではないので、浅い感想めいたものしか言えませんが、正直言って、この話はピンときません。

 なにが「苦」でなにが「快」なのか、簡単に判別できるものでしょうか。

「苦がある=悪い」「快がある=良い」と言い切れるのでしょうか。

 A、Bという二つのシナリオが想定されていますが、そもそも、生きている中で「いま自分は存在しているのだろうか」と疑問に感じることはないでしょうか。「自分が存在している」という確固たる手触りがないまま生きてきた人って、結構いませんか?

 脈略なく、そんなことを考えたりします。全く見当はずれな意見かもしれませんが。

 このブログを読んでくださっている人の中には、「反出生主義」という言葉自体を聞いたことがなかった人もいると思います。上の図を見て、「こんなふうに考える人もいるのか」と知ることは価値のあることだと思い、付け焼き刃の知識で恥ずかしい限りですが、少し紹介してみました。

記事掲載のお知らせ

ウネラです。

昨日発売の「週刊金曜日」9月18日(1296)号に、ウネリこと牧内昇平の記事が掲載されています。

●リーマン・ショック以降の若者の過労死を繰り返させない「コロナ下の「雇用の危機」のあとに訪れる長時間労働やパワハラによる「危機」 牧内昇平

山形県のファミリーレストランで働いていた20代男性の過労死について、6ページにわたり書かせていただきました。取材にご協力いただいたご遺族、関係者の方々に感謝申し上げます。

男性の過酷な労働環境と、彼の生き方を見守り続けたご家族の姿を詳細に綴った上で、牧内は

労働者は単なる「労働力」ではなく、「人間」であることを再確認したい。一人ひとりが、家族をもち、趣味があり、個人の幸せを追求する権利をもっている。

「週刊金曜日」9月18日(1296号)より

と書いています。こんなことは当たり前で、わざわざ言うことではないと感じられるかもしれません。でも、この当たり前のことが、あまりにも蔑ろにされてはいないでしょうか。

亡くなった男性が、その短い人生をどう生きたのか。彼の家族は、彼とどう生きてきて、彼を失ったいまをどう生きているのか。記事を読んで感じていただけたらと思います。

掲載号はこちら

自民党総裁選に寄せて

8月28日、安倍晋三首相が辞意を表明しました。

その一報に触れて私がまず考えたのは、

「これからは民主的な世の中、民主的な政治にしなければならない」

ということです。

歴代最長、3000日近く続いてきた安倍政権を、私は評価しません。

集団的自衛権の行使容認、特定秘密保護法の制定……。大問題だったことは山ほどありますが、最も感覚的に、素朴な気持ちで「嫌だな」と感じたのは、2017年夏の「秋葉原演説」です。

一部の聴衆が「安倍やめろ」コールを起こしたのに対し、安倍首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言いました。

自分と意見が異なる人びとを「敵」とみなす。

その心の在りように、私は口をあんぐりさせてしまいました。

「”こんな人たち”発言」だけではありません。そうした彼の精神性は、国会で野党議員の質問に真剣に向き合おうとしない姿などに日常的に表れていました。

その振舞いのひとつひとつに、細かい政策の是非を超えた次元で、安倍氏には政治を行う資質がないと強く感じます。

政治とは何だろうか。あらためてそう考える時、ハンナ・アーレントの言葉には学ぶところが多いと思っています。とは言え私はアーレントの著作を十分読み込んでいるわけではありません。今は政治という大きな問いを自分なりに解きほぐすように『<政治>の危機とアーレント』(佐藤和夫著、大月書店)という良質な解説書をめくっています。

この本に、とても基本的ですが大切なことが書いてありました。

アーレントの考えた<政治>とは、“互いの違いを認め合いながら協同でこの世界をつくり上げていく営み”である。

私はこの言葉に強い説得力を感じました。

<政治>とは「話し合い」であり、互いの違いを認め合うという前提がなければ、話し合いは成り立ちません。

安倍首相は、これが決定的にできなかった。

会見でプロンプター上の文章を読み上げたり、米国の大統領とゴルフしたり、といった形式的な「政治」はできても、本当の意味での<政治>は一切できなかったのではないでしょうか。

安倍氏の言動が「分断を招く政治手法」などと批判されていますが、そもそも<政治>とは呼べぬ代物だったと、私は思います。

とはいえ、第二次安倍政権は終わるようです。

次の首相になる人には、ぜひこの<政治>の意味を考え、それを実践しようと心がけてほしいと思っています。ですが、日々ニュースを見ていると、残念な気持ちになります。

「菅氏選出強まる 自民総裁選」(9月1日付毎日新聞)

報道各社、かなり前から菅氏の次期総裁就任が決まったかのような報道ぶりです。その根拠となっているのは、旧来的な派閥間の綱引きです。細田派(98人)、麻生派(54人)が菅氏を支持する方針を固めた――。だから、菅氏に決まり。

当たり前のようにそう語られていますが、派閥が支持する候補に投票することが当然とされる世界は、本当に正しいのでしょうか。

派閥の中にも、いろいろな考えの人がいるはずです。一人ひとりが国民によって選ばれた国会議員です。

“互いの違いを認め合いながら協同でこの世界をつくり上げていく営み”

は、安倍氏とその周辺だけでなく、自民党全体として行われていないのだと思います。党員投票をしないことも、根っこは同じだと感じます。

<政治>的でない方法で選ばれた次期首相が、<政治>を行うことができるのか。はなはだ疑問です。

派閥の領袖たちによる談合で拙速に決めるのではなく、<政治>的に総裁を選ぶとしたら、それなりに時間をかける必要があります。

次期総裁候補たちを集めた徹底的な討論会を行う。意見の異なる人、「反自民」の人たちにも開かれた場で、です。そうした討論の末に、最も<政治>ができそうな候補を、総裁として選ぶ。もちろん党員投票も行う。

安倍首相は否定しましたが、私は「首相臨時代理」を置いてでも、最大限、熟議のための時間をとるべきだと思います。

こんなことは、素人のたわごとでしょうか。「よく知らずに口出しするな」との批判が聞こえてきそうです。

アーレントが考えた<政治>の意味をかみしめれば、それはバッジをつけた職業政治家たちだけに課されたものでないことは明らかです。人はみんな違うのですから、私たちは他の誰かと関わりあう以上、必ず「違いを認め合う」必要があります。

そういう意味では、誰もが<政治>的存在です。その延長線上に、「政治」はあります。誰もが自分なりに集めた知識をもとに、等身大の意見を述べるべきなのです。

そうしたメッセージもこめて、この文章を書きました。

とても重い決断

先日、私と家族にとって、とても重い決断をしました。

前の会社(朝日新聞)を辞めたとき、ほかの大手新聞社への転職が内定していました。このブログでも「10月から別の新聞社で働く予定です」と書きました。

しかし、私はその会社で働くことを断念し、いま住んでいる福島に残ることにしました。

ブログにも書き、お世話になった方々にも「秋から別の新聞で」と伝えていたので、ここに少し理由を書きます。

結論から言えば、「現状では、家族を連れて首都圏に戻ることができなかった」というのが理由です。

皆さん同じだと思いますが、この春以来、コロナ問題をめぐり、わが家のメンバーも参ってしまっていました。

特に心の病を患うパートナーのウネラは、感染への恐れに加え、感染をめぐる人々の対立や視線に神経をすり減らしました。首都圏では電車に乗れず、自宅にこもっていました。

3月下旬に福島へ引っ越しましたが、こちらも徐々に警戒ムードになりました。スーパーのレジ前の床に「ここに立ってください」とテープが貼られるとウネラはその距離に戸惑い、カートを握りしめたまま立ち尽くし、会計まで進めなくなることもありました。「気軽に医療機関へ行っていいのだろうか」と受診をためらい、持病の主治医を探し始めることも、なかなかできませんでした。タフだと思っていた子どもたちも、引っ越した直後に学校や保育園が休みになり、調子を崩してしまいました。

夏になってようやく、私たちは福島での生活になじんでいきました。

子どもたちには新しい友達ができ、言葉のイントネーションも少しずつ福島っぽくなってきました。

なにより、長年苦しんできたウネラが、少しずつ心の傷と向き合い、自分の道を歩もうとしている姿には、胸を打たれます。

6月になって信頼できる主治医が見つかり、ようやく回復へのアプローチが始まりました。その一環として、自分なりの表現活動にも取り組もうとしています。

福島で出会った人びとがあたたかく接してくれることも、大きいです。大勢知人がいるわけではありませんが、私たちの行く末を案じ、見守ってくれる人々に毎日支えられています。食べきれないくらいの野菜をいただいたり、バーベキューパーティーを開いてもらったり。一つ一つがウネラの心身にいい影響を与えています。

福島でせっかくできてきた「いい流れ」を、壊していいのか。

自分の仕事のためだけに首都圏に戻っていいのかと、私は悩みました。

大手紙に再就職すれば東京で働くことになります。当初は「それでいい」と思っていたのです。もう一度記者としての実力を試したいという気持ちがあり、家族とも話し合って前向きに決めました。

しかし、状況が変わってきました。

単身赴任も考えましたが、コロナ拡大期には新幹線でたびたび福島に戻るのが難しい。家族が一緒に過ごすことをなにより重視しているわが家にとっては、できない相談でした。

もしもこの秋に首都圏へ戻れば、家族の歩みは一旦すべてストップするでしょう。まずは子どもたちの身の回りを優先する必要もあります。恐らくウネラは、家族の生活を安定させるために自分を犠牲にすると思います。心の傷口には絆創膏を貼るだけになるでしょう。そうした生活が続けば、傷口の中は確実にうんでいきます。

先日、知人のすすめでヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン天使の詩』を見直しました。

天使たちは、空の上から人間たちの営みを見守っています。とりわけ思い悩む人たちに寄り添い、心の声を聴いてあげています。

天使は永遠の存在ですが、そのかわり自分の人生を生きることはありません。そのことを物足りなく思った一人の天使が、「自分の人生を持ちたい、自分の歴史を歩みたい」と決心し、人間になります。

人間界に降りてきたときのシーンがすばらしい。それまでモノクロだった映像がカラーに切り替わり、「元」天使は自分の体を流れる血の赤さに喜び、通りすがりの人におごってもらったコーヒーの熱さに驚く。自分の人生を持ったことを実感する。

私はウネラにも、自分の人生を生きてもらいたいと思います。

そのために最善を尽くしたい。東京で私が働けば、当面は生活に困らないかもしれない。私も記者という仕事を続けられて、その点では満足かもしれない。

しかし、家族は、ウネラはどうなるのか。

今、長いトンネルの先にようやく灯りが見え始めたのに、ここで引き返すわけにはいかない。

ということで、私は福島に残ることにしました。

コロナの感染拡大が続くことは、ある程度予想できたはずです。たった数か月のうちに自分の考えがぶれてしまったことは、よくないことだとも思います。

しかし、これ以外の選択は、私にはあり得ませんでした。

この先は五里霧中です。家族を食べさせていけるのか、正直言って不安です。責任をひしひしと感じながらも、自分自身が崩れてしまわないように、少しでも色鮮やかな日々を送りたいと思っています。

7月のブログには「これまでと変わらない問題意識で記事を書きたい」とも書きましたが、この気持ちは変わっていません。

入社予定だった会社には、義理を欠く結果となってしまいました。人事部の担当の方々は私の事情をよく理解してくれて、むしろこんな事情を抱える私をなんとか迎え入れようと、最後まで尽力してくださいました。とても感謝しております。

2020年夏 ウネリ撮影

心の容量

ものごころついたころから、自分の心のありようがうまくつかめず、失敗を重ねてきた。

いくつもの異なる物事をぎゅうぎゅうに詰め込んでもなお、心はますます躍動し続けることもあれば、たったひとつのことが、あっという間にその全体を占め、簡単に決壊してしまうこともある。

今私の心の空き容量はどれくらいで、どれくらいのことならば受け止めることができるのか。その調節がうまくできず、そのことをずっと、とても厄介に感じている。

多くの人たちが、そうだろうか。

昨日の夕方、自宅へ帰る信号待ちの車内で、8歳の長男がぽつと言った。

「ひみつがあると、なんか心の中がせまくなっちゃうんだよね」

すうっと、何かを突き付けられるような気がした。

身のまわりのものは散らかし放題の長男だが、自分の心のスペースについては、はっきり把握できているのだろうか。不思議だったが、その語り口はごく自然だった。

――今みたいなこと、書いておくといいよ。

そんなことを思っていると、運転席から夫が言った。

「ああ、わかるな。不安とかも、そうだよね」

私は何も言えなくなった。夕立の後の陽光が、少し眩しかった。

「なるべくうまく吐き出していけるといいよね。ため込まないで」

夫は誰に向かって話しているんだろう。長男も、私も、何も言わず窓の外を見ていた。

三列目の次男と三男は、くたびれた体をだらんと傾けて、寝息を立てていた。

かぞえる ~アーノルド・ローベル『ぼくのおじさん』を読んで~

 私の母の実家は、高知県高知市にある。

 私たちきょうだい3人がまだ小さかった頃、母は春や夏の休みになると、しばしば高知に帰省した。1週間くらいは滞在しただろうか。仕事で忙しい父は東京に残った。今思えば、子ども3人を連れて高知へ行くのは大変だったにちがいない。

 小学生だった私は、この帰省が大好きだった。高知は東京よりもセミの鳴き声が大きく感じた。観光地も回ったが、それよりも、おばと近所でラーメンを食べたり、祖母の馴染みの喫茶店に行ったり、なんとなく親戚たちとたらたら過ごすのが好きだった。高知の親戚たちは、虫の居所が悪いと大人同士で文句を言い合ったりもするけれど、どこかのんびりとしていて、飾ったところがなくて、子どもと対等に付き合ってくれる人たちだった。

 4月から中学に入ろうという小学6年生の春休みのことだ。夜に家族で帰省した私たちを、当時70代の祖父母が、高知駅か空港まで迎えに来てくれた。いつもならみんなでタクシーに乗って市内の祖父母宅まで向かうところだが、このときは祖父と私だけ別行動をとり、市内を走る路面電車で帰ることになった。

 実を言うと、私はこの祖父のことが少しだけ怖かった。「怖い」と言うと大げさか。温厚で、めったに怒らない人だった。ただ、わいわいがやがやと親しみやすい親戚たちの中で、一人だけ近づきがたい印象があった。

 祖父は士官学校を出て海軍に入り、終戦後は高校の教員をしていたと聞く。古い家では当たり前のことだが、母の実家で一番「えらい」のは祖父だった。茶の間には籐製の揺り椅子が一脚あり、祖父は2階の寝室から降りてくると、この椅子に深々と腰を落ち着けた。祖父がいると、場の雰囲気が少しだけピリッとした。大声で騒ぐと母や祖母から叱られたし、テレビは子ども向けの番組から時代劇やニュースに変えられた。

 当時は70代の初めだったはずだ。あの頃の70代というのはもう立派な「おじいさん」で、たびたび帰省しても祖父と一緒に遊んだり、どこかへ出かけたりした記憶はほとんどない。若かった頃の写真を見ると、私の2歳上の兄とそっくりの顔をしていた。どちらかと言えば、祖父は私よりも兄のことを気に入っていると、なんとなく思っていた。

 私たちが二人きりで行動するのは、あの晩が初めてだったと思う。

 夜の高知市内を、路面電車はガタゴトと体を震わせて走った。中心部のおびさんロード商店街。当時は今よりもネオンが明るかったけれど、東京に住む私にはひどくさみしく思えた。がらがらの車内で、私と祖父は隣り合って座った。やせてマッチ棒のような祖父の体からは、するめいかのような匂いがした。私はなるべく祖父の視線を避けたかったが、かと言って避けているのを気付かせてはならないという思いもあり、どんな風にしていたらいいか分からなかった。「早く家に着かないかな」とばかり考えていた。

 そんな私の心境を察したのか、祖父が私の肩をトントンとたたいた。差し出された小さなメモ用紙を読むと、「あと4つで着く」と書いてあった。

 祖父は咽頭がんを患い、声帯の一部を切り取っていた。声を出すには、のどに開けた穴に金属製のチューブを入れなければならない。このため、祖父は人前ではほとんど話すことがなく、筆談で用を済ませていた。家庭では時折話したが、声量や声音の調整は難しく、壊れたラジオのような音がして、子どもの私はビクッとしたものだった。先ほど祖父のことを「怖かった」と書いてしまった理由を探せば、ここに行き着く。私は祖父の本来の声を聞いたことがなかった。

 祖父のメモを読んであいまいにうなずき返した私は、また車窓へと目を戻した。路面電車は駅と駅との距離が短い。あと4つ、あと3つ……。心の中で指を折ってかぞえながら、車窓の風景に目を奪われているふりをした。

 そんな孫に、祖父がどんなまなざしを向けていたか、私は考えたことがなかった。


 アーノルド・ローベル(三木卓・訳)の『ぼくのおじさん』は、こんなあらすじだ。

 ぞうのこどもの「ぼく」。かあさんととうさんはある日、船旅に出たまま行方不明になってしまう。ひとりぼっちになったぼくを、年をとった「おじさん」が訪ねてきた。

  「さあ そんな くらいところからでておいで」

  「ぼく どこへ いくの?」

  「わしの ところへ くるんだよ」

 ふたりは汽車に乗っておじさんの家へ向かった。車中、おじさんはおかしなことをした。

  「ひとつ ふたつ みっつ。おや ぬかしてしまった」

  「ひとつ ふたつ みっつ よっつ。ああ また ぬかしてしまった」

 おじさんは車窓を流れる家々や電柱のかずをかぞえようとしては、そのたびに多すぎて失敗してしまうのだった。

 おかしなおじさんとの共同生活がはじまった。夜明けにおたけびをあげたり、一緒にうたをつくったり。

 そうして数日過ごしていると、ある日おじさんの家に電報が届いた。ぼくのかあさんととうさんは海で救助され、無事だった。

 ふたりは再び汽車に乗った。

  「ひとつ ふたつ みっつ よっつ。」

  「おうち かぞえているの?」

  「いいや」

  「でんちゅう かぞえているの?」

  「いいや。こんどは そうじゃないんだ」

 


 先日、子どもを図書館につれていった時、たまたまこの本を手にとった。自分が小さいころには読んだことがなかった。状況はまったく違うけれど、私はふと、祖父と乗った路面電車のことを思い出していた。

 私が通過する駅の数をかぞえていた時、祖父はなにをかぞえていただろうか?

 なぜ私たちは二人だけ路面電車で帰ったのか。はっきりと覚えていないが、祖父の提案だったように思う。あの頃私は中学受験をし、4月から都内の私立中学に入学することが決まっていた。そのことを祖父がとても喜んでいたと、後に母から聞いたことがある。

 数年後、祖父は亡くなった。

 中学に入ると私は部活動や友達付き合いに忙しくなり、高知から足が遠のいてしまった。

 路面電車の思い出は、小さな悔恨と、それより一回り大きな安らぎとをもって、私の心に残っている。

子どものスイカ

命の在り方

 「命の選別」という言葉が、このところよく目に入ってきて、参っていました。

 以前「ウネラのブログ」で、「『(人間の)生産性』というワードに相当やられていたが、友人が手を差し伸べてくれた」というようなことも書きました。

 そうした言葉への過敏な反応は、私自身が小学生~中学生だった3年8カ月の間、脳死の兄と生きてきたことに起因している、と自覚しています。

 子どもの私には(もちろん大人にも)言い尽くせないほど衝撃的なことでしたし、自分が生きていること自体が揺らぐというか、望むと望まざるとにかかわらず、「生命に対する問い」から逃れられなくなった、常にそれを迫られるようになったことは、間違いありません。

 兄のことはなるべくきちんと書き残したいと思いつつも、やはりなかなか筆が進みません。兄が亡くなってから20年以上経った今、ようやくそのことと少しずつ向き合えるようになってきた、というくらいです。

 脳死の兄が15歳だった3月。一般的には公立高校受験の結果がわかり、中学3年生が卒業を迎える時期の、ある日のことです。兄の病室のドアの前に、使い古された一着のバスケットボールのユニフォームとともに、一通の手紙が置いてありました。兄が小6で倒れる前からの、親友からのものでした。

 本当は一切手を入れず、その全文をここに掲載したいくらいなのですが、今現在私がご本人とすぐにはコンタクトをとれず、先方の意向を聞けないため、以下、ご本人やその周辺が特定される情報をできるだけ削ぐなどの編集をした上で、一部を引用します。


~前~中略~

 別に体のどこが不自由でもないのに、自分の人生を恨む俺を、お前の心臓の鼓動が、生命の息吹が、励ましてくれる。支えてくれる。俺が社会の役に立つ人間になれば、俺を支えているお前は、法律がどうだこうだよりもずっと生きている意味があり、権利がある

 お前は十分だ。支えられているのは俺だけじゃないはずだ。お前のおやじもおっかあも、妹も、じじいもばばあも、たくさんいる。胸を張って生きろ。精一杯生きろ。~中略~

  ここに俺は、俺のためにとお前のために、立派な人間になることを誓う。「お前、いい友を持ったな。」俺もいい友を持ったと思う。

 こんな事、口で言うのはこっばずかしいので手紙に書いた。お前は、おきたいときにおきろ。おきれるときにおきろ。だが、勝手に死ぬなよ。頼むぞ。高校になって大変になるかもしれないが会いたいときに会いに来る。(いいだろう。)

  俺の涙や汗のにじんだユニフォームだ。俺をわすれんなよ。忘れたら思い出せ。このやろー。(このやろーなんていったらおこられるな。)

  きったねー字で悪ぃ。


 この頃、両親はいわば兄に「完全看護」、付き切りの状態で、3時間ごとのバイタルもほぼ自分たちの手で行っていました(母が看護師であったことがそれを可能にさせた部分も大きいと思われます)。

 子どもである私がそこに介入することは不可能ですから、闘病期間中の多くは、半日~一日ごとに兄と両親に面会する状態が続きました。兄の変わり果てた姿には、正直目を覆いたくなるような思いもありましたが、一方で、看護にあたる父母が日に日に憔悴仕切っていく姿にも、危機感と恐怖を感じました。半日ごとに大いに衰弱していく様子が見てとれるのです。

 「このまま看護を続けたら、両親が持たないかもしれない」

 そう考えていたたまれなくなったことは数知れません。

 ですが一方で、先の兄の親友の手紙にあったように、またそれ以上に、両親には「兄が生き延びていること」によって自身の生命を支えているようなところがみられました。それは、誰にも侵すことのできない領域なのではないでしょうか。

 私はここまで述べてきた体験談を美化したいとはけして思っていません。むしろ、そのことによって背負ってきたものの大きさに、今更ながら愕然としています。背負うことがなければ楽だっただろうと考えることも数知れません。

 「いつまで死人の看護を続ける気か」

父に、面と向かってそう言ってきた人もいたそうです。

その方はおそらく、当時30代の、いわゆる「働き盛り」の父が、回復の見込みの極めて低い子どもの看護に費やす時間を「もったいない」「お前(父)にも生きる道がある」といったニュアンスで捉えていたのでしょう。

 けれど同じことを、前述した、当時中学3年生の兄の同級生は「俺を支えているお前は、法律がどうだこうだよりもずっと生きている意味があり、権利がある」と言っています。

両親は、兄の看護をし続けなければ生きていくことが難しい心境に追い込まれていました。また、いわゆる「健常」な人たちが、「脳死の人(兄)の生に支えられている」という状況が、少なからず存在していました。脳死の人の生を支えに自身の生命を保っていたという人たちが、確かにいたのを、私は子どもながらに見つめていました。

 私が言えることは、それくらいです。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。